「劇場」の版間の差分
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右の錦絵は[[寛保]]年間︵1741–44年︶[[江戸三座#堺町・葺屋町|葺屋町]]にあった[[市村座]]の様子が描かれているが、間口の狭い桧舞台にはまだ能の名残りの飾り[[破風]]が架けられていたこと、すでに桟敷は土間から板張りになってその上は屋根で被われていたこと、二階には座敷席がありその上には明かり取りの天窓があったことなどがそこには見て取れる。[[ガス灯]]を劇場内に設置して夜間の上演を行うようになったのは明治11年︵1878年︶に開場した[[新富座]]が最初で、それ以前の上演はすべて朝方から日没までだった。 舞台の延長として観客席を貫く﹁[[花道]]﹂は、役者主義の演劇でありサービス精神旺盛な歌舞伎にとって重要な装置であり、大坂では[[承応]]前期までに見られ江戸でも[[延宝]]5年に創設され<ref name=":0">木谷蓬吟 舞台中央には、舞台の一部を回転させて場面転換を容易にし、かつそれを見せ場にすることが可能な 舞台にはまた﹁[[迫り]]︵せり︶﹂と呼ばれる昇降装置が何か所かに設けられている。迫りには大道具を上下させる﹁大迫り{{smaller|︵おおぜり︶}}﹂と役者を上下させる﹁小迫り{{smaller|︵こぜり︶}}﹂があり、いずれも人力で昇降させていた。また迫りはその位置によって﹁前迫り﹂﹁中迫り﹂などと呼ばれる。後代になると複数の大迫り・小迫りが廻り舞台の中に設けられたり、大迫りを分割して昇降させることが可能になったりして、舞台機構は飛躍的に複雑なものとなった<ref>[http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/index.html 歌舞伎への誘い][http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/3/3_03_03.html ﹁セリ﹂][http://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/3/3_03_07.html ﹁廻り舞台﹂]︵2011年11月24日閲覧︶</ref>。また花道の舞台より七三には人ひとりが入れるほどの小迫りが設けられているが、これが﹁すっぽん﹂と呼ばれる、妖怪変化の役どころの不気味な出の演出には欠かせない装置である。 |