「十五里ヶ原の戦い」の版間の差分
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8月、上杉景勝は本庄繁長・大宝寺義勝に尾浦城攻撃を命じる。一方の東禅寺兄弟は野戦での迎撃を決め、両者は十五里ヶ原で対峙した。
合戦開始当初は両軍互角の状況だったが、次第に数で劣る最上軍が追いつめられていき、東禅寺義長は敵本陣に突撃し戦死。兄戦死の報を受けた勝正もまた単身本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかっ この後、最上軍は[[朝日山城]]などで抵抗を続けたが敗れ︵[[朝日山城の戦い]]︶、庄内地方は上杉景勝の版図となる。繁長は余勢を駆ってさらに兵を進めたが、東根で最上勢の猛反撃に遭い撤退した。 37行目:
この戦が起きたのは、天正15年︵1587年︶12月の[[豊臣秀吉]]による奥羽[[惣無事令]]の発令後であり、本来この出兵は認められないはずであった。ところが秀吉は大宝寺義勝の庄内復帰を黙認した。さらに、天正18年︵[[1590年]]︶8月23日、上杉氏によって執行された庄内地方での[[太閤検地]]に抵抗する[[藤島一揆]]が勃発し、翌天正19年︵[[1591年]]︶に一揆煽動の容疑により義勝が改易された後<ref>大宝寺義勝改易の理由は、あくまでも藤島一揆煽動の容疑であり、十五里ヶ原の戦いが問題とされたのでは無かった。</ref>、庄内を与えられたのは上杉景勝であった。この裁定と[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]における[[駒姫]]の死とが重なって、最上義光は秀吉や上杉氏に対して深い疑念と憎悪の念を抱き、[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]に味方する原因となったとする説がある。 最上義光が上杉から庄内を奪還するのは、[[慶長出羽合戦]]の翌年[[慶長]]6年([[1601年]])4月になる。
== 逸話 ==
* 東禅寺勝正が本庄繁長に切りかかった際、手にしていたのが[[正宗]]で、本庄繁長の手に渡ったことから'''本荘(本庄)正宗'''と言われるようになったという。後に本庄正宗は複数の所有先を経て、最終的に[[徳川家康]]へ献上され、[[徳川家綱]]以降将軍家第一の家宝とされた。しかし、[[第2次大戦]]後に進駐軍に没収され、[[1946年]]にとある米兵が持ち去って以来行方不明である。
* [[村上市]]郷土資料館の所蔵する'''六十二間星兜'''がこの時に本庄繁長の着用していた兜とされる。伝承のように切り取られてはいないが、額右側に刀傷がついている。
== 出典 ==
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