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{{画像改訂依頼|ヘッダ画像|[[阪神タイガース]]コーチ時代 (2020-)|date=2022年5月|cat=野球選手}}
{{Infobox baseball player
| 選手名
| 所属球団
| 役職
| 背番号
|
|
| 国籍
| 出身地
| 生年月日
| 没年月日
| 身長
| 体重
| 利き腕
| 打席
| 守備位置
| プロ入り年度
| ドラフト順位
| 初出場
| 最終出場
| 経歴 =
* [[埼玉県立大宮東高等学校]]
* [[日本大学硬式野球部|日本大学]]
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* [[大阪近鉄バファローズ]] (2001 - 2004)
* [[オリックス・バファローズ]] (2005 - 2012)
| 経歴補足題
| 経歴補足
* オリックス・バファローズ (2013 - 2014, 2016)
* [[東京ヤクルトスワローズ]] (2017 - 2019)
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'''北川 博敏'''︵きたがわ ひろとし、[[1972年]][[5月27日]] - ︶は、[[兵庫県]][[伊丹市]]<ref name="jinmei">プロ野球人名事典 2003︵2003年、日外アソシエーツ︶、183ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]︵[[内野手]]、[[捕手]]︶、[[プロ野球コーチ|コーチ]]。 現役時代には、[[阪神タイガース]]、[[大阪近鉄バファローズ]]、[[オリックス・バファローズ]]でプレー。大阪近鉄時代の{{By|2001年}}、パ・リーグ公式戦対オリックス・ブルーウェーブ {{By|2012年}}に現役を引退してからは、オリックスで一軍<ref name="sponichi151015">{{Cite news |title=オリックス 新コーチングスタッフ発表 西村ヘッド、高橋打撃コーチら |date=2015-10-15 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/15/kiji/K20151015011325490.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>・二軍打撃コーチや事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー︵PM︶を務めた。{{By|2017年}}から{{By|2019年}}まで[[東京ヤクルトスワローズ]]の二軍打撃コーチを担当した後に、{{By|2020年}}から打撃コーチとして阪神に復帰。 42行目:
出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から[[埼玉県]][[志木市]]へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した<ref name="datafile62">プロ野球データファイル([[ベースボール・マガジン社]])第62号</ref>。
[[埼玉県立大宮東高等学 卒業後、[[東都大学野球連盟]]所属の[[日本大学硬式野球部|日本大学]]に進学し、1学年下の[[高根澤力]]と正捕手のポジションを争う。2年秋には[[門奈哲寛]]とのバッテリーで[[真中満]]主将の下でリーグ優勝を経験。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得{{R|jinmei}}、ベストナインにも選ばれ、同年の[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。 [[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年度ドラフト会議]]にて[[阪神タイガース]]から2位指名を受け入団︵[[希望入団枠制度|逆指名]]︶{{R|jinmei}}。背番号は'''9'''となった。 === 阪神時代 ===
1年目︵1995年︶の[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスター]]でMVPを受賞するなど {{By|2000年}}には[[野村克也]]監督の息子・[[野村克則|カツノリ]]が加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わった。北川はこの年、シーズンオフに[[湯舟敏郎]]・[[山﨑一玄]]と共に[[酒井弘樹]]・[[面出哲志]]・[[平下晃司]]との3対3の[[トレード]]で[[大阪近鉄バファローズ]]へ移籍し、背番号も'''46'''となった。 野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂に、当時の阪神の中で[[定詰雅彦]]と北川は捕手としては論外であったと書いており、両者とも野村の時代は出場試合が少なく途中でチームを去っており、野村からの評価はかなり低かった<ref>{{Cite news |title=つねに明るい…藤田監督が1軍に引き上げた性格 |date=2019-10-26 |newspaper=サンケイスポーツ |last=上田 |first=雅昭 |url=https://www.sanspo.com/article/20191026-3SBT3TEL6ZMCPFY2OQ6WT6LCAA/ |accessdate=2020-07-08}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://kakaku.com/tv/channel=12/programID=60973/episodeID=1008349/ |title=﹁水曜エンタ﹂ 2016年11月2日︵水︶放送内容 |date= |accessdate=2020-07-08 |publisher=価格.com |work=テレビ紹介情報}}</ref><ref>{{Cite news |title=阪神・北川コーチ、﹁マスコミ戦略﹂でチームを変える? 