「倉橋惣三」の版間の差分
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[[1882年]]︵明治15年︶12月28日に父親・政直と母親である﹁とく﹂の間に長男として生まれる。場所はとくの実家がある[[静岡県]]鷹匠町︵現・[[静岡市]][[葵区]]︶であった。[[1889年]]︵明治22年︶に[[岡山市]]の[[内山下]]︵うちさんげ︶小学校に入学する。 [[1892年]]︵明治25年︶、惣三が小学4年生の時、父親は息子を東京の学校で[[勉強]]させたいと思い、母親と惣三の二人のみを上京させて[[浅草区]]の[[花川戸]]にある[[台東区立浅草小学校|浅草小学校]]へ転校させる。しかし、父・政直は静岡の[[裁判所]]に努めて仕送りをする生活を送っていた。そのため、決して生活には余裕があるという訳ではなかったという記述も残されている。これには、実は父親の﹁人に劣ることが嫌い﹂という[[性格]]が原因でもあったといわれている。そのため、家庭生活は派手であったようだ。 [[1900年]]︵明治33年︶、惣三は[[東京都立日比谷高等学校|東京府尋常中学校]]︵後の東京府立一中・日比谷高︶を卒業し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学して寄宿舎西寮一番室の住人となった。 51行目:
[[1909年]]、[[上野陽一]]・[[大槻快尊]]・[[菅原教造]]らと共に[[心理学通俗講話会]]の設立に参画した{{Sfn|斉藤昭俊|1974|p=48}}。 [[1913年]]、[[東京女子高等師範学校]](現・[[お茶の水女子大学]])講師になる。この頃より、児童保護を﹁消極的﹂呼称として退け、﹁積極的﹂な児童愛護を提唱し、社会問題対策として政府、自治体が取り組むべきであるとし、また個人的な社会事業は﹁人道的篤志﹂に基づいて行うべきだと主張した。その後、日本幼稚園教会の主幹となり、機関誌﹃婦人と子ども﹄(後の﹃幼児と教育﹄)の編集にかかわりながら活動を続け、[[1917年]]には教授に就任した。 [[お茶の水女子大学附属幼稚園|東京女高師附属幼稚園]]の主事を長年務め、形式化した明治以来の[[フリードリヒ・フレーベル|フレーベル主義]]を改革、[[幼児教育]]の発展に尽くした。戦後、[[教育刷新委員会]]委員を経て、[[1948年]]に[[日本保育学会]]を創設した。倉橋は恩物中心のフレーベル主義を批判し、児童中心の自然の中で行う保育を生涯に渡って強調した。 |