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{{画像改訂依頼|ヘッダ画像|[[阪神タイガース]]コーチ時代 (2020-)|date=2022年5月|cat=
{{Infobox baseball player
| 選手名 = 北川 博敏
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出生から小学6年生の時まで伊丹市内で過ごした後に、中学1年生から[[埼玉県]][[志木市]]へ転居。当初は父親のみ単身赴任するつもりだったが、北川がそれを嫌い号泣しながら引き留めたために一家揃って埼玉に引っ越した<ref name="datafile62">プロ野球データファイル([[ベースボール・マガジン社]])第62号</ref>。
[[埼玉県立大宮東高等学 卒業後、[[東都大学野球連盟]]所属の[[日本大学硬式野球部|日本大学]]に進学し、1学年下の[[高根澤力]]と正捕手のポジションを争う。2年秋には[[門奈哲寛]]とのバッテリーで[[真中満]]主将の下でリーグ優勝を経験。捕手としてレギュラーに定着した3年の春季リーグ戦で打率.471の好成績を残し首位打者を獲得{{R|jinmei}}、ベストナインにも選ばれ、同年の[[日米大学野球選手権大会]]日本代表に選出された。4年時には主将を務め、日米大学野球日本代表に再選。リーグ通算75試合出場、244打数66安打、打率.270、4本塁打、33打点。 [[1994年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1994年度ドラフト会議]]にて[[阪神タイガース]]から2位指名を受け入団︵[[希望入団枠制度|逆指名]]︶{{R|jinmei}}。背番号は'''9'''となった。 53行目:
{{By|2000年}}には[[野村克也]]監督の息子・[[野村克則|カツノリ]]が加入したこともあり、出場機会に恵まれず7打数無安打に終わった。北川はこの年、シーズンオフに[[湯舟敏郎]]・[[山﨑一玄]]と共に[[酒井弘樹]]・[[面出哲志]]・[[平下晃司]]との3対3の[[トレード]]で[[大阪近鉄バファローズ]]へ移籍し、背番号も'''46'''となった。 野村は、後に出した著書の一冊である﹁ああ、阪神タイガース﹂にて当時、阪神の中で[[定詰雅彦]]と北川は捕手としては論外であったと書いており、両者とも野村が監督の時 === 近鉄時代 ===
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=== オリックス時代 ===
{{By|2005年}}は5番・一塁手として開幕スタメンに名を連ね、第2戦の対西武戦では7回表にオリックス・バファローズ第1号本塁打となる3点本塁打を[[長田秀一郎]]から放った。チームの主軸・[[ムードメーカー]]としての期待に応え、成績は前年に比べて打率こそ落ち込んだものの、チームトップの打点を記録するなど主軸としての活躍を見せた。 72 ⟶ 71行目:
{{By|2007年}}は選手会長に就任し、故障も癒えて引き続き主軸として5番を任された。チームは3年ぶりの最下位と低迷したものの9本塁打を放ち、右肩の故障からの復活を果たした。 {{By|2008年}}は春季キャンプ中に[[肉離れ]]をおこし、開幕二軍スタートとなった。4月29日の楽天戦より一軍に合流。[[グレッグ・ラロッカ|グレグ・ラロッカ]]の離脱に伴い、[[三塁手]]で起用されることとなった{{Refnest|本人のブログによると、三塁を守るのは約12年ぶりのことだった<ref>{{Cite web {{By|2009年}}は[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|ホセ・フェルナンデス]]の加入、ラロッカの復調により前年より更にスタメン出場が困難になった。主に右の代打を務めつつも、外国人4人が次々に戦線離脱したためシーズン最後までスタメンに名を連ねた。だが、打率以外のほとんどの面で前年の成績を下回り、本塁打は2本に終わった。 {{By|2010年}}は開幕戦を4番・DHのスタメン出場で迎えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://npb.jp/bis/2010/games/s2010032000089.html |title=2010年3月20日 ︻公式戦︼ 試合結果 ︵オリックスvs東北楽天︶ |access-date=2023-02-18 |publisher=NPB.jp 日本野球機構 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230218100417/https://npb.jp/bis/2010/games/s2010032000089.html |archive-date=2023-02-18}}</ref>。本職である一塁手は[[アレックス・カブレラ]]や[[T-岡田]]に奪われ、DHでの出場が多かったが、打撃ではハイアベレージを記録。6月2日の[[中日ドラゴンズ]]戦では、7点ビハインドの8回裏に3点返したあとの無死満塁の打席で、[[ {{By|2011年}}はキャンプ中に左腓骨骨折と肉離れを併発する。その後震災の影響で開幕が遅れたこともあり、開幕戦の復帰には間に合ったものの、完治していない状態で強行出場することとなる。