「内藤鳴雪」の版間の差分
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| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->
| alma_mater =
| period = [[1892年]] - [[1926年]]
| genre = [[俳句]]
| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
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== 生涯 ==
伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十︵やそ︶の長男として、藩の[[江戸]][[江戸藩邸#中屋敷|中屋敷]]に生まれた。8歳のときから父に[[漢籍]]を教わり、また、[[草双紙]]類を好み、寄席や義太夫も知った。なお、同時期に小使として出仕していた[[原田左之助]]︵後の[[新撰組]]幹部で十番隊隊長。当時15,6歳︶と会っており、遊んで貰った事もあった<ref>PHP新書 新選組証言録: ﹃史談会速記録﹄が語る真実 著者: 山村竜也106p</ref>。1855年︵安政2年︶に、中屋敷在中に[[安政の大地震]]で被災するも、鳴雪を含め屋敷内関係者全員が無事だった<ref>洋泉社﹃幕末証言﹁史談会速記録﹂を読む﹄ 著者‥菊池明P15</ref>。1857年︵[[安政]]4年︶︵11歳︶、父の転勤で一家の故郷[[松山市|松山]]に移り、[[藩校]][[明教館]]で[[漢学]]を学び、また、[[剣術]]も習ったが、﹃武﹄よりは﹃文﹄に優れた。翌年房之進が[[京都]]の[[留守居]]役となり、一家が8ヶ月だけ京都に住んだ時期にも、若党に芝居・寄席・義太夫へ連れられた。その後も長く芝居好きだった。 1863年︵[[文久]]3年︶︵17歳︶、[[元服]]して師克を名乗り、幹部の卵として明教館に寄宿し、[[大原観山|大原武右衛門]]︵[[正岡子規]]の母方の祖父︶に漢詩を学んだ。1864年藩主の嗣子[[松平定昭]]の[[小姓]]となり、翌年の第二次[[長州征討|長州征伐]]に従った。1867年︵[[慶応]]3年︶、隠居した前藩主[[松平勝成]]の側付とな 1880年︵明治13年︶︵33歳︶、[[文部省]]へ転じ、累進して1886年、書記官・往復課長となった。旧藩主[[久松定謨|久松家]]の諮問員に加わり、常盤会<ref>[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/syukusya.html]</ref>寄宿舎監督を引き受けた。東京に学ぶ松山の子弟の寮である。▼ [[1890年]]︵[[明治]]23年︶、参事官兼普通学務局勤務となって、翌年退官し、寄宿舎監督を続けた。寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の[[河東碧梧桐]]・[[五百木良三|五百木瓢亭]]・[[勝田主計]]らに、漢詩の添削をしてやった。1892年、21歳年下の子規を、俳句の師とした。子規の紹介で、[[伊藤松宇]]らの互選句会﹃椎の友﹄に加わった。俳風は、人柄そのままに恬淡・洒脱だった。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。▼ ▲1880年︵明治13年︶︵33歳︶、[[文部省]]へ転じ、累進して1886年、書記官・往復課長となった。旧藩主[[久松定謨|久松家]]の諮問員に加わり、常盤会[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/syukusya.html]寄宿舎監督を引き受けた。東京に学ぶ松山の子弟の寮である。 [[1893年]]([[明治]]26年)、久松家から旧藩事蹟取調を嘱託された。▼
▲1890年、参事官兼普通学務局勤務となって、翌年退官し、寄宿舎監督を続けた。寄宿生の、正岡子規・竹村黄塔・その弟の[[河東碧梧桐]]・[[五百木良三|五百木瓢亭]]・[[勝田主計]]らに、漢詩の添削をしてやった。1892年、21歳年下の子規を、俳句の師とした。子規の紹介で、伊藤松宇らの互選句会﹃椎の友﹄に加わった。俳風は、人柄そのままに恬淡・洒脱だった。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 1897年(明治31年)(50歳)、[[高浜虚子]]が東京で続刊した[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]の投句を選び、『老梅居雑話』ほかを掲載し、また、[[萬朝報|万朝報]]・[[読売新聞]]・[[中外商業新報]]・[[日本人 (雑誌)|日本人]]・[[日本及日本人]]・[[太陽 (博文館)|太陽]]などの俳句選者を輪番的に勤めた。▼
▲1893年、久松家から旧藩事蹟取調を嘱託された。
知られていなかった[[与謝蕪村]]の句集を探し合い、輪講してホトトギスに掲載。上梓されたのが『蕪村句集講義』である。博覧な人物だが、矢張り資料を揃えて輪講にのぞもうとしたところ、「月並みなことは止めておきましょう」と子規に言われ手ぶらで講義に臨んだ。このため同著について誉められると若干の後悔も残ったとされる。
