「南蛮」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(19人の利用者による、間の32版が非表示) | |||
2行目:
{{Otheruses|古代の民族集団|将棋の駒|南蛮 (将棋)}}
[[ファイル:Tianxia ja.svg|thumb|四夷の名称]]
'''南蛮'''︵なんばん︶あるいは'''蛮'''︵ばん︶は、[[四夷]]のひとつであり、[[中国大陸]]を制した[[朝廷 (日本)|朝廷]]が南方の帰順しない[[中国の異民族|異民族]]に対して用いた[[侮蔑|蔑称]]である。 [[日本]]でも当初は同様の意味で用いられていたが、[[15世紀]]にヨーロッパ人との[[南蛮貿易]]が始まって以降は、主に[[ヨーロッパ]]や[[東南アジア]]・[[スペイン]]や[[ポルトガル]]の文物や人物を指す語となった。
== 中国 ==
本来﹁蛮﹂とは、 [[クビライ]]によって[[南宋]]が滅ぼされると、[[漢人]]が逆に南蛮人と呼ばれるようになった<ref>{{Cite book|和書|author= 異民族支配の時期でも「南蛮」という蔑称の概念を継続したように、先進文明として相対する蔑称である。
=== 後漢時代 ===
﹁[[後漢書]]﹂の﹁列伝 南蛮・[[西南夷]]﹂の中で南蛮に該当するのは[[槃瓠神話]]で﹁[[槃瓠]]の子孫は栄え[[蛮夷]]と称した。今日の長沙・武陵蛮がこれ当たる。﹂と記述。南蛮地域は[[長江]]中下流域の[[楚]]・[[呉]]・[[越]]が該当する。今日の[[ヤオ族]]・[[シェ族]]に始祖伝説として盤瓠神話が伝わる。南蛮の西には西南夷が暮らし該当するのは[[竹王伝説]]・[[哀牢伝説]]がそれで[[夜郎夷]]・[[哀牢夷]]という西南夷の一部族だと。夜郎夷は[[貴州省]]、哀牢夷は[[雲南省]]にそれぞれ存在していた事が伝わる。 === 三国時代 ===
[[諸葛亮]]の[[諸葛亮南征|南中平定]]︵南蛮平定︶について、 === 元代 ===
[[13世紀]]、[[元 (王朝)|元]]が[[南宋]]を征服して中国全土を支配すると、[[モンゴル|モンゴル人]]は[[遼]]や[[金 (王朝)|金]]の遺民である華北の住民を﹁漢人﹂、南宋の遺民である江南の住民を﹁南家﹂と呼び、キタイ人︵遼・金の遺民︶は南シナの住民を﹁蛮子﹂の蔑称で呼んだ。モンゴル人や[[色目人]]と比べて、漢人や南人は公職への登用が限定されていた。[[マルコ・ポーロ]]の﹃[[東方見聞録]]﹄では、中国北部のことを﹁キタイ﹂、中国南部のことを﹁チーン﹂と呼んでいる。 == 日本 ==
[[ファイル:Namban-15.jpg|250px|right|thumb|南蛮人(16-17世紀、[[狩野内膳]]画の南蛮屏風より)]]
﹁南蛮﹂の語は﹃[[日本書紀]]﹄巻九にあるが、中国の華夷的地理観を受け継いだ観念的なものだった<ref name="nakamura">{{Cite journal|和書|author=中村質 |date=1990-02 |url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg02002 |title=﹁南蛮﹂から﹁紅毛﹂へ |journal=史学論叢 |ISSN=03868923 |publisher=別府大学史学研究会 |volume=20 |pages=21-36 |naid=120002812553 |CRID=1050001337844792576 |ref=harv |accessdate=2024-06-18}}</ref>。 時代が下り、16世紀半ばにはポルトガル人やイスパニア人を指して南蛮人と呼ぶようになった<ref name="nakamura" />(ただしこれより前の[[1412年]]に[[若狭国]][[小浜市|小浜]]に漂着した[[インドネシア]][[パレンバン]]付近の船も「南蛮船」と称されることがある<ref name="nakamura" />)。[[1543年]]<!-- 出典に1943年とあるが鉄砲伝来の記述であり誤植 -->に[[種子島]]に中国船が漂着した際に船にはポルトガル人が便乗しており([[鉄砲伝来]])、『[[鉄炮記]]』によるとこの船に乗っていた五峰という明の人物が「西南蛮種之賈胡也」と村人に書き示したことが由来になっているという<ref name="nakamura" />。これらの諸国と日本との[[南蛮貿易]]が始まると、貿易によってもたらされた文物を「南蛮」「南蛮渡来」などと呼ぶようになった。