現役時代﹁因縁﹂と言われた”ノムさんの息子”とは意外な関係性 |date=2019-10-29 |newspaper=リアルライブ |last=飯山 |first=満 |url=https://npn.co.jp/article/detail/72823307 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。一方で、二軍監督時代から[[ウエスタン・リーグ]]で対戦していた近鉄監督の[[梨田昌孝]]は、北川のバッティングを高く評価しており、近鉄編成に強く訴えて獲得に漕ぎ着けたという<ref>{{Cite news |title=︻近鉄の“赤ユニ”が復活︼当時の梨田昌孝二軍監督が語る“赤ユニ時代”の出会い |date=2019-05-09 |newspaper=週刊ベースボール |last=喜瀬 |first=雅則 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190509-110 |accessdate=2020-07-08}}</ref>。▼ ▲野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂に === 近鉄時代 ===
{{By|2001年}}は、この年の1月4日に[[藤井寺球場]]で自主トレを開始。北川も﹁こんなにバットを振ったことはないですね﹂とコメントするほど練習した。北川は梨田監督に認められて一軍に定着し、4月28日にプロ初本塁打を記録した。5月27日は北川の29歳の誕生日だったが、生まれて初めて[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]安打を放ち、さらに[[お立ち台]]で涙を流した。北川はその後2週間後にもサヨナラ打を放ち、さらに9月24日の対西武戦では代打として出場、[[松坂大輔]]から本塁打を放ち、勝利に貢献している<ref>﹃サヨナラ近鉄バファローズ﹄P50</ref>。これでチームは優勝へのマジックナンバーを1とした。そして9月26日の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦で北川はオリックスの守護神・[[大久保勝信]]から代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放ち、チーム12年ぶりのリーグ優勝を決めた︵﹁[[ {{By|2002年}}は[[オープン戦]]で負傷し、43試合・打率.266・1本塁打・8打点と精彩を欠いた。
{{By|2003年}}は {{By|2004年}}は === オリックス時代 ===
{{By|2005年}}は ▲{{By|2005年}}は、5番・一塁手として開幕スタメンに名を連ね、第2戦の対西武戦では7回表にオリックス・バファローズ第1号本塁打となる3点本塁打を[[長田秀一郎]]から放った。チームの主軸・[[ムードメーカー]]としての期待に応え、成績は前年に比べて打率こそ落ち込んだものの、チームトップの打点を記録するなど、主軸としての活躍を見せた。 {{By|2006年}}も開幕から中軸打者として活躍したが、シーズン中盤の試合中にダイビングキャッチを試みた際に、右肩を損傷。右肩関節唇損傷で選手生命を左右するほどの重傷と判明するが、8月13日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦まで強行出場した。その後、一軍登録抹消されて同月17日に手術を受け、残りの試合は欠場した。▼ ▲{{By|2006年}}も開幕から中軸打者として活躍したが、シーズン中盤の試合中にダイビングキャッチを試みた際に {{By|2008年}}は、春季キャンプ中に[[肉離れ]]をおこし、開幕二軍スタートとなった。4月29日の楽天戦より一軍に合流。[[グレッグ・ラロッカ|グレグ・ラロッカ]]の離脱に伴い、[[三塁手]]で起用されることとなった{{Refnest|本人のブログによると、三塁を守るのは約12年ぶりのことだった<ref>{{Cite web |url=https://ameblo.jp/hirotoshi-kitagawa/entry-10095844210.html |title=大敗…(+_+) |accessdate=2020-07-08 |publisher=Ameba |last=北川 |first=博敏 |date=2008-05-11 |website=[[アメーバブログ]] |work=オリックス・バファローズ北川博敏オフィシャルブログ「SMILEY DIARY」}}</ref>。|group=注}}。5月16日の対ロッテ戦では、[[渡辺俊介]]から2打席連続本塁打を放ち、自己最多の1試合6打点を記録した。しかし、夏場以降は調子を落とし、復帰直後は5番だった打順も終盤は6・7番あたりに下げられるケースが多くなる。得点圏打率も.244と伸び悩み、規定打席にも2年ぶりに到達しないなど、自身にとって不本意なシーズンとなった。一方で、2005年以来の2桁本塁打を放ち、2年連続で[[犠牲フライ]]数がリーグトップを記録した。▼