▲1897年︵明治31年︶︵50歳︶、[[高浜虚子]]が東京で続刊した[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]の投句を選び、﹃老梅居雑話﹄ほかを掲載し、また、[[萬朝報|万朝報]]・[[読売新聞]]・[[中外商業新報]]・[[日本人 (雑誌)|日本人]]・[[日本及日本人]]・太陽などの俳句選者を輪番的に勤めた。 1917年︵大正9 ▲1907年に舎監をやめた後も、寮の世話役でいた。[[愛媛県]]教育協会の名誉会員を勤め、また、史談会の中心にもなった。 [[1925年]]︵[[大正]]14年︶、[[肋膜炎]]を病み、軽い[[脳溢血]]で臥床し、翌年、[[笄町|麻布笄町]]︵現 ▲1917年︵大正9月︶︵70歳︶、旧寮生の発議による寿碑[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/kuhi6.html]、﹃元日や一系の天子不二の山﹄が、松山市[[道後公園]]に建ち、その除幕式に招かれた。その事の前に、東京では祝賀の演能が催され、﹃[[自然居士 (能)|自然居士]]﹄の[[シテ]]を高浜虚子が、[[ワキ]]を河東碧梧桐が舞った。 ▲1925年、[[肋膜炎]]を病み、軽い[[脳溢血]]で臥床し、翌年、麻布笄町︵現・[[西麻布]]四丁目︶の自宅で没した。﹃天真院鳴雪素行居士﹄。故人が1919年に[[青山霊園]]に設けた墓所へ、葬られた。 :只たのむ湯婆一つの寒さかな
== おもな文業 ==
=== 単行本 ===
* 『俳句独習』大学館 俳句入門叢書(1904)
* 『<small>春夏</small>芭蕉俳句
*
* 『<small>秋冬</small>芭蕉俳句評釈』
* 『[[七部集]]俳句評釈』
**『芭蕉研究資料集成 明治篇 作品研究4』 *
**『蕪村研究資料集成 作品研究3』クレス出版(1993)に収録
* [[寒川鼠骨]]と共著:『<small>秋冬</small> 大家規範俳句集』、大学館 俳句入門叢書10(1905.12)▼
* 『元禄二十家俳句講義』俳書堂(1906)
* 『<small>
**『蕪村研究資料集成 作品研究3』 * 『
▲* 『老梅居俳句問答 上下』、俳書堂(1907.4)
* 『
* 『
* 『鳴雪
▲* 『鳴雪俳話と評釈』、博文館(1909.11)
* 共著:『蕪村句集講義』、ホトトギス発行所・俳書堂(1900 - 1911)→ 「『[[平凡社東洋文庫]]』全3巻、(2010.12)より刊」▼
:『春之部』『夏之部』『秋之部』『冬之部』の分冊と『春夏秋冬』との5冊
* 『太祗俳句評釈
* 『中外俳句抄』
* 『蕪村句集講義 春之部』
* 『鳴雪俳句鈔』
▲* 『俳句のちかみち』、広文堂(1916.6)
* 武田鶯塘と共著:『句評及俳話』、雲泉堂(1916.10)▼
▲* 『秀抜六千句』、南北社(1917.8)
▲* 『俳句はいかに作りいかに味ふか』、[[アルス (出版社)|アルス]](1920)
▲* 『俳句評釈』、大日本俳句講習会(1921.2)
▲* 『鳴雪自叙伝 (附録 鳴雪俳句抄録)』、岡村書店(1922.6)→ 青葉図書(1976.12)→ [[岩波文庫]](2002.7)
* [[佐藤紅緑]]と共著:『新しき俳句と其作法』、金鈴社(1923.6)▼
===共著===
* [[寒川鼠骨]]共編『<small>春夏</small> 大家規範俳句集』大学館 俳句入門叢書(1905)
▲* 松浦為王編:『鳴雪俳句集』、春秋社(1926.6)
▲* 『俳話』、大東出版社 大東名著選39(1942)
▲* 子規・[[高浜虚子|虚子]]・[[河東碧梧桐|碧梧桐]]との共編著
=== 俳句集を載せた文学全集類 ===
* 『現代日本文学全集91 現代俳句集』、[[筑摩書房]](1973)
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* 『現代俳句集成2』、[[河出書房新社]](1982.8)
* 『群馬文学全集15』、群馬県立土屋文明記念文学館(2001.3)
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 阿部里雪:『新編 子規門下の人々』、愛媛タイムス社(1961)→愛媛新聞社(2004)▼
* [[昭和女子大学]]近代文学研究室:『近代文学研究叢書25』、昭和女子大学近代文学研究室(1966)
* 畠中淳:『松山子規会叢書 17 内藤鳴雪』、松山子規会(1985)▼
* 稲村徹元:『近代作家追悼文集成 20 滝田樗陰 内藤鳴雪』、ゆまに書房(1992)▼
▲* 内藤鳴雪:『鳴雪自叙伝』、岩波文庫(2002)
==
* [[柴田宵曲]]『子規居士の周囲』、新版・岩波文庫(2018)
== 外部リンク ==
* {{青空文庫著作者|684|内藤 鳴雪}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ないとう めいせつ}}
[[Category:19世紀日本の俳人]]
[[Category:20世紀日本の
[[Category:戦前日本の文部官僚]]
[[Category:東京都出身の人物]]
[[Category:愛媛県立松山東高等学校出身の人物]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:幕末伊予松山藩の人物]]
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