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'''原 敬'''(はら たかし、[[1856年]][[3月15日]]
[[位階]][[勲等]]は[[正二位]][[大勲位菊花大綬章|大勲位]]。[[幼名]]は'''健次郎'''︵けんじろう︶。[[雅号|号]]は'''一山'''、'''逸山'''︵いつざん︶。﹁'''はら けい'''﹂と[[音読み]]が用いられる場合もある︵原敬記念館、﹃原敬日記﹄など︶。 52行目:
[[外務次官]]、[[大阪毎日新聞社]][[社長]]、[[立憲政友会]][[幹事長]]、[[逓信大臣]]︵第[[第4次伊藤内閣|11]]・[[第1次西園寺内閣|16]]代︶、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]︵第[[第1次西園寺内閣|25]]・[[第2次西園寺内閣|27]]・[[第1次山本内閣|29]]代︶、立憲政友会[[総裁]]︵第3代︶、[[内閣総理大臣]]︵[[原内閣|第19代]]︶、[[司法大臣]]︵[[原内閣|第22代]]︶などを歴任した。 == 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:Birthhouse of Hara Kei (Prime Minister Takashi Hara).jpg|thumb|生家(岩手県盛岡市)]]
[[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]︵[[1856年]][[3月15日]]︶に父直治42歳・母リツ32歳の子として生まれ、健次郎と名付けられた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=5}}。原家は[[近江国|近江]][[浅井氏]]の流れを汲み、江戸期に入ってから[[盛岡藩]][[南部氏]]に仕えた家系で [[旧暦]]明治3年︵[[1870年]]︶1月 [[1875年]]︵明治8年︶5月、エヴラールと別れて原は盛岡に戻 === メディアの記者に ===
再度上京した原は[[箕作秋坪]]の英学塾[[三叉学舎]]で学び、[[1876年]]︵明治9年︶、[[司法省法学校]]を受験し、 退社後 === 外交官・官僚 ===
[[ファイル:Hara Takashi while working in Paris from 1885 to 1889.jpg|thumb|パリ時代の原]]
しかし [[1889年]]︵明治22年︶4月 [[1892年]](明治25年)3月、陸奥の大臣辞職に伴い、原も依願辞職する<ref>『官報』1892年3月15日「叙任及辞令」。</ref>。外務省や農商務省による慰留も固辞した理由は、当時伊藤が政党結成のために動いており、原は陸奥がその中心人物となると見ていたためである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=62-63}}。果たして7月に[[第2次伊藤内閣]]が成立、陸奥が外務大臣に就任すると原は通商局長として外務省に復帰する<ref>『官報』1892年8月16日「叙任及辞令」。</ref>。大臣官房移民課長兼勤・省令審査委員<ref>『官報』1892年8月17日「叙任及辞令」。</ref>、さらに外務省取調局長を兼任し<ref>『官報』1892年9月8日「叙任及辞令」。</ref>、[[領事裁判権]]の撤廃や外務省改革に従事、同省機構改革と[[外交官試験]]の導入を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=64-70}}。
1895年︵明治28年︶には外務次官となり、病気で体調を崩していた陸奥に代わって事実上の外相として活動したが、たびたび高熱を発して病床についた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=72}}。1896年︵明治29年︶6月には陸奥の辞職が認められ、原は駐朝鮮公使となった。しかし10月に[[第2次松方内閣]]が成立し、大隈重信が外務大臣となったため、方針が合わない原は辞職を決意して帰国、1897年︵明治30年︶2月23日に正式に後任が決まって離職した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=75-76}}。また1896年︵明治29年︶11月には妻貞子の不貞が発覚し、別居。盛岡から上京してきた母のリツ、姪の栄、妾の菅野浅と同居するようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=77-78}}。▼ ▲[[日清戦争]]後の[[1895年]]︵明治28年 明治28年8月、原は﹃[[大阪毎日新聞]]﹄の編集総理︵編集長︶として招聘され、年俸5000円という破格の待遇で編集長を務めることとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=79-81}}。原は一食15銭の牛肉弁当を食べて毎日遅くまで働き、﹁ウシベン﹂という渾名で呼ばれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=81}}。1898年︵明治31年︶9月には社長に就任、速報性より正確性を重視した原体制の下で、年2000万部程度であった同紙は一年で年900万部ほど部数を伸ばし、最終的には3倍の部数となった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=81-82、90}}。一方で中央政界復帰を忘れてはおらず、毎月のように上京しては政界要人と連絡を取っていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=83}}。▼ ▲ === 伊藤総裁下の政友会 ===