▲{{By|2008年}}は {{By|2009年}}は、[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]の加入、ラロッカの復調により前年より更にスタメン出場が困難になった。主に右の代打を務めつつも、外国人4人が次々に戦線離脱したため、シーズン最後までスタメンに名を連ねた。しかし、打率以外のほとんどの面で前年の成績を下回り、本塁打は2本に終わった。▼ ▲{{By|2009年}}は {{By|2010年}}は、開幕戦を4番DHのスタメン出場で迎えた。本職である一塁手は[[アレックス・カブレラ]]や[[T-岡田]]に奪われ、DHでの出場が多かったが、打撃ではハイアベレージを記録。6月2日の[[中日ドラゴンズ]]戦では、7点ビハインドの8回裏に3点返したあとの無死満塁の打席で、[[高橋聡文]]から同点満塁本塁打を放ち、チームの逆転サヨナラ勝ちに貢献した。その後も主力打者として活躍し続けたが、8月13日から登録抹消はされなかったものの10試合を欠場した。これは、7月14日のロッテ戦で左脛に自打球を当てた影響で、蜂窩(ほうか)織炎による発熱を発症したためであった。復帰後は、9月に100本塁打、1000本安打と節目の記録を次々と達成した。最終的には119試合に出場して打率.306、12本塁打61打点の成績を収めた。▼ ▲{{By|2010年}}は {{By|2011年}}は {{By|2012年}}も開幕一軍入りを果たし、6月5日のヤクルト戦︵京セラドーム︶で8回裏に[[押本健彦]]からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ<ref name="daily20120606">{{Cite news |title=オリ北川、アキレス腱断裂から復活弾 |date=2012-06-06 |accessdate=2012-10-10 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304113319/http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref name="sponichi20120606">{{Cite news |title=北川 アキレス腱断裂から復帰後初本塁打﹁記憶に残る﹂ |date=2012-06-06 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003404460.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。試合後のヒーローインタビューは﹁2対0からだったから﹂と辞退し{{R|daily20120606}}、報道陣が集まったことに対して北川は﹁まるで引退する時みたい。まだやめませんよ﹂とコメントしたが{{R|sponichi20120606}}、結果としてこれが北川の現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、北川はこの時﹁もう潮時かな﹂という気持ちになったことを引退試合後の会見時に述べている<ref>{{Cite web === 現役引退後 ===
{{By|2012年}}11月4日に 2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー︵PM︶に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]内の有料見学ツアー︵ドームツアー︶のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機に {{By|2015年}}10月14日 == プレースタイル ==
驚異的な勝負強さが魅力の強打者<ref>{{Cite web [[バント]]は高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている<ref>{{Cite news |title=岡田マジックよ﹁5番にバント﹂ |date=2011-04-24 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |accessdate=2020-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111123153426/http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |archivedate=2011-11-23}}</ref>。 近鉄時代の打撃コーチだった[[正田耕三]]は﹁︵北川は︶練習でやったことを試合で出せるタイプ。代打出場でも場面、対戦相手など頭に入れ冷静に準備ができる﹂と北川を評している<ref>{{Cite web 元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし、2004年に捕手を使い果たした試合で近鉄の梨田 == 人物 ==
