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'''伊良子  光順'''(いらこ みつおさ<!-- 「光順」の読みについてはノートを参照ください。-->、[[文政]]6年[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]([[1823年]][[10月7日]]) - [[明治]]14年([[1881年]])[[9月23日]])は、[[幕末]]から[[明治時代]]初期の日本の[[医師]]。[[号 (称号)|号]]は無剛。現在の[[奈良県]][[奈良市]]出身で、[[典薬寮]]に所属し[[孝明天皇]]と[[明治天皇]]に仕えた。
 
==事跡==
===生い立ち===
61823[[]][[]][[]]  [[ ()|]]
 
[[]][[]]婿[[]][[]][[]][[]]15[[1844]]婿3[[]]
 
[[]]21217[[1846]]114[[|]][[]]|[[]][[]]2[[1849]]26
 
===天脈拝診===
嘉永4年([[1851年]])、光順はその2年ほど前から痔に悩まされていた[[孝明天皇]]の治療を命ぜられる。[[安政]]2年には[[従五位|従五位下]]に推叙された。
20[[]][[]][[]][[]]
 
===主上不予===
4[[1851]][[]][[]]2[[1849]][[]][[]][[]]
[[]]21211[[1867]][[116]][[]]12[[]]
 
12調1415
410281851[[1121]][[]][[]][[]][[]]136[[]]
 
しかし、光順の日記における12月25日の条には「天皇は痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに亡くなられた」と記されている。
[[]]2[[1855]]32[[|]]474[[1857]]
 
[[殿]][[]]
===天皇違例===
[[]]21211[[1867]][[116]]12[[]]
 
12調1415
 
12月16日([[1月21日]])、隨・経由・光順と、経由の息子・経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡([[天然痘]])に罹患している可能性が強まる。17日には正式に[[武家伝奏]]などへ天皇の病名を発表、以後、天脈拝診の資格を持つ15人の医師を下記の3班に分け、24時間体制での治療が始まった。
*'''第1班'''
**筆頭:藤木篤平 (従四位上 典薬権助兼伊勢守)
**執匙:高階経由 (従四位下 典薬少允兼安芸守)
***山本正文 (従五位上 図書頭兼安房守)
***高階経支 (従五位下 丹後守)
***高階経徳 (正六位下 筑前介)
*'''第2班'''
**筆頭:山本隨 (従四位下 典薬大允兼大学助兼大和守、のちに恭隨に改名)
***河原実徳 (正五位下 典薬少属兼伊予守)
***西尾兼道 (従五位上 土佐守)
***大町淳信 (従五位下 弾正大弼兼周防守)
***久野恭 (正六位下 出羽介)
*'''第3班'''
**筆頭:藤木静顕 (従五位上 近江守)
***伊良子光順 (従五位上 織部正兼陸奥守)
***福井登 (従五位上 主計助兼豊後守、後に貞憲に改名)
***三角有紀 (正六位下 摂津介)
***伊良子光信 (従六位上 阿波介)
通常、痘瘡は治癒までに一定の病状プロセスがあることから、典医たちもおおよその病期を予測して天皇の治療計画を立てていた。実際、発症から11日目の12月23日までは、典医たちの予測どおりに病状が進行し、「御順症」であった。しかし、24日の夕方、天皇の容態は急変する。光順の日記にこの日の記述はないが、翌25日の記録には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と静顕が体をさすり、光順が膏薬を張り、班に関係なく昼夜寝所に詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。
 
崩御から数日間、典医たちは交代で天皇のなきがらの傍に詰めるよう命じられた。その間の12月30日、[[カルテ]]に近い事務的な記述が大半だった拝診日記に、光順は「御舟ト申ス物ニ月サス」と記した。御舟とは[[棺]]のことで、真冬の静まり返った夜、天皇の棺に月明かりが差す様子を叙情的に写生しており、僅か10文字の短い一文ながら、長年仕えた主君を失った光順の心中を伺うに余りある記述といえる。
 
[[殿]][[]]
 
===明治時代===
[[]][[]][[]][[]]2[[1869]][[]][[]]
 
3[[]]4[[1871]]
 
明治14年([[1881年]])[[9月23日]]、光順は京都で生涯を閉じ、[[紀伊郡]]深草村(現在の[[京都市]][[伏見区]])の[[宝塔寺]]に葬られた。享年59。
 
==位階官職履歴==
※日付は旧暦
* [[弘化]]2年([[1845年]])[[12月17日 (旧暦)|12月17日]] 叙[[従六位|従六位上]]・任[[備前国|備前介]]
* [[嘉永]]5年([[1852年]])[[1月27日 (旧暦)|1月27日]] 叙[[正六位|正六位下]]
* [[安政]]2年([[1855年]])[[9月23日 (旧暦)|9月23日]] 叙[[従五位|従五位下]]・遷[[陸奥国司|陸奥守]]
* 安政4年([[1857年]])月日不詳 任[[織部司|織部正]](陸奥守如旧)
* [[明治]]2年([[1869年]])
** [[2月23日 (旧暦)|2月23日]] 叙[[正五位|正五位下]]
** [[7月7日 (旧暦)|7月7日]] 行政官達により百官受領廃止、並びに位階上下廃止
** [[9月3日 (旧暦)|7月7日]] 任少典医
* 明治3年([[1870年]])[[11月19日 (旧暦)|11月19日]] [[太政官布告]]により位階廃止、改めて叙[[正七位]]
* 明治4年([[1871年]])[[8月17日 (旧暦)|8月17日]] 少典医免官
* 明治5年([[1872年]])[[1月18日 (旧暦)|1月18日]] 位階返上
 
==参考資料==
*伊良子光孝 『天脈拝診  孝明天皇拝診日記』 (「医譚」復刊47・48号、1976年)
*山田重正 『典医の歴史』 (思文閣出版、1980年)
*[[日本歴史学会]] 『明治維新人名辞典』 (吉川弘文館、1981年)
 
==「天脈拝診日記」と孝明天皇暗殺説==
''[[孝明天皇#崩御にまつわる論争]]を参照のこと''
 
==参考資料==
*伊良子光孝 『天脈拝診 孝明天皇拝診日記』 (「医譚」復刊47・48号、1976年)
*山田重正 『典医の歴史』 (思文閣出版、1980年)
*[[三上景文]] 『[[地下家伝]]』
*[[京都府立総合資料館]]蔵 『下橋家資料』
*[[日本歴史学会]] 『明治維新人名辞典』 (吉川弘文館、1981年)
==関連項目==
*[[伊良子道牛]]
*[[伊良子光顕]]
 
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[[Category:19世紀日本の医学者]]
[[Category:19世紀日本の医学者]]
[[Category:江戸時代の医学者]]
[[Category:江戸時代の医師]]
[[Category:幕末の人物]]
[[Category:伊良子家|みつおさ]]
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[[Category:1823年生]]