[[第3次伊藤内閣]]は1898年 [[1900年]]︵明治33年︶5月 同年12月 [[1901年]]︵明治34年︶6月、[[桂太郎]]が政権を握って組閣し︵[[第1次桂内閣]]︶、政友会は野党となった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。原は政友会立て直しのために奔走し、伊藤を説得して総裁の座にとどめた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。また総務委員のうち5名を常務員とするなどの改革を行い、自らもそのメンバーとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=99}}。しかし6月21日に星亨が暗殺され、さらに伊藤が洋行するなど、大きな柱を失った政友会は動揺していた。その状況で[[松田正久]]・[[尾崎行雄]]が桂との取引に失敗して威信を失うなど危機を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=102}}。 [[1902年]]︵明治35年︶の[[第7回衆議院議員総選挙]]では、[[盛岡市]]から出馬し、前市長の[[清岡等]]を抑えて初当選した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=105-108}}。原が盛岡で支持を広げた要因として、しばしば盛岡につながる鉄道線の問題があると指摘される{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。一方で、原自身は選挙戦の中で地元への[[利益誘導]]に言及することには消極的であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=109}}。 === 第1次西園寺内閣 ===
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=== 大正政変と山本権兵衛内閣 ===
{{See also|大正政変|第1次山本内閣}}
1912年︵大正元年︶12月21日、[[第3次桂内閣]]が成立した。しかし桂の思惑とは違い、桂を﹁閥族﹂山縣の手先と見ていた世論の大きな反発を受けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=172}}。桂は自分を支持する政党が必要であると考え、新党設立の準備と政友会の切り崩しを図った。しかし新党[[立憲同志会|同志会]]には100名に満たない議員しか集まらず、政友会を始めとする[[護憲運動]]に対抗するため、桂は大正天皇に頼った。[[1913年]]︵大正2年︶2月9日、大正天皇は西園寺に対し、事態の収拾を求める[[勅語]]を発した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174}}。西園寺は勅語には従わざるを得ないとしたものの、党員に対しては行動の自由を与えた。原と松田は勅語に従う方針を立てていたが、尾崎行雄を中心とする桂内閣打倒の動きは止められなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=174-175}}。2月11日に内乱を恐れた桂は総辞職を決断したが、西園寺が勅語に違背したとして謹慎したため、政友会内閣の成立は困難であった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=175}}。西園寺と薩摩閥は[[薩摩藩]]出身の大物[[海軍大将]][[山本権兵衛]]の擁立を提案し、山縣もそれを受け入れた。山本は原と松田を入閣させて政友会の支持をとりつけようとしたが、原は首相・外相・陸海相以外の閣僚を政友会に入党させるという条件を出した。これにより[[高橋是清]]・[[奥田義人]]・山本達雄といった閣僚が入党し、党人からは原が内務大臣、松田が[[司法大臣]]、[[元田肇]]が逓信大臣として入閣する[[第1次山本内閣]]が成立した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=176-177}}。しかしこれを薩摩閥との妥協と見た尾崎らは離党し、原に対する批判も高まった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。原の自宅には100人近い群衆が集まり、政友会の[[壮士]]とにらみ合いとなる事件も起きた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=178}}。 山本内閣は﹁閥族﹂の影響力を削ぐ政策を実行することで、世論からの支持を回復しようとした。6月には[[軍部大臣現役武官制]]を改正し、予備役でも軍部大臣に任用できるようにした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=179}}。また8月1日には[[文官任用令]]を改正し、大卒者の[[文官高等試験]]免除、次官の資格制限免除を達成した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。原は当初次官のほか局長・知事の資格制限も免除するよう求めていたが、枢密院の反対のため、次官のみに絞った。しかし枢密院の[[伊東巳代治]]はこれをも撤回させようとしたため、原が新聞にリークし、また山本首相が強く要請したため枢密院側が折れたものである{{sfn|清水唯一朗|2021|p=182-183}}。