西洋人と日本人で礼儀作法が大きく異なっていたことで野蛮視されていたところもあり、土足であがったり唾を吐く行為、黒人奴隷を引き連れているといった点に加え、手づかみで食べる、肉食好き、椅子に座るといったことも奇異に思われていた。西洋人側も日本人を﹁ネグロ﹂と呼んでいた<ref>{{Cite journal|和書|author=坂西友秀 |yrar=2002 |url=https://sucra.repo.nii.ac.jp/records/17315 |title=鎖国前後における日本人の西洋人観・黒人観の心理-歴史的背景 |journal=埼玉大学紀要. 教育学部. 教育科学 |ISSN=0387-9321 |publisher=埼玉大学教育学部 |volume=51 |issue=2 |pages=73-95 |doi=10.24561/00017309 |CRID=1390290699790984064}}</ref>。 === 南蛮料理 ===
[[ファイル:Kamonanban2.JPG|thumb|鴨南蛮]]
﹁南蛮﹂の語は、今日の[[日本語]]においても長ネギや[[唐辛子]]を使った料理にその名をとどめている。﹁南蛮料理﹂という表現は、16世紀にポルトガル人が[[鉄砲伝来#種子島への 南蛮料理が現れる最も古い記録には、[[17世紀]]後期のものとみられる﹃南蛮料理書﹄がある [[唐辛子]]は別名を﹁南蛮辛子﹂という。[[南蛮煮]]は肉や[[魚類|魚]]を[[ネギ]]や唐辛子と煮た料理である。[[南蛮漬け]]は[[マリネ]]や[[エスカベッシュ]]が原型と考えられている。[[カレー南蛮]]には唐辛子の入ったカレー粉とネギが使用されている。[[文政]]13年︵[[1830年]]︶に出版された古今の文献を引用して[[江戸]]の風俗習慣を考証した﹃[[嬉遊笑覧]]﹄には[[鴨南蛮]]が取り上げられており、﹁又葱︵ねぎ︶を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり﹂と記されている<ref>[http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/11_01.html 鴨南蛮] 麺類雑学辞典</ref>。 ===「南蛮」を名称に含む料理 ===
* [[南蛮漬け]] - アジ、ワカサギなど
* [[蕎麦#南蛮蕎麦|南蛮(蕎麦)]] - [[鴨南蛮]]・[[カレー南蛮]]・鳥南蛮・肉南蛮
* [[南蛮煮]]
* [[チキン南蛮]]
* [[アジ南蛮]]▼
* [[南蛮菓子]]
* [[唐辛子味噌|南蛮味噌]] - 「南蛮」と呼ばれる[[唐辛子|青唐辛子]]の味噌漬け、[[仙台牛タン焼き]]の付け合わせ。
== 脚注 ==▼
{{脚注ヘルプ}}▼
{{Reflist|30em}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|author=江後迪子 |title=南蛮から来た食文化 |publisher=弦書房 |year=2004 |ISBN=978-4902116250 |id={{国立国会図書館書誌ID|000007512972}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007512972 |ref={{harvid|『南蛮から来た食文化』}}}}
* {{cite book|和書|author=片寄眞木子 |title=南蛮料理のルーツを求めて |publisher=平凡社 |year=1999 |isbn=978-4582824292 |id={{国立国会図書館書誌ID|000002901554}} |url=https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002901554 |ref={{harvid|『南蛮料理のルーツを求めて』}}}}
== 関連項目 ==
48 ⟶ 59行目:
* [[西戎]]
* [[北狄]]
* [[五渓蛮]]
▲== 脚注 ==
* [[武陵蛮]]
▲{{脚注ヘルプ}}
* [[百越]]
* [[呉越]]
* [[楚]]
* [[長江文明]]
* [[稲作]]
* [[ミャオ・ヤオ語族]]
{{DEFAULTSORT:なんはん}}
|