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{{Otheruses|力試しのために持ち上げる石|漫画﹃あしたのジョー﹄の力石徹︵りきいしとおる︶|あしたのジョーの登場人物}}
'''力石'''︵ちからいし︶は、力試しに用いられる大きな石である。日本では鍛錬 [[Image:ChikaraIshiAdachiJinjya2006.jpg|thumb|240px|right|無銘の力石。手前100kg、左50kg、右45kg<br/>︵さいたま市、2006年8月︶]] == 起源と歴史 ==
力石の起源を[[石占]]に求める説がある。石占とは、神社・寺院に置かれた特定の石を持ち上げて重いと感じるか軽いと感じるかによって吉凶や願い事の成就を占うものである。もともと占いのために持ち上げていたものが、娯楽や鍛錬のための力試しになったというのがこの説である。しかし、全国の力石を調査した高島愼助によれば、石占的な談話はほとんど聞かれなかったとのことである<!-- 高島個人のリサーチ不足の可能性あり。後述 -->。 石占で用いられる力石を﹁重軽石︵おもかるいし︶﹂と呼び︵後述書 pp.112-113︶、例として、[[埼玉県]][[児玉郡]][[美里町 (埼玉県)|美里村]]︵現美里町︶浅間神社では、何事か起きた場合、石を持ち上げ、軽く感じた時は[[吉凶|吉]]、重く感じた時は凶と占い︵後述書 p.112.石自体は紛失している。p.113︶、また[[岐阜県]][[加茂郡]][[太田町 (岐阜県)|太田町]]でも同じ石占は行われており、病気・紛失物・商売を占う際に用いられ、こうした重軽石による占いは、出陣・天気・農作の豊凶を占うのにも用いられた<ref>[[韮塚一三郎]]編﹃埼玉県伝説集成 分類と解説 下・信仰編﹄︵北振図書、1974年︶pp.112-113</ref>。 力石の存在が確証されるのは、[[16世紀]]に作られた「[[上杉本洛中洛外図屏風]]」で、弁慶石の銘を持つ力石が描かれている。また、[[1603年]]の日葡辞書に力石の項があり、「力試しをする石」とされている。江戸時代の連歌に「文治二年の力石もつ」という句があり、おそらく[[文治]]二年([[1186年]])の銘か言い伝えがある力石があったのであろう。現存する力石に刻まれた年としては、[[寛永]]9年([[1632年]])が知られているかぎりもっとも古い。▼
▲力石の存在が確証されるのは、[[16世紀]]に作られた 江戸時代から明治時代にかけては力石を用いた力試しが日本全国の村や町でごく普通に行われていた。個人が体を鍛えるために行ったり、集団で互いの力を競いあったりした。神社の祭りで出し物の一つとして力試しがなされることもあった。 [[20世紀]]後半に力試しの習俗は廃れ、かつてあった力石のほとんどは行方不明になった。一部では住民が喪失を惜しんで力石を神社に奉納、境内に安置した。また後には自治体の民俗文化資料館に置かれたり、看板を立てて所在と由来を示したりして残された。[[21世紀]]初めまでに高島愼助が調査して報告した数は約 == 力石 ==
石の形は表面が滑らかな楕円形が多い。滑らかな石は持ち上げにくいが、体に傷をつけずにすむ。ほとんどの力石は60[[キログラム]]より重い。[[米俵]]より軽くてはわざわざ石を用意する意味がないという事であるらしい。上限は様々で、中には300キロに達するものもある。あまりに重い石は 人々は、山や川原で手ごろな大きさの石を見つけて村に持ち帰り、力石とした。重さが異なる石を複数用意することが多かった。置き場所は神社や寺 石に[[文字]]を刻むことも盛んに行われた。﹁力石﹂という普通名詞としての名のほか、石に与えられた﹁固有名﹂を刻んだものがある。また、持ち上げた人の[[名前|名]]と[[年月日]]を記念に刻んだものもある。しかし大半は無銘で、慣習と記憶が薄れるとただの大きな石と区別がつかなくなる。例として、[[静岡県]][[三島市]]の右内神社の境内には3つの力石があり、1つは﹁女石﹂と呼ばれ、重さにして23貫︵86キログラム前後︶あり、力女が持ち上げたと伝わる︵右内神社境内の看板説明。他の2つは34貫と32貫の重さがある︶。 一例としては、[[山形県]][[鶴岡市]]大泉では、米7[[斗]]5[[升]]分から6斗石、5斗石の力石があり、肩上げ・両ざし・片手ざしなどで競ったされる<ref name="#1">文化庁文化財保護部監修『日本民俗資料事典』(第一法規、1969年) p.293</ref>。
== 力持ち・力試し ==
