光定 (僧)
平安時代の僧
生涯
●延暦17年︵798年︶、20歳のとき父母の死をきっかけに出家。山林で修行する。
●大同元年︵806年︶、僧勤覚のすすめにより上京し、師とすべき人物をさがす。
●大同3年︵808年︶、比叡山に登り日本天台宗の祖最澄に師事し、義真に﹁摩訶止観﹂を学ぶ。
●大同4年︵809年︶、止観業の年分度試に及第[1]。
●弘仁元年︵810年︶1月、宮中での金光明会において、天台宗の年分度者として得度。
●弘仁3年︵812年︶4月、東大寺で具足戒を受ける。ときに33歳。
● 12月、師最澄および泰範、円澄らほかの弟子とともに高雄山寺にて空海から胎蔵界灌頂を受ける。
●弘仁4年︵813年︶3月、泰範、円澄らとともに空海から金剛界灌頂を受ける[2]。
●弘仁5年︵814年︶、
●弘仁6年︵815年︶3月、嵯峨天皇の御前に召され、従五位下玄蕃頭真苑雑物︵もと興福寺僧︶と天台宗の教義をめぐって討論。
●弘仁9年︵818年︶2月、最澄から大乗戒壇設立の構想を打ち明けられる。以後、設立実現まで最澄の使者として朝廷との交渉に奔走。﹃文徳天皇実録﹄の光定卒伝は、設立の勅許は光定の力によると記している。
● 4月、勅命により最澄が祈雨した際、参列してともに行ず。降雨の験あり、褒賞として修行満位に叙せられる。
● 7月、最澄が比叡山内諸院の管理者を定めた際、戒壇院知事、宝幢院別当となる。
● 9月、伝灯満位に叙せられる[3]。
●弘仁13年︵822年︶6月4日、最澄入滅。11日、大乗戒壇設立の勅許下る。その後、天台宗に対する年分度者の国講師・読師の任命も最澄の主張どおり認められた。
●弘仁14年︵823年︶4月、延暦寺止観院︵根本中堂︶にて座主義真を戒師として大乗戒受戒。嵯峨天皇より宸筆の戒牒︵延暦寺蔵。国宝︶を賜る[4]。
●天長2年︵825年︶、天台僧としてはじめて天王寺講師となる。
●天長5年︵828年︶、伝灯法師位に叙せられる。
●天長10年︵833年︶、法隆寺講師となる。
●承和2年︵835年︶、仁明天皇に召されて常に宮中で近侍するようになり、内供奉十禅師に任ぜられる。
●承和5年︵838年︶、伝灯大法師位に叙せられる。また、延暦寺戒和上となる。
●嘉祥3年︵850年︶12月、光定の表請により止観業の年分度者が2人加増される。[5]
●仁寿4年︵854年︶、文徳天皇の勅命により延暦寺別当に任ぜられる。また、延暦寺に天皇御願の四王院を建立。
●天安2年︵858年︶7月、80歳を祝して朝廷から度者、絹、布、綿、銭、米などを賜る。
● 8月10日、延暦寺八部院坊にて入寂。享年80。
光定と文学
参考文献
●﹃伝述一心戒文﹄…光定自身の著作。成立は承和年間[6]。
●﹃延暦寺故内供奉和上行状﹄…﹃続群書類従﹄第8輯下所収。成立は貞観16年︵874年︶5月。円豊らが著した光定の伝記。
●﹃文徳天皇実録﹄天安2年8月10日条の光定卒伝…﹃延暦寺故内供奉和上行状﹄にもとづいて書かれている。
補注
(一)^ 天台宗の年分度者は止観業1人、遮那業1人の計2人が、桓武天皇によ
り大同元年1月に新設されたが、天皇の死後、平城朝では年分度試が実施されず、嵯峨朝になったこの年はじめて実施された。
(二)^ その後、光定、円澄らは叡山に戻ったが、泰範はそのまま空海のもとに留まった。
(三)^ ﹃伝述一心戒文﹄による。﹃延暦寺故内供奉和上行状﹄では弘仁10年2月。
(四)^ 宸翰#嵯峨天皇の宸翰参照。
(五)^ これにより天台宗年分度者は止観業3人、遮那業1人、金剛頂業1人、蘇悉地業1人の計6人となった。
(六)^ 承和2年4月の藤原良房の権中納言昇任に言及していること、承和5年1月に右大臣となった藤原三守を大納言としていることから、承和2年4月以降、承和5年1月以前の成立とみられる。