「副島種臣」の版間の差分
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== 概要 ==
[[画像:Taneomi Soejima.jpg|thumb|left|200px|[[狩衣]]姿の副島種臣]]▼
[[文政]]11年︵[[1828年]]︶[[佐賀城]]南堀に、[[佐賀藩]]士・[[枝吉南濠]]の次男として生まれる。兄は[[枝吉神陽]]。藩校・[[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]]教諭を経て、[[尊王攘夷]]運動に奔走し兄と共に﹁[[義祭同盟]]﹂に参加。32歳で副島家の養子となる。[[明治維新]]後に[[参与]]・制度事務局判事となり、[[福岡孝弟]]と共に﹁[[政体書]]﹂を起草。[[参議]]兼[[大学校 (1869年)|大学]]御用掛を経て[[外務卿]]となり、[[特命全権大使]]として[[清国]]に渡り[[日清修好通商条約]]の批准を交換して[[穆宗同治帝]]に謁見。[[樺太]]国境問題、[[琉球]]帰属、[[マリア・ルス号事件]]等を担当<ref>[[#安岡2012|安岡2012]]、230頁。</ref>。 55 ⟶ 54行目:
弘道館では、[[古賀精里]]の[[朱子学]]や藩の教学思想である﹃[[葉隠]]﹄を教授する一方で、父・南濠は[[国学]]に通じ、﹁日本一君論﹂を唱え尊皇思想を説いた。6歳になると、弘道館外生寮の執法︵教諭助手︶となり、14歳で元服して'''副島二郎龍種'''と名乗る。兄の神陽が[[江戸]]に出て、[[昌平黌]]に入学して舎長になり、[[嘉永]]元年︵[[1848年]]︶に佐賀に帰郷して弘道館教諭に就任すると、種臣は内生寮首班となる<ref>[[#安岡2012|安岡2012]]、2頁。</ref>。兄の神陽は弘道館で﹃[[古事記]]﹄や﹃[[日本書記]]﹄の研究に勤しむ一方で、館外に私塾を開いて[[木原義四郎隆忠]]、[[江藤新平]]、[[島義勇]]といった若者を教育し、[[嘉永]]3年︵[[1850年]]︶に[[楠木正成]]戦没日をトして、梅林庵で﹁[[義祭同盟]]﹂を結成すると兄と共に主催。次いで嘉永5年︵[[1852年]]︶に[[皇学]]研究の為に24歳で[[京都]]に留学。 京都では、兄の斡旋で[[順正書院]]に入り[[矢野玄道]]や[[田中河内介]]のほか、[[六人部香]]、[[谷森外記]]らと親交を結び、[[矢野玄道]]、[[玉松操]]、[[丸山作楽]]らの[[平田派]]の攘夷的復古的国学者と、[[開国]]を大攘夷として把握した[[大国隆正]]、[[福羽美静]]らと議論した<ref>[[#安岡2012|安岡2012]]、3頁。</ref>。嘉永6年︵[[1853年]]︶の[[黒船来航]]を京都で知り、[[安政]]2年︵[[1855年]]︶に藩命により再び京都に留学。京都では兄・神陽と共に佐賀藩の政治工作に奔走。尊攘志士の[[池内大学]]と共に、[[大原重徳]]に将軍宣下廃止を進言する意見書を[[久邇宮朝彦親王|青蓮院宮朝彦親王]]に提出。[[伊丹重賢]]を通じて、佐賀藩兵を50名から100名京都へ上洛させるとの朝廷の意向を藩主の[[鍋島直正|鍋島閑叟]]︵直正︶に建言するが、退けられ謹慎となる。安政6年︵[[1859年]]︶に父が死去。この年に、佐賀藩士・[[副島利忠]]の養子となり、律子と結婚。謹慎を解かれると、弘道館教諭を命ぜられる。 132行目:
* [[今泉みね]]の夫・[[今泉利春]]と親子兄弟のように親しくした<ref>[[#安岡2012|安岡2012]]、219頁。</ref>。
* [[司馬遼太郎]]は著作﹃[[翔ぶが如く]]﹄の中で、副島を高く評価して、﹁明治政府は、優れた経綸家を二人しか所有していなかった。一人は西郷、一人は副島・・﹂と述べた。 * [[江藤新平]] - 種臣は江藤のことを一番の友人であると言い、2人は藩主[[鍋島直正]]からも重んじられた。▼
* [[西郷隆盛]] - 互いに尊敬していた友人。大橋昭夫『副島種臣』によると、西郷は死の際「副島に期待する」と言った。▼
* [[福本日南]] - 言論人で種臣を激賞▼
=== 漢詩 ===
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;外国勲章佩用允許
* [[1885年]](明治18年)[[5月8日]] - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第554号「賞勲叙任」1885年5月9日。</ref>
== 脚注 ==▼
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== 参考文献 ==
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;テレビドラマ
*『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』([[1990年]]、NHK大河ドラマ、演:[[坂部文昭]])
▲== 脚注 ==
▲{{脚注ヘルプ}}
▲{{Reflist|2}}
▲* [[江藤新平]] - 種臣は江藤のことを一番の友人であると言い、2人は藩主[[鍋島直正]]からも重んじられた。
▲* [[西郷隆盛]] - 互いに尊敬していた友人。大橋昭夫『副島種臣』によると、西郷は死の際「副島に期待する」と言った。
▲* [[福本日南]] - 言論人で種臣を激賞
== 外部リンク ==
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