「冊封体制」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2016年9月}}
'''冊封'''︵さくほう︶とは、 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は
*「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上
*「[[正朔]]」を奉ずる(「天子」の[[元号]]と天子の制定した
などを行った<ref>原田,2003, pp.1-3</ref>。
﹁方物﹂は[[元日|元旦]]に行われる﹁ == 概要 ==
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冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、[[封建]]とほぼ同義である。
冊封を受けた国の君主は、 したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。
冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。
冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。
冊封国には毎年の[[朝貢]]、中国の[[元号]]・[[暦]]︵ ただし、これら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外である。例えば、朝貢の頻度は、冊封国側の事情によってこれが左右される傾向が見られる。 正朔についても、中国向けの外交文書ではこれを遵守するが、国内向けには独自の 冊封が行われる中国側の理由には、[[華夷思想]]・[[ 冊封国側の理由としては、中国からの軍事的圧力を回避できることや、中国の権威を背景として周辺に対して有利な地位を築けること、また、当時は朝貢しない外国との貿易は原則認めなかった中国との貿易で莫大な利益を生むことができる、などがあった。 また、冊封国にとっては冊封国家同士の貿易関係も密にできるという効果もあった。なお朝貢自体は冊封を受けなくとも行うことができ、この場合は﹁蕃客﹂︵蕃夷の客︶という扱いになる。また時代が下ると、朝貢以外の交易である[[互市]]も行われるようになり、これら冊封を受けないで交易のみを行う国を互市国と呼ぶようになる。 冊封の最も早い事例としては前漢初期に[[南越国]]・[[衛氏朝鮮]]がそれぞれ南越王、朝鮮王に冊封されたことが挙げられる。その後、時代によって推移し、[[清]]代には[[インド]]以東の国では[[ムガル帝国]]と ==「冊封」を媒介とした「天子」と周辺諸国・諸民族の外交の歴史==
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==== 南越王国 ====
中国南部から東南アジアにいたる交易ルートは、戦国時代、[[楚 (春秋)|楚]]が掌握していたが、[[秦]]にいたり、 === 三国〜南北朝と近隣諸国・諸民族 ===
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# 貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)とを定期的に中央政府に納入する内地諸州(10道315州県)
# 王朝に服属した蕃夷が貢賦(調庸物・貢献物)と版籍(地図と戸籍)を不定期に納入し、長官を世襲する羈靡諸州(800州府)
#*
# 王朝から冊封を受けて中華
#*
# 貢物のみを不定期に朝貢する遠夷(入蕃)
#*
=== 宋・元・明と近隣諸国・諸民族 ===
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しかしこの前田論に於いては、そういった連関関係を作っている要因に付いては言及されないままであった。それに対して西嶋冊封体制論は冊封に着目することによってこれに一定の回答を与え、「東アジア世界」という「その中で完結した世界」の存在を提唱するに至った。
西嶋は「東アジア世界」を特徴付けるものは[[漢字]]・[[儒教]]・[[仏教]]・[[律令制]]の四者であるとし、これらの文化が伝播できたのも冊封体制がある程度の貢献をしていると見ている<REF>そのため冊封体制論は基本的に政治構造論であるが、文化論の趣きを得ることにもなる。</REF>。「東アジア世界」の範囲は[[漢字文化圏]]にほぼ合致し、含まれる国は現在の区分で言えば、
このように当初は「東アジア世界」を説明するためのものであった冊封体制はその後、唐滅亡後にも拡大され、清代のように明らかに東アジア世界と冊封体制の範囲とが異なる時代にまで一定の言及をしている。
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[[五胡十六国時代]]には高句麗が[[前燕]]により征服されて冊封を受けるようになり、前燕を滅ぼした[[前秦]]に対しても朝貢した。新羅もまた高句麗にしたがって前秦に対して朝貢した。一方、二国への対抗上、百済は[[東晋]]に対して朝貢し、冊封を受けている。 [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]に入ると、朝鮮三国は[[南朝 (中国)|南朝]]から冊封を受けた。この時期、百済は倭の影響下、新羅は倭の支配下にあり、中華 この後、北朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。
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[[File:The invasion of Goguryeo.png|360px|right|thumb|隋の高句麗遠征([[隋の高句麗遠征]])<br>高句麗が隋の敵突厥と結ぶ様子を見せたため、隋は高句麗の藩属国としての非礼を責めてこれを攻撃した]]
他方、中国王朝との接触を行っていなかった[[倭国]]は、隋に対して[[遣隋使]]を送るようになる。この際煬帝に対して﹁{{lang|zh|日出處天子致書日沒處天子無恙云云}}﹂︵﹃ 隋が滅び、唐が成立すると、[[624年]]に朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で[[淵蓋蘇文|泉蓋蘇文]]による権力奪取が起きるとこれを理由として2代[[太宗 (唐)|太宗]]は高句麗遠征︵[[唐の高句麗出兵]]︶を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。 141行目:
[[朱元璋|洪武帝]]が元を北に追いやり︵[[北元]]︶、[[明]]が成立すると冊封体制と東アジア世界が再生される。朝鮮半島に於いては高麗に代わって[[李氏朝鮮]]が興り、明の冊封を受けて朝鮮王とされた。 この頃の日本では、朝廷が分裂した[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]という特殊な状況もあり、南朝の なお、日本では[[懐良親王]]が明の太祖からの朝貢を促す書簡を無礼と見なし、使者を斬り捨てたことに表れるように、中華中心の華夷観を否定し対等外交を志向する向きが強かった。南朝・北朝および室町幕府いずれも天皇は冊封を受けておらず、前者は天皇の尊厳を傷付けることなく、国内政治に利用し得る﹁日本国王﹂の称号を得るため、後者は、実権を握り、天皇に代替する立場としての﹁[[日本国王]]﹂になるためという思惑が、それぞれ指摘される。 179行目:
=== 浜下武志 ===
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=== 渡辺信一郎 ===
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=== その他 ===
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=== 概説書 ===
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*原田禹雄『琉球と中国:忘れられた冊封使』吉川弘文館,2003.ISBN 4-642-05553-3
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*宮崎市定『世界の歴史6:宋と元』中央公論社,1975.ISBN 4-12-200179-X
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== 関連項目 ==
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