北川は常に笑顔を絶やさず、阪神時代から'''スマイリー'''の愛称を持ち{{R|daily20191025}}、顔が似ていることから'''[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]'''とも言われている<ref>{{Cite news |title=いてまえ魂や!阪神打撃コーチに北川博敏氏招へいへ |date=2019-10-17 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910160000953.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた[[サヨナラゲーム#代打逆転サヨナラ満塁釣り銭なし優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]のインパクトの強さから﹁奇跡を呼び込む男﹂と呼ばれていた︵具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀なことが起こっている︶。 近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成された[[NPO]]法人﹁[[伊丹アスリートクラブ]]﹂の理事としても活動<ref>{{Cite web ひょうきんな性格で知られ、近鉄時代の2003年から現役を引退するまで 趣味は釣り・[[ザリガニ]]飼育でオフには自身のブログにその様子を掲載している。
好きなアーティストは[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]で、北川もオリックス移籍後の2009年から現役引退までスピッツの楽曲をバッティングテーマ曲に用いていた。またスピッツのライブにも度々訪れている。メンバーの[[草野マサムネ]]とは交流も深く、ブログにも登場している。 === 代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打 ===
{{Main|北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打}}
{{By|2001年}}9月26日、近鉄は本拠地・大阪ドームで、同年度最終戦となる対オリックス・ブルーウェーブ戦を迎えた。近鉄は1回に先制したが、先発の[[ショーン・バーグマン]]が5回までに[[吉岡雄二]]の2失策もあり4失点する。7回に[[川口憲史]]の本塁打で反撃するも、9回表には[[岡本晃]]が[[相川良太]]に本塁打を打たれ、9回表終了時点でのスコアは2対5と、3点リードされていた。▼ ▲{{By|2001年}}9月26日、近鉄は本拠地・大阪ドームで オリックスは8回途中から守護神・大久保勝信を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番[[ショーン・ギルバート]]のところで代打の[[益田大介]]が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から監督の梨田は「アイツしかいない。今年のアイツは何かをやる」として<ref name="SN07828">{{Cite web |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_september/KFullNormal20070828150.html |title=【9月26日】2001年(平13) 近鉄最後のV 決まり手は代打逆転サヨナラ満塁弾 |date= |accessdate=2012-10-11 |publisher=スポーツニッポン |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160308205114/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_september/KFullNormal20070828150.html |archivedate=2016-03-08 |deadlinkdate=2020-07}}</ref>、この試合3打席凡退だった[[古久保健二]]の代打として北川を打席に送る。北川は後にこの時の状況を「益田さんが四球を選んで満塁となって困ったなぁと思いました」とコメント。理由として「塁が詰まると引っかけてゲッツーが多いから」とした。[[真弓明信]]打撃コーチからは「思いきりいけばいい」と言われ、北川は「これで気持ちは楽になった」としている。▼
▲オリックスは8回途中から守護神・[[大久保勝信]]を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番[[ショーン・ギルバート]]のところで代打の[[益田大介]]が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から 北川は、満塁となった状況、さらには元々7回の古久保の打順で代打に送られる予定が川口の本塁打で変更になったというタイミングもあり、「初球のど真ん中の直球にまったく動けなかった」という。そしてカウント0ボール2ストライクからの3球目を見送ったところで「球の見極めはできていると確信し、これで地に足がつきましたね」とコメントしている<ref>{{Cite news |title=史上初代打逆転サヨナラ満塁優勝決定HRを近鉄・北川振り返る |date=2013-10-01 |newspaper=週刊ポスト |url=https://www.news-postseven.com/archives/20131001_214357.html?DETAIL |accessdate=2020-07-08 |issue=2013年10月11日号}}</ref>。▼
