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{{Otheruseslist|中国における四夷の一つである北狄ないし狄|日本史における狄|蝦夷|将棋の駒|北狄 (将棋)}}
[[ファイル:Tianxia ja.svg|thumb|四夷の名称]]
'''北狄'''︵ほくてき︶あるいは'''狄'''︵てき︶は、[[四夷]]の一つ。古代[[中国]]において北方の[[中原]]的[[都市]]文化を共有しない[[遊牧民|遊牧民族]]を呼んだ呼称である<ref>[[白鳥庫吉]]は狄を[[テュルク系民族|テュルク系]]であるという見解を示している︵モンゴル系ではなく︶。</ref>。﹃[[山海経]]﹄の説に従えば、'''北狄'''は[[黄帝]]の孫から生まれた末裔というであり、その始祖は始均だという。北方の民族は度々中原を侵略したことから、北方にいた異民族は総じて狄と呼ばれるようになり、北狄は蔑称としての意味合いが強くなった。北狄は、[[軍事力]]だけでなく[[政治|政治力]]も決して農耕帝国に劣ることはなく、[[アーノルド・J・トインビー]]は、﹁[[動物]]を取り扱う民族は[[植物]]を取り扱う[[農耕民族|農耕民]]より劣ることはありえない﹂と喝破している<ref>{{Cite book|和書|author=[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]|date=2015-03-15|title=克 中韓論|series=|publisher=[[イースト・プレス]]|ISBN=4781613144|page=80}}</ref>。
== 夏殷の時代 ==
翟人は[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]頃には[[オルドス高原|オルドス地方]]一帯で繁栄していたようで、考古物から時代ごとの人口の増加と経済的発展が確認される。その後、水と草を追い求めながら東方や南方へ向かって居住地域を拡大、[[夏 (三代)|夏]]・[[殷]]前期には翟人の遊牧地域は[[華北]]一帯︵主に[[山西省|山西]]・[[河北省|河北]]・[[陝西省|陝西]]︶で存在していた事が確認されている。殷後期・周の時代へ入ると遊牧生活や習俗が礼記に[[記録]]されるなど中原の文献にも登場し始め、長狄、赤狄、白狄といった集団が史書に記されている。それらの[[首長]]家系は[[晋 (春秋)|晋]]の公室と通婚するなど中原諸侯を構成した諸国とも密接な関わりを持ち、居住地も中原北部に点在し北方諸侯に属する[[都市国家]]群の点状に分散する領地の間に広く居住していた。
== 殷周の時代 ==
殷晩期の地層から多数の[[青銅器]]や[[陶磁器|陶器]]が出土するなど殷前期からの生産力の発展が見られ、また多くの遺跡から殷様式の器物が見つかっており[[華夏族]]との交流が覗える。一方で殷・[[周]]時代は[[奴隷]]制の全盛時代でもあって、その供給源は主に戦争によるが、殷・周王朝は頻繁に周辺国へ侵攻し、両民族の間に激しい戦闘が度々起きていた事が史書の記述にも残る。特に周の時代に入ると大規模な戦争が繰り返し行われ<ref>『逸周書』には周の初期に数百の国を滅亡または服属させ、五千人を斬首・捕虜13000人を得たと記す。</ref>、戦争によって翟人は[[関中]]などの西北地域から追われて、多くが東や北へ移動したとされる。
[[殷|殷王朝]]の伝説的な始祖である[[契 (殷)|契]]の母は、有娀︵有戎︶の娘で[[嚳|帝嚳]]の次妃であった[[簡狄]]である。簡狄は妹とともに玄丘で水浴びをしていたところ、[[ツバメ|玄鳥]]の卵を誤って呑んでしまい、その後に契が生まれた。有娀︵有戎︶の﹁[[戎]]﹂は西方の[[遊牧民]]を意味し、有娀︵有戎︶の娘である簡狄の﹁狄﹂は北方の[[狩猟|狩猟民]]を意味する<ref name="岡田英弘"/>。[[女神]]が野外の[[入浴|水浴]]の場で、天から降りてきた鳥の卵を呑んでに妊娠し、男の子を生むというのは、[[北アジア]]の狩猟民や遊牧民に共通の始祖伝説であり、殷人が北方の狩猟民﹁北狄﹂の出身であることは疑いなく、殷が実在した[[都市国家]]であったことは確かであるが、[[モンゴル高原]]から[[山西高原]]を通って南下し、[[河南省|河南]]の[[夏 (三代)|夏国]]を征服したとみられる<ref name="岡田英弘">{{Cite book|和書|author=[[岡田英弘]]|authorlink=岡田英弘|date=2005-09-16|title=だれが中国をつくったか|series=[[PHP新書]]|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569646190|pagepages=28-29}}</ref>。
== 春秋戦国時代 ==
周王朝が衰えると、河北や山西などの長城沿いに居た[[白狄]]が大挙して南下を始め、[[中山国|中山]]と呼ばれる強大な狄人国家を建て、後に諸侯国となった。また、晋の[[文公 (晋)|文公]]重耳に仕え、[[外戚]]ともなった重臣[[狐偃]]ら[[狐氏]]一族が、白狄の出身であったことがよく知られる。中山国は[[春秋戦国時代]]、中原の争乱へ参与したが趙に滅ぼされ、白狄人は華夏人の中に同化していった。
== 赤狄 ==
他方、比較的北方に居住していた最大人口を保持する[[赤狄]]は、[[紀元前11世紀]]頃から主として北や北西に移動しつつ、大挙してモンゴル高原や[[シベリア|南シベリア]]・[[満洲|満州]]・[[朝鮮]]の原住民を征服、中原の技術や産物を持ち込み大きな変化と人口増加をもたらした。後の[[匈奴]]で一部分を構成したとされ、また西方へ伝播した遊牧文化の流れも、この移動に起因すると考えられている。
== 脚注 ==
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