「北の湖敏満」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
230行目:
=== 現役引退 ===
全盛期を過ぎて体力が衰えたことへの同情から、この時期になるとかつての悪役イメージは薄れ、勝って拍手が贈られることもあった。5月場所の全勝優勝を期に、さらなる復活を期待された北の湖だったが長くは続かず、7月場所は序盤こそ前場所の勢いを継続するかのように快勝の連続だったが11勝4敗に留まり、これが最後の皆勤場所となった。場所前には好調が伝えられた9月場所は横綱昇進後で初となる初日からの連敗で途中休場、11月場所も初日に初 [[1985年]]1月場所、こけら落としとなった[[両国国技館]]の土俵に現役で臨んだが、ケガが完治せずに土俵に上がれる身体ではなかった。それでも、国技館建設に携わって開館を心待ちにしていた春日野から'''﹁晴れの舞台に横綱が休場することはできない。潔く散る覚悟で出よ﹂'''との言葉を受けて強行出場。国技館での北の湖は、初日の[[旭富士正也|旭富士]]、2日目の[[多賀竜昇司|多賀竜]]と相次いで全く良い所なく敗れて2連敗。所有していた[[年寄名跡]]・[[小野川 (年寄名跡)|小野川]]を他の力士に貸していたため、横綱特権での5年時限の年寄襲名前提で引退届を提出した︵当時は優勝32回の大鵬しか一代年寄の例がなかった︶。 |