山本首相の政治力によって、懸案であった行政改革が進んだことで山本内閣は世論の支持を回復した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=183-185}}。また官僚界からも政友会に対する支持が高まり、[[床次竹二郎]]・[[水野錬太郎]]・[[安楽兼道]]・[[岡喜七郎]]といった高級官僚が現職のまま政友会に入党し、官界にも政党の影響力が強まっていった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=184}}。 一方で西園寺は政友会の後継総裁を原にするべく準備を進めていたが、大正政変で人気を落とした原は、一旦松田に総裁を務めさせるよう進言していた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=185}}。原と松田は閣僚を辞して党務に専念したい意向を山本首相に伝えていたが、山本は強く慰留した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。また原は松田と同時に辞職することを望んでいたが、松田が胃がんとなり、松田夫人が現職のまま死なせたいと望んでいたこともあり、二人は内閣にとどまり続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=186}}。しかし[[1914年]]︵大正3年︶に海軍軍人の贈収賄が発覚︵[[シーメンス事件]]︶、内閣は厳しい攻撃を受けることとなった。また新聞記者が政友会の壮士や警官に暴行を受けたと訴え出たが、原はこれらの事実関係を完全に否定し、謝罪を拒んだ{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。こうした原のはねつけるような答弁は野党の攻撃対象となり、自動車が群衆に襲撃されるなど、厳しい批判が起こるようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=187-188}}。原は事態を収拾するため、山本首相を退陣させ、自ら組閣する計画を立てた。しかし元老山縣は山本首相の意見を聞かず、非政友会内閣の樹立を目指した。[[徳川家達]]・[[清浦奎吾]]といった候補者の内閣は成立せず、山縣と井上馨は大隈重信を奏薦した。大隈の与党は立憲同志会・[[中正会]]であり、政友会は野党としてこれに対峙することとなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=192}}。 総裁不在の中、原は衆目の一致する政友会の第一人者であったが、なおも強い反発が残っていた。原は西園寺からの後継指名も一旦断り、党幹部からの一致した支持を取り付け、十分に正当性を確保できる形で後継者としての立場を確保した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=196-197}}。6月18日、本部で開かれた臨時大会において、正式に第3代立憲政友会総裁に就任した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=197}}。 127 ⟶ 129行目:
大隈は新聞を利用し、元老との対決色を全面に押し出して人気を集めた。一方で原は元老側にも接近し、松方正義とは連携を取れたもの、井上馨は反政友会の立場であり、また山縣も政党嫌いであった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=198-199}}。しかし大隈が[[営業税]]廃止などの人気取り策に出たことと、元老に無断で[[第一次世界大戦]]への参戦を決めたことで、山縣・松方は大隈内閣批判の姿勢を鮮明にした。これを受けて原は山縣のもとに足繁く通うようになり、信頼関係の醸成に努めたが、大隈が二個師団増設の方針を決めたため、山縣と連携を取ることもできなった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=200}}。 [[1915年]]︵大正4年︶3月25日、[[第12回衆議院議員総選挙]]が行われた。大正政変以来政友会は地方で不人気であり、また井上が大隈支持を働きかけたことで地方財界も政府支持となったため、政友会は候補者擁立にも支障を来すようになった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=203}}。大隈は自ら全国に遊説旅行にでかけ、閣員も総動員した大規模な選挙活動を行った。これに対して原は本部にこもりきりであり、対抗できる政策も打ち出せなかったため、十分な支持拡大ができなかった。これに加えて[[大浦兼武]]内務大臣による強力な選挙干渉が行われた。選挙で政友会は選挙前の184議席から106議席と大きく議席を減らし、大物幹部も落選するという大敗を迎えた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=205}}。政友会内部では選挙の敗因は大浦内相による選挙干渉であるという認識が強く、原の責任問題とはならなかった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206}}。原は若手の議員を幹事に登用し、また官僚出身の議員を政務調査会に入れ、[[シンクタンク]]である政務調査室を設置することで政策提言能力を高めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。また6月の議会では[[立憲自由党]]系の政党総裁として初めて演壇に立ち、立憲同志会総理である[[加藤高明]]外相と激しい論戦を繰り広げた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=209}}。 大隈内閣は大正天皇の即位礼が終わった後に退陣するという合意を元老側と行っていたが、世界大戦と中国情勢を理由に存続を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=213}}。[[1916年]]︵大正5年︶になると後継首相の座を巡って暗闘が続いた。原は内閣が存続すればするほど大隈らの人気が下がることを見越し、待ちの姿勢を続けた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=206-208}}。 === 寺内内閣 ===
