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1880年︵明治13年︶︵33歳︶、[[文部省]]へ転じ、累進して1886年、書記官・往復課長となった。旧藩主[[久松定謨|久松家]]の諮問員に加わり、常盤会[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/syukusya.html]寄宿舎監督を引き受けた。東京に学ぶ松山の子弟の寮である。 1897年︵明治31年︶︵50歳︶、[[高浜虚子]]が東京で続刊した[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]の投句を選び、﹃老梅居雑話﹄ほかを掲載し、また、[[萬朝報|万朝報]]・[[読売新聞]]・[[中外商業新報]]・[[日本人 (雑誌)|日本人]]・[[日本及日本人]]・[[太陽 (博文館)|太陽]]などの俳句選者を輪番的に勤めた。 53行目:
知られていなかった[[与謝蕪村]]の句集を探し合い、輪講してホトトギスに掲載した。
1917年︵大正9月︶︵70歳︶、旧寮生の発議による寿碑[http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/kuhi6.html]、﹃元日や一系の天子不二の山﹄が、松山市[[道後公園]]に建ち、その除幕式に招かれた。その事の前に、東京では祝賀の演能が催され、﹃[[自然居士 (能)|自然居士]]﹄の[[シテ]]を高浜虚子が、[[ワキ]]を河東碧梧桐が舞った。 :只たのむ湯婆一つの寒さかな
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