「十五里ヶ原の戦い」の版間の差分

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8月、上杉景勝は本庄繁長・大宝寺義勝に尾浦城攻撃を命じる。一方の東禅寺兄弟は野戦での迎撃を決め、両者は十五里ヶ原で対峙した。
 
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最上義光が上杉から庄内を奪還するのは、[[慶長出羽合戦]]の翌年[[慶長]]6年([[1601年]])4月になる。
 
== 逸話 ==
* 東禅寺勝正が本庄繁長に切りかかった際、手にしていたのが[[正宗]]で、本庄繁長の手に渡ったことから'''本荘(本庄)正宗'''と言われるようになったという。後に本庄正宗は複数の所有先を経て、最終的に[[徳川家康]]へ献上され、[[徳川家綱]]以降将軍家第一の家宝とされた。しかし、[[第2次大戦]]後に進駐軍に没収され、[[1946年]]にとある米兵が持ち去って以来行方不明である。
* [[村上市]]郷土資料館の所蔵する'''六十二間星兜'''がこの時に本庄繁長の着用していた兜とされる。伝承のように切り取られてはいないが、額右側に刀傷がついている。
 
 
== 出典 ==