{{See also|寺内内閣}}
1916年︵大正5年︶10月9日、山縣の奏薦で寺内正毅が首相となり、[[寺内内閣]]が成立した。山縣は寺内を同志会と連携させるつもりであった。しかし寺内は戦時であるため挙国一致内閣をとるべきであると主張し、同志会との連携を断った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=215}}。また政党員の入閣は山縣らによって阻止されたため、内閣は[[超然主義]]の非立憲内閣として世論から糾弾された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=217-218}}。また同志会は非政友会系の諸派と連合して[[憲政会]]を設立し、議会の最大勢力として政府を攻撃した。内務大臣の[[後藤新平]]は政友会の助力を得るため、政友会党員であった水野錬太郎を次官とし、実質的な内務大臣とした{{sfn|清水唯一朗|2021|p=219}}。選挙管理を行う内務省が実質的に政友会の影響下にあることで、原は解散総選挙を急ぐこととなった。また寺内内閣も憲政会の削減を目標とし、憲政会への攻撃と政友会・[[立憲国民党]]への援助を行った。国民党は政府からの資金援助を受けたが、原はこれを断っている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=222-223}}。[[1918年]]︵大正7年︶4月20日の[[第13回衆議院議員総選挙]]で、政友会は過半数には及ばなかったものの163議席を獲得、対する憲政会は大敗した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=223}}。 原は議会でも是々非々の対応を取り、義務教育費の国庫補助など政友会の政策を実現していった{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226}}。また7月16日には[[外交調査会]]が設置され、政党指導者である原と国民党の[[犬養毅]]もメンバーとなった。原は大陸に対する積極関与や[[シベリア出兵]]には反対であったが、独断で英仏に出兵を約束した[[本野一郎]]外相には辞任を求めず、米英仏との関係を維持するよう求めた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=226-227}}。 153 ⟶ 155行目:
==== 教育政策 ====
第41議会前に[[大学令]]と[[高等学校令]]を発し、公立・私立大学の設置が認められた。これにより[[1919年]]︵大正8年︶2月には[[慶應義塾大学]]、[[早稲田大学]]、4月には[[明治大学]]、[[法政大学]]、[[中央大学]]、[[日本大学]]、[[國學院大學]]、[[同志社大学]]が専門学校から[[旧制大学]]への昇格が認可された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また議会では﹁高等諸学校創設及拡張計画﹂を発表し、4,450万円の莫大な追加予算を伴って可決された。その計画で[[旧制高等学校|高等学校]]10校、実業専門学校17校︵[[高等工業学校]]6校、官立[[高等農業学校]]4校、官立[[高等商業学校]]7校︶、専門学校2校︵[[外国語学校 (旧制)|外国語学校]]、[[旧制薬学専門学校|薬学専門学校]]︶が新設され、5万人の進学の道が開かれた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247}}。また大戦で莫大な利益を得ていた実業界からの拠出も求め、イメージの改善を狙った財閥や企業はこれに応じている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=247-248}}。また浪費が多いと非難されていた皇室からの拠出も求めている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=248}}。 ==== 交通政策 ====
200 ⟶ 202行目:
10月19日、養子としていた貢がイギリス留学のために出国、原夫妻はこれを見送った{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。原はワシントン会議の成功と裕仁親王の摂政就任までは内閣を継続するつもりであり、各地の党大会に出向いて党内の引き締めにあたっていた{{sfn|清水唯一朗|2021|p=293}}。 [[1921年]]︵大正10年︶11月4日、原は妻の勧めるコートを着ずに家を出て、閣議のあと大正天皇・貞明皇后に拝謁、菊の鉢植えを下賜された{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。午後7時、大阪で開かれる関西政友会大会に出席するため側近の[[肥田琢司]]らと[[東京駅]]に到着した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。駅長室から乗車口に歩き出たところ、[[大塚駅 (東京都)|大塚駅]]転轍手であった[[中岡艮一]]に心臓を刺され、死亡した。ほぼ即死であったとされる{{sfn|清水唯一朗|2021|p=294}}。[[享年]] 原の死を知ったワシントン会議代表団は帰国も検討したが、加藤友三郎が押し留めた。また[[横田千之助]]は﹁この会議が失敗すれば世界は再び鉄火の洗礼を受ける﹂という原の言葉を伝えている{{sfn|清水唯一朗|2021|p=297}}。元老山縣も大きく力を落とし、まもなくこの世を去った。一方強力な指導者であった原を失った政友会はまとまりを欠き、2年後に分裂した{{sfn|清水唯一朗|2021|p=298}}。 247 ⟶ 249行目:
* {{Cite book|和書 |title=現行条約論 |date=1892-10 |publisher=阪上汎愛堂 |id={{全国書誌番号|40030941}} |ncid=BN08907892}}
* {{Cite book|和書 |editor=万国公法会 |others=原敬訳註 |title=陸戦公法 |date=1894-08 |publisher=報行社 |id={{全国書誌番号|40031164}} |ncid=BA35301459}}
* 『新条約実施準備』本編・補遺、[[大阪毎日新聞社]]、1898–1899年。
* {{Cite book|和書 |title=外交官領事官制度 |date=1899-06 |publisher=[[警醒社]] |id={{全国書誌番号|40030919}} |ncid=BA50474485}}
* {{Cite book|和書 |editor=大阪毎日新聞社 |title=でたらめ |date=1899-08 |publisher=東枝律書房 |id={{全国書誌番号|41018444}} |ncid=BB13775843}}
269 ⟶ 272行目:
『[[原敬日記]]』(はらけいにっき)は、明治・大正期の政治動向に関する重要な史料である。
『原敬日記』は、一般には
実際に、初刊は没後30年近くを経た
* 『原敬日記』
* 『原敬日記』
* 栗田直樹『原敬日記を読む』[[成文堂]]、2018年
== 家族・親族 ==
289 ⟶ 292行目:
== 栄典 ==
; 位階
* [[
* [[
* [[1891年]](明治24年)12月11日 - [[正六位]]<ref>『官報』第2538号「叙任及辞令」1891年12月14日。</ref>
* [[1892年]](明治25年)9月26日 - [[従五位]]<ref>『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。</ref>
* [[1893年]](明治26年)12月16日 - [[正五位]]<ref>『官報』1893年12月18日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1895年]](明治28年)6月29日 - [[従四位]]<ref>『官報』1895年7月1日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1897年]](明治30年)10月30日 - [[正四位]]<ref>『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。</ref>
* [[1907年]](明治40年)10月11日 - [[従三位]]<ref>『官報』第7288号「叙任及辞令」1907年10月12日。</ref>
297 ⟶ 303行目:
* [[1921年]](大正10年)11月4日 - [[正二位]]<ref name="asert">『官報』号外「叙任及辞令」1921年11月4日。</ref>
; 勲章等
* [[
* [[1893年]](明治26年)12月28日 - [[勲五等瑞宝章]]<ref>『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。</ref>
* [[1895年]](明治28年)6月21日 - [[勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』1895年6月22日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1896年]](明治29年)6月16日 - [[旭日章|勲三等旭日中綬章]]<ref>『官報』第3889号「叙任及辞令」1896年6月17日。</ref>
* [[1906年]](明治39年)4月1日 - [[勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』1907年9月23日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1914年]](大正3年)4月4日 - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第503号「叙任及辞令」1914年4月6日。</ref>
* [[1915年]](大正4年)11月10日 - 大礼[[記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
* [[1920年]](大正9年)9月7日 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]<ref>『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。</ref>
* [[1921年]](大正10年)
**
**
; 外国勲章佩用允許
* [[1888年]](明治21年)7月7日 - [[ベルギー
* [[1889年]](明治22年)5月14日 - [[フランス
