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=== 『コクリコ坂から』誕生秘話 ===
[[1980年]]には[[少女漫画]]﹃'''[[コクリコ坂から]]'''﹄の[[漫画原作]]を手がける<ref name="bunshun20110804" />。佐山によれば同作は﹃[[なかよし]]﹄編集部が作画の[[高橋千鶴]]を売り出そうと力を入れた作品だったようで、初回は新年号の巻頭カラーだったが、連載6回目で[[打ち切り]]が決まり全8話で完結したという<ref name="bunshun20110804" />。のちに佐山は﹃[[週刊文春]]﹄[[2011年]]8月4日号の告白記事で﹁大長編にするつもりで伏線を張るだけ張って、これから面白くなるところだったのに…﹂と苦笑する<ref name="bunshun20110804" />。 しかし、[[2011年]]になって同作は[[宮崎駿]]の企画・脚本で[[スタジオジブリ]]によって[[アニメーション映画|アニメ映画]]化され、[[興行収入]]44.6億円のヒットを記録する︵佐山曰く﹁'''ただ、ただ吃驚'''﹂﹁'''ただ、ただ不思議'''﹂とのこと<ref>ロマンアルバム﹃[[コクリコ坂から]]﹄[[徳間書店]]、[[2011年]]、109頁。</ref>︶。製作発表で宮崎は﹁︵﹃コクリコ坂から﹄は︶1980年頃、﹃なかよし﹄に連載されて不発に終わった作品である。高校生の純愛、出生の秘密ものであるが、明らかに[[1970年]]︵引用者注‥[[安保闘争#70年安保|70年安保闘争]]︶の経験を引きずる原作者︵男性︶の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したとも言えるだろう﹂とコメントを寄せている<ref>{{Cite web|date=|url=http://news.walkerplus.com/2010/1216/16/|title=ジブリ最新作﹃コクリコ坂から﹄、実は﹃耳をすませば﹄の対抗馬だった!|work=|author=|publisher=[[東京ウォーカー|Walkerplus]]|accessdate=2018-12-29}}</ref>。 製作に至るまでの経緯について[[鈴木敏夫]]など関係者の証言によれば、宮崎が別荘の[[山小屋]]で[[夏休み]]を取っていた時、姪が忘れていった﹃なかよし﹄を暇を持て余して仲間と回し読みしていたところ同作が載っており、これを気に入った宮崎は断片から全体の構想を膨らませたり<ref>ロマンアルバム﹃コクリコ坂から﹄徳間書店、2011年、108頁。</ref>、同行していた[[押井守]]や[[庵野秀明]]らと議論を交わしたりして、将来的に映画化することを心に誓っていたという<ref>{{Cite web|date=|url=http://eiga.com/news/20101216/1/|title=宮崎駿監督、﹁コクリコ坂から﹂吾朗監督に﹁映画監督は2本目が大事﹂|work=|author=|publisher=[[映画.com]]|accessdate=2018-12-29}}</ref>。なお押井は著書﹃誰も語らなかったジブリを語ろう﹄で﹁僕もこの漫画は読んでいて、﹃[[天空の城ラピュタ|ラピュタ]]﹄の頃だったかはっきりしないけど、みんなで宮さんの別荘に泊まっていたとき、退屈して回し読みしていたの。みんなというのは、僕に[[庵野秀明]]に[[山賀博之]]、もしかしたら[[前田真宏]]もいたかもしれない。みんな﹃なんだか胸があったかくなるなあ﹄とか﹃これで安らかに眠れる﹄とか言っちゃって。その頃から宮さんは﹃[[コクリコ坂から]]﹄をやりたいと言っていたから、かなり長い間、この企画を抱えていたことになる。ホント、宮さんも僕と同じように執念深い︵笑︶﹂と述懐している<ref>[[押井守]]﹃誰も語らなかったジブリを語ろう﹄[[東京ニュース通信社]]、[[2017年]]、218頁。</ref>。 |