力石を持ち上げることを、力持ち、力試し、石抱え、担ぎ上げ、盤持ち︵ばんもち︶などという。典型的には石を抱えて持ち上げる。持ち上げ方は、胸まで、肩まで、頭上まで、体に付けずに、など様々である。また持ち上げてから担いで歩いたり、体の周りを回したりすることもある。石に[[縄]]をかけて持ちやすくしたり、非常に重いものでは、石が地面を離れればよしとしたり、倒れている石を引き起こせば良いとするなど、石の重さと個人の体力に応じて様々な条件と目標があった。 力試しに挑戦するのは [[米問屋]]では働く若者を採用する時に力石を用いた<ref name="#1"/>。
== 伝説上の力石 ==
伝説上の人物が持ち上げたり放り投げたりしたと伝えられる力石が、やはり全国各地にある。たいていは
== 記録例 ==
* [[太田康資]]の伝説として、普通の男が30人かかって持ち上げる大石を1人で軽く持ち上げてみせた︵﹃[[関東古戦録]]﹄巻六、﹃小田原北条記﹄巻五︶。<!-- ただし、﹁三十人力﹂という表現は、﹃平家物語﹄の安芸太郎から見られ、後代の石川五右衛門も三十人力と表現されている点に注意がいる。 --> * [[戸村義国]]の伝説として、竜昌院寺内に、3、40貫(112 - 130キログラム超)の大石を置き、持ち上げたとされる<ref>[[大録義行]]編『那珂の伝説 下』(筑波書林、1984年) pp.120 - 121</ref>。
*[[浦和市]](現さいたま市)白幡の[[医王寺 (さいたま市南区)|医王寺]]境内にある力石の銘として、「唱武広観直性大法子 [[寛政]]5年(1793年)5月29日」と記されており、伝えによれば、75貫目(約280キログラム)あり、寛政期の白幡の若者に大力がいて、江戸の力士ですら持ち上げられなかったこの石を持ち上げたとされる<ref>[[川崎陽堂]]『浦和市史蹟と伝説』、韮塚一三郎編『埼玉県伝説集成 分類と解説 下・信仰編』(北振図書、1974年)p.111</ref>。
*[[加藤寛斎]]の『奥郡里間数記』に([[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]期=1809 - 29年とみられる)、江戸角力・待乳山部屋の三段目まで取った久米の森という角力がいて、出自は[[常陸国]][[那珂郡]]額田村の常福寺の北二軒家だったが、10人や15人では持てない六尺角(180センチ四方)の大石を1人で運んだとされる<ref>大録義行編『那珂の伝説 上』(筑波書林、 1984年) p.72</ref>。
* [[安政]]6年([[1859年]])5月8日生まれの[[大和国]]北葛城郡二上村(現[[香芝市]])在地力士・大の松為次郎は、身長5尺3寸(約160センチ)、体重20貫(74キログラム以上)であったが、[[米]]8斗5升(約154キログラム)と同じ重さの力石を気楽に持ち上げた、と記述されている<ref>『ニ上村史』(1956年) p.549</ref>。
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<references />
== 参考文献 ==
* [[高島愼助]]『北海道・東北の力石』
== 関連項目 ==
* [[三ノ宮卯之助]] - [[魚吹八幡神社]](卯之助が用いた力石がある)
* [[常陸山谷右エ門]] - 20貫・40貫の力石を持ち上げる
* [[備中国総社宮#主な祭事|備中国総社宮]] - 力石総社という1 - 48貫の石を持ち上げるイベントが行われている。
* [[ウエイトトレーニング]]
* [[カメハメハ1世]]:[[ハワイ島]][[ヒロ_(ハワイ島)|ヒロ]]図書館前に現在も置いてある3.5tの「ナハ・ストーン」を持ち上げたと言われている。
* {{仮リンク|リフティングストーン|en|Lifting stone}}({{lang-en-short|lifting stone}}) - 日本の力石を含め世界の力石について。
* {{仮リンク|ウンスプネン石|de|Unspunnenstein}}({{lang-de-short|Unspunnenstein}}) - スイスの伝統競技[[シュタインシュトッセン]]で投げる重い石。
* [[掇石]](てっせき) - 前近代の中国において、武[[科挙]](武官試験)の際に行われた石による重量挙げ(大中小で、優良佳の評価基準)。
== 外部リンク ==
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[[category:日本の文化史|ちからいし]]▼
{{DEFAULTSORT:ちからいし}}
[[category:石]]
[[Category:トレーニング法]]
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