▲北川は カウント1ボール2ストライクとなった4球目。大久保が「真っ直ぐ狙いのような気がした。[[スライダー (球種)|スライダー]]で打ち取ろうと思った」として投じたスライダーが真ん中に入り{{R|SN07828}}、北川は「(大久保の手から)球が離れた瞬間、これはと感じて素直に振りぬいた」「打った瞬間、野手の間は抜けると思ったが、本塁打になるとは思ってなかった」とした打球はバックスクリーン左横に飛びこむ、日米プロ野球初となる「'''釣銭無し'''{{Efn2|その本塁打でちょうど1点だけ勝ち越すことを表す俗語。}}」+「'''優勝決定'''」の「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」になった。優勝決定に限定せず、「釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としても45年ぶり2人目。「代打逆転サヨナラ満塁本塁打」としては6人目、近鉄では{{By|1984年}}の[[柳原隆弘]]以来2人目<ref>週刊ベースボール 2011年11月7日号P96</ref>。最終的なスコアは6対5、チームのパ・リーグ優勝が決定した<ref>この節のここまでの出典は特記ない場合、日刊スポーツ出版社発行『サヨナラ近鉄バファローズ』P50-53、及び、ベースボール・マガジン社発行『さらば大阪近鉄バファローズ』『週刊ベースボール別冊』2004年冬季号)P32-33とする</ref>。▼
▲カウント1ボール2ストライクとなった4球目。大久保が﹁真っ直ぐ狙いのような気がした。[[スライダー (球種)|スライダー]]で打ち取ろうと思った﹂として投じたスライダーが真ん中に入り{{R|SN07828}}、北川は﹁︵大久保の手から︶球が離れた瞬間、これはと感じて素直に振りぬいた﹂﹁打った瞬間、野手の間は抜けると思ったが、本塁打になるとは思ってなかった﹂とした打球はバックスクリーン左横に飛びこむ、日米プロ野球初となる﹁'''釣銭無し'''{{Efn2|その本塁打でちょうど1点だけ勝ち越すことを表す俗語。}}﹂+﹁'''優勝決定'''﹂の﹁代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂になった。優勝決定に限定せず、﹁釣銭無しの代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂としても45年ぶり2人目。﹁代打逆転サヨナラ満塁本塁打﹂としては6人目、近鉄では{{By|1984年}}の[[柳原隆弘]]以来2人目となった<ref>週刊ベースボール 2011年11月7日号P96</ref>。最終的なスコアは6対5、チームのパ・リーグ優勝が決定した<ref>この節のここまでの出典は特記ない場合、日刊スポーツ出版社発行﹃サヨナラ近鉄バファローズ﹄P50-53、及び、ベースボール・マガジン社発行﹃さらば大阪近鉄バファローズ﹄﹃週刊ベースボール別冊﹄2004年冬季号︶P32-33とする</ref>。 == 詳細情報 ==
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* 1000安打:2010年9月21日、対[[北海道日本ハムファイターズ]]23回戦([[札幌ドーム]])、9回表に[[武田久]]から中前適時打 ※史上261人目
; その他の記録
* 代打逆転サヨナラ満塁本塁打:2001年9月26日、対オリックス・ブルーウェーブ26回戦([[大阪ドーム]])、9回裏、[[大久保勝信]]から中越サヨナラ満塁本塁打 ※史上6人目、優勝決定は史上初
* [[全球団から本塁打]]:2008年6月23日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、9回表に[[林昌勇]]から左越ソロ ※史上14人目
303行目:
* '''23'''(2005年 - 2012年)
* '''85'''(2013年 - 2014年、2016年 - 2019年)
* '''80'''(2020年 - 2022年)
* '''91'''(2023年 - )
=== 登場曲 ===
325 ⟶ 326行目:
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]]
* [[オリックス・バファローズの選手一覧]]
* [[北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]
== 外部リンク ==
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{{BASEBALLstats|brjpn=kitaga001hir|cube=Hirotoshi-Kitagawa}}
{{阪神タイガースの選手・スタッフ}}
{{阪神タイガース1994年ドラフト指名選手}}
{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
|titlestyle=background-color:#006;color:#fff;
|list1=
{{1993年日米大学野球選手権大会日本代表}}
{{1994年日米大学野球選手権大会日本代表}}
}}
{{デフォルトソート:きたかわ ひろとし}}
[[Category:日本の野球選手]]
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[[Category:東京ヤクルトスワローズ関連人物]]
[[Category:日本大学硬式野球部の選手]]
[[Category:日米大学野球選手権大会日本代表選手]]
[[Category:埼玉県立大宮東高等学校出身の野球選手]]
[[Category:兵庫県出身の人物]]
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