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== 石碑 ==
[[奈良県知事]]として在任中の[[1896年]]1月30日、奈良県の[[大和神社]]に『[[日清戦争]]戦勝記念碑』を建立した。朝和村の村民の求めに応じて撰文したもので、全文が格調高い[[漢文]]で記されている<ref name="furusawa_1896" />。
{{quotation| 明治二十七年清人負盟。八月、
皇帝發詔伐清。二十八年三月清王割臺灣及遼東之地、納金乞和。十月、臺灣平師還。是役、吾大和朝和村、壮丁從軍者五十四人。此旹村民相謀、立碑勒五十四人姓名。傳乎不朽。予喜其所以、炳耀無前之偉蹟、激励尚武義勇之心也爲記。 63行目:
奈良縣知事 從四位勲四等 古澤滋撰}}
{{quotation|︵意訳︶明治二十七年︵一八九四︶[[清国]]の人は盟約に背いた。八月、[[明治天皇]]は詔︵みことのり︶を煥発あらせられて清国を征伐した。翌二十八年三月、清国の王は[[台湾]]と[[遼東半島]]を日本に割譲し賠償金を納めて和を乞うた。十月、台湾を平定して兵が帰還した。この戦争で、わが大和︵奈良︶の朝和村からは若人五十四名が従軍した。この時、村民らが相談し石碑を建立して五十四名の姓名を勒︵きざ︶み、このことを永久に後世に伝えようと考えた。私︵古澤滋︶はその趣意に賛同した。それは、輝かしき無上の偉業として、武を尚︵とうと︶び義勇の心を激励したいからである。その為に記す。 明治二十九年一月三十日
奈良県知事 従四位勲四等 古澤滋撰}}
[[1945年]]の[[大東亜戦争]]終戦後、[[GHQ]]による[[神道指令]]により[[忠魂碑]]、戦勝記念碑等の撤去・破壊が命ぜられたが、歴史的に貴重な石碑であるため破壊するに忍びず、横倒しにして土を被せ隠された。現在は元通りに修復され案内板も整備されている<ref name="furusawa_1896">﹃大和神社の古沢滋の石碑について﹄[[一般社団法人板垣退助先生顕彰会]]</ref>。 == 著作 ==
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