主に5番指名打者・代打で出場し、6月12日の巨人戦では8回裏に[[澤村拓一]]から決勝2点本塁打を放つ活躍も見せた。しかし6月26日にロッテ戦︵[[千葉マリンスタジアム]]︶で7回表に左翼線に安打を放ったものの、二塁への走塁中に左足を負傷したため、途中交代後にベンチ裏で応急処置を施された上で試合後に帰阪した<ref>{{Cite news |title=北川 左アキレス腱断裂か…27日に精密検査 |date=2011-06-27 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/27/kiji/K20110627001096490.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。診断の結果、全治6か月の[[アキレス腱断裂]]の大怪我であったため翌日縫合手術が行われた<ref>{{Cite news |title=北川、左アキレス腱断裂で手術…今季絶望に |date=2011-06-28 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/28/kiji/K20110628001102940.html |accessdate=2020-07-08}}</ref><ref>{{Cite news |title=オリ北川全治6カ月、アキレス腱断裂手術 |date=2011-06-28 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20110628-796619.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。この結果、残りシーズンを棒に振った。 {{By|2012年}}も開幕一軍入りを果たし、6月5日のヤクルト戦︵京セラドーム︶で8回裏に[[押本健彦]]からアキレス腱断裂後初の本塁打を放つ<ref name="daily20120606">{{Cite news |title=オリ北川、アキレス腱断裂から復活弾 |date=2012-06-06 |accessdate=2012-10-10 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304113319/http://www.daily.co.jp/baseball/2012/06/06/0005113284.shtml |archivedate=2016-03-04}}</ref><ref name="sponichi20120606">{{Cite news |title=北川 アキレス腱断裂から復帰後初本塁打﹁記憶に残る﹂ |date=2012-06-06 |newspaper=スポーツニッポン |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/06/06/kiji/K20120606003404460.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。試合後のヒーローインタビューは﹁2対0からだったから﹂と辞退し{{R|daily20120606}}、報道陣が集まったことに対して北川は﹁まるで引退する時みたい。まだやめませんよ﹂とコメントしたが{{R|sponichi20120606}}、結果としてこれが北川の現役最後の本塁打となった。7月16日に登録抹消され、北川はこの時﹁もう潮時かな﹂という気持ちになったことを引退試合後の会見時に述べている<ref>{{Cite web === 現役引退後 ===
{{By|2012年}}11月4日にオリックスの二軍打撃コーチへ就任することが球団から発表<ref>{{Cite web 2014年11月1日付で、オリックスの事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー︵PM︶に転身。自身初のフロント業務で、少年野球の指導や、新規ファンの開拓に向けたPR、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]内の有料見学ツアー︵ドームツアー︶のガイドなどに携わっていた。球団では、北川のPM就任を機にPMとしての北川の公式ブログ﹁PEI's TIME﹂を公式サイト内に開設。{{By|2015年}}のプロ野球シーズン中には、[[J SPORTS]]の球団主管試合中継や、[[東日本放送]]制作のオリックス戦中継で随時解説を担当した。同年4月から[[TwellV]]で放送を開始した球団情報番組﹁[https://www.twellv.co.jp/program/sports/orix.html オリックス日和]﹂では、元[[BsGirls]]リーダーでキッズチアインストラクターのKYOKOと共に、MCを務めていた。 {{By|2015年}}10月14日、オリックスの一軍打撃コーチへ就任することが球団から発表{{R|sponichi151015}}。自身2年ぶりの現場復帰を果たしたが、翌{{By|2016年}}3月までは、﹃オリックス日和﹄のMCも続けていた。同年10月2日付で退団した<ref>{{Cite web == プレースタイル ==
