「冨士原清一」の版間の差分
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== 略歴・人物 ==
[[1908年]](明治41年)1月10日、[[大阪府]]に生まれる。[[1926年]](大正15年)、[[大阪府立北野高等学校|大阪府立北野中学校]]を卒業、[[法政大学]][[予科]]に入学。[[1934年]](昭和9年)に[[法政大学]][[文学部|法文学部]][[仏文学科|文学科]](仏文専攻)を卒業。卒業後は一時大阪に帰るが、[[1937年]](昭和12年)に友人である[[春山行夫]]の紹介で[[第一書房 (第1期)|第一書房]]編集部に勤務。その後、[[太平洋協会]]調査局に勤務する。[[太平洋戦争]]で[[召集]]され、1944年(昭和19年)9月18日、[[朝鮮]][[木浦]]沖にて戦没<ref>{{Cite book|title=京谷裕彰「冨士原清一年譜」(『薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成』所収)|date=|year=2019
北野中学在学中から詩作を始める。
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法政予科在学中の[[1927年]]︵昭和2年︶、[[上田敏雄]]・[[上田保 (英文学者)|上田保]]・[[北園克衛]]・[[山田一彦]]らと日本初の[[シュルレアリスム]]専門雑誌﹃薔薇・魔術・学説﹄を創刊︵発行人︶。このとき19歳。本誌はダダの系譜にある雑誌﹃ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム︵GGPG︶﹄︵1924年-1926年︶から[[北園克衛]]、[[稲垣足穂]]、[[宇留河泰呂]]らが、﹃文芸耽美﹄から[[上田敏雄]]が、それぞれ[[冨士原清一]]の﹃列﹄に合流することで成立した。 [[1928年]](昭和3年)、『薔薇・魔術・学説』のメンバーと、[[西脇順三郎]]・[[瀧口修造]]ら『馥郁タル火夫ヨ』のメンバーとが合流する形で『衣裳の太陽』を創刊(編集発行人)。東京でシュルレアリスムを標榜する詩人の大半がここに集う。のちにシュルレアリストの国際的オルガナイザーとなる[[山中散生]]は、[[冨士原清一]]から『衣裳の太陽』を贈られたことを機にシュルレアリスムに傾倒する<ref>{{Cite book|title=黒沢義輝「山中散生年譜」(『山中散生全詩集』所収)|date=
[[1930年]]︵昭和5年︶、[[瀧口修造]]の主唱により、シュルレアリスムの国際交流を目論む﹃LE SURRÉALISME INTERNATIONAL﹄を創刊︵編集発行人︶。本誌は日本語版の一号のみで終刊してしまったが、この路線はのちに﹃L'ÉCHANGE SURRÉALISTE﹄︵[[山中散生]]編、1936年、ボン書店刊︶、および日本初の本格的シュルレアリスム美術展﹁海外超現実主義作品展﹂︵[[山中散生]]と[[瀧口修造]]が[[ポール・エリュアール|エリュアール]]や[[:en:Georges_Hugnet|ユニエ]]らと企画、春鳥会が主催 / 1937年6 - 7月 / 東京・京都・大阪・名古屋・福井を巡回︶として結実する。 以上、三つの主要なシュルレアリスム雑誌すべてを主宰したほか、﹃馥郁タル火夫ヨ﹄など多くの前衛詩誌の出資者となる<ref>{{Cite book|title=京谷裕彰﹁冨士原清一年譜﹂︵﹃薔薇色のアパリシオン 冨士原清一詩文集成﹄所収︶|date=|year=2019 [[冨士原清一]]の詩は言語感覚、個性、思想、美学において同時代の多くのシュルレアリスム詩人、シュルレアリスム的傾向をもつ詩人たちの間で際立っている。[[1930年]]︵昭和5年︶の﹃[[詩と詩論]]﹄第7冊に発表した詩﹁魔法書或は我が祖先の宇宙学﹂、[[1933年]]︵昭和8年︶の﹃文学﹄第6冊に発表した詩﹁成立﹂などは日本のシュルレアリスム詩を代表する作品である。 |