* [[1896年]](明治29年)
** 3月6日 - [[イタリア王国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1896年3月7日「叙任及辞令」。</ref>
** 3月17日 - [[ロシア帝国]]:神聖アンナ第一等勲章<ref>『官報』第3815号「叙任及辞令」1896年3月21日。</ref>
** 10月26日 - [[スペイン
* [[1897年]](明治30年)
▲* [[1911年]](明治44年)[月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双竜宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref>
** 4月27日 - [[デンマーク王国]]:[[ダンネブロ勲章]]一級コンマンドール<ref>『官報』1897年5月3日「叙任及辞令」。</ref>
** 5月20日 - [[ドイツ帝国]]:王冠第一等勲章<ref>『官報』1897年5月25日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1908年]](明治41年)2月26日 - [[大韓帝国]]:李花大勲章<ref>『官報』1908年2月29日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1911年]](明治44年)6月26日 - [[清|大清帝国]]:頭等第三双龍宝星<ref>『官報』第8490号「叙任及辞令」1911年10月6日。</ref>
* [[1919年]](大正8年)10月18日 - [[ギリシャ王国]]:救世主第一等勲章<small>([[:en:Order_of_the_Redeemer|英語]])</small><ref>『官報』1919年10月21日「叙任及辞令」。</ref>
* [[1920年]](大正9年)10月20日 - [[ルーマニア王国]]:ルーマニア星第一等勲章<small>([[:fr:Ordre_de_l'Étoile_de_Roumanie|仏語]])</small><ref>『官報』1920年10月25日「叙任及辞令」。</ref>
== 郷里での顕彰 ==
322 ⟶ 338行目:
== 関連作品 ==
;テレビドラマ
* 『[[平民宰相 原敬]]』
* 『[[熱い嵐]]』
* 『[[足尾から来た女]]』
* 『[[経世済民の男|経世済民の男 高橋是清]]』
* 『[[青天を衝け]]』
;漫画
* [[能條純一]]作画『[[昭和天皇物語]]』
;小説
* [[平谷美樹]]『[[国萌ゆる 小説 原敬]]』2021年(ISBN 978-4408537955)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 参考文献 ==
* 千葉勝「[https://hdl.handle.net/10129/3302 原敬と華族 : 南部家との関係を中心に]」『弘前大学國史研究』115号 p5.3-71 2003年, [[弘前大学]]國史研究会, {{issn|0287-4318}}
* {{Cite book|和書|author=楠精一郎|authorlink=楠精一郎|title=列伝・日本近代史 伊達宗城から岸信介まで|publisher=[[朝日新聞]]社|series=[[朝日選書]]|year=2000|ref={{SfnRef|楠|2000}}}}
* [[伊藤之雄]]『元老 西園寺公望』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]〉、2007年
* 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』[[中央公論新社]]〈[[中公新書]]〉、2016年
* {{Cite book|和書 |title=原敬 -「平民宰相」の虚像と実像 |series=中公新書
=== 関連文献 ===
* [[原奎一郎]]﹃ふだん着の原敬﹄[[毎日新聞社]]、1971年/[[中公文庫]]、2011年 * 原敬遺徳顕彰会『原敬 歿後五十年 その生涯』
* 原奎一郎編著『原敬』(上・下)
* 原敬文書研究会編『原敬関係文書』(全10巻・別巻1)、[[NHK出版|日本放送出版協会
* [[前田蓮山]]『日本宰相列伝7 原敬』 [[時事通信社]]、新版1985年。元版1958年
* [[テツオ・ナジタ]]『原敬 政治技術の巨匠』安田志郎訳、[[読売新聞]]社〈読売選書〉、1974年
* 原奎一郎
* 原奎一郎
* [[高橋文彦]]『原敬 颯爽と清廉に』(上・下) 、[[原書房]]、1992年
* [[山本四郎]]『評伝 原敬
* [[川田稔]]『原敬と[[山縣有朋|山県有朋]] 国家構想をめぐる外交と内政』
* [[玉井清]]『原敬と[[立憲政友会]]』[[慶應義塾大学出版会]]、1999年
* [[松本健一]]『原敬の大正』
* [[福田和也]]『大宰相 原敬』[[PHP研究所]]、2013年
* 伊藤之雄『原敬 外交と政治の理想』(上・下)、[[講談社
* 伊藤之雄『真実の原敬 維新を超えた宰相』[[講談社現代新書]]、2020年8月
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[[Category:三叉学舎の塾生]]
[[Category:日本のカトリック教会の信者]]
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[[Category:1921年没]]
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