驚異的な勝負強さが魅力の強打者<ref>{{Cite web [[バント]]は高校時代に猛練習をしたことから自信を持っており、実際に試合でも決めている<ref>{{Cite news |title=岡田マジックよ﹁5番にバント﹂ |date=2011-04-24 |newspaper=デイリースポーツ |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |accessdate=2020-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111123153426/http://www.daily.co.jp/baseball/2011/04/25/0003997201.shtml |archivedate=2011-11-23}}</ref>。 近鉄時代の打撃コーチだった[[正田耕三]]は﹁︵北川は︶練習でやったことを試合で出せるタイプ。代打出場でも場面、対戦相手など頭に入れ冷静に準備ができる﹂と北川を評している<ref>{{Cite web 元々のポジションである捕手は内野手転向後は守る機会が減った。ただし、2004年に捕手を使い果たした試合で近鉄の梨田監督が﹁延長戦となったら北川を捕手で使うつもりだった。久々に北川の捕手が見られると思ったのに︵同点に追い付けず敗れて︶残念﹂と語っている<ref>2004年9月13日 サンケイスポーツ5面記事 他 == 人物 ==
北川は常に笑顔を絶やさず、阪神時代から'''スマイリー'''の愛称を持ち{{R|daily20191025}}、顔が似ていることから'''[[アンパンマン (キャラクター)|アンパンマン]]'''とも言われている<ref>{{Cite news |title=いてまえ魂や!阪神打撃コーチに北川博敏氏招へいへ |date=2019-10-17 |newspaper=日刊スポーツ |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201910160000953.html |accessdate=2020-07-08}}</ref>。また自身のヒッティングマーチにもあるように近鉄時代の優勝を決めた[[サヨナラゲーム#代打逆転サヨナラ満塁釣り銭なし優勝決定本塁打|代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打]]のインパクトの強さから﹁奇跡を呼び込む男﹂と呼ばれていた︵具体的にはヒッティングマーチの歌詞がこの一打により、翌2002年から上記のフレーズが入ったものに変更になった。結果的に一振りで歌詞が変わってしまうという極めて稀なことが起こっている︶。 近鉄在籍時の2003年から兵庫県伊丹市出身のスポーツ選手で結成された[[NPO]]法人﹁[[伊丹アスリートクラブ]]﹂の理事としても活動<ref>{{Cite web ひょうきんな性格で知られ、近鉄時代の2003年から現役を引退するまでは﹁[[逆転イッパツマン]]﹂︵[[タイムボカンシリーズ]]︶のオープニングテーマ曲を本拠地でのバッティングテーマ曲に用いていた︵球団合併後の2009年以降はチャンス時のみ。︶。2002年は﹁KC&ザ・サンシャイン・バンド﹂の﹁That's the way (I Like It) ﹂だった。 114 ⟶ 113行目:
{{By|2001年}}9月26日、近鉄は本拠地・大阪ドームで同年度最終戦となる対オリックス・ブルーウェーブ戦を迎えた。近鉄が1回に先制したが、先発の[[ショーン・バーグマン]]が5回までに[[吉岡雄二]]の2失策もあり、4失点する。近鉄は7回に[[川口憲史]]の本塁打で反撃するも、9回表には[[岡本晃]]が[[相川良太]]に本塁打を打たれ、9回表終了時点でのスコアは2対5とオリックスに3点をリードされていた。 オリックスは8回途中から守護神・[[大久保勝信]]を送る。9回裏、近鉄は先頭の6番吉岡が出塁、続く7番川口が二塁打、8番[[ショーン・ギルバート]]のところで代打の[[益田大介]]が四球を選んで無死満塁とした。ここで最初から近鉄の梨田監督は、﹁アイツしかいない。今年のアイツは何かをやる﹂として<ref name="SN07828">{{Cite web 北川は満塁となった状況、さらには元々7回の古久保の打順で代打に送られる予定が川口の本塁打で変更になったというタイミングもあり、﹁初球のど真ん中の直球にまったく動けなかった﹂という。そしてカウント0ボール2ストライクからの3球目を見送ったところで﹁球の見極めはできていると確信し、これで地に足がつきましたね﹂とコメントしている<ref>{{Cite news |title=史上初代打逆転サヨナラ満塁優勝決定HRを近鉄・北川振り返る |date=2013-10-01 |newspaper=週刊ポスト |url=https://www.news-postseven.com/archives/20131001_214357.html?DETAIL |accessdate=2020-07-08 |issue=2013年10月11日号}}</ref>。 333 ⟶ 332行目:
{{BASEBALLstats|brjpn=kitaga001hir|cube=Hirotoshi-Kitagawa}}
{{阪神タイガースの選手・スタッフ}}
{{阪神タイガース1994年ドラフト指名選手}}
{{Navboxes|title={{Flagicon|JPN}} 野球日本代表
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