「合肥の戦い」の版間の差分
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| caption =
| conflict = '''合肥の戦い'''
| date = [[208年]]冬~[[
| place = 合肥(現在の[[安徽省]][[合肥市]])
| result = 一次(208年):曹操軍の勝利<br>二次(215年):曹操軍の勝利<br>三次(233年):魏軍の勝利<br>四次(234年):魏軍の勝利<br>五次(253年):魏軍の勝利<br>六次(268年):晋軍の勝利
| combatant1 = [[孫権]]軍(一次)(二次)<br>[[呉 (三国)|呉]]軍(三次、四次、五次、六次)
| combatant2 = [[曹操]]軍(一次、二次)<br>[[魏 (三国)|魏]]軍(三次、四次、五次)<br>[[西晋|晋]]軍(六次)
| commander1 = 孫権(一次、二次、三次、四次)<br>[[諸葛恪]](五次)<br>[[丁奉]](六次)
| commander2 = [[蔣済]]、[[張喜 (将軍)|張喜]](一次)<br>[[薛悌]]、[[張遼]](二次)<br>[[満寵]](三次、四次)<br>[[毌丘倹]](五次)<br>[[司馬駿]](六次)
| strength1 =
| strength2 =
|casualties1 = -
|casualties2 = -
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== 第一次戦役(208年)==
[[208年]]の[[赤壁の戦い]]で孫権・劉備の連合軍は烏林で曹操軍を打ち破り、曹操は[[荊州区|江陵]]と荊州の守備を部将達に任せると[[許昌]]へ撤退した。[[周瑜]]ら孫権軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時[[柴桑区|柴桑]]に駐屯していた孫権は余勢を駆って
曹操は張喜と[[蔣済]]に1000人の軍を指揮させ即座に救援として派遣し、[[汝南郡|汝南]]を通過する際に汝南の兵を指揮させる事とした。張喜と蔣済の軍はそもそも寡兵であった上[[疫病]]により頭数が減っていたが、蔣済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、4万の軍勢が救援として接近していると考え軍と共に撤退した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷01|author=三國志 56行目:
== 合肥新城の築城 ==
230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は[[寿春]]の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。[[曹休]]の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済はこれを﹁味方の士気を削ぐ﹂と反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の == 第三次戦役(233年) ==
62行目:
== 第四次戦役(234年) ==
[[234年]]に、孫権は[[蜀漢|蜀]]の[[諸葛亮]]の[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]に呼応し、10万の軍勢で自ら親征して巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。同時に[[陸遜]]・[[諸葛瑾]]らには 6月、合肥新城は孫権軍に包囲され、滿寵はいったん合肥新城を放棄して北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと曹叡に打診して許可を求めた。曹叡は﹁魏呉蜀の三国にとって合肥・襄陽・祁山の3城は兵法で言う所の﹃兵家必争の地﹄たる最重要防衛拠点で、魏ではこれまでここを死守することによって呉蜀からの侵攻を撃退することができた。たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできない、だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。もし私自らが親征して赴けば、敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう﹂と言い滿寵の訴えを却下した。満寵は合肥新城へ救援に赴くと、数十人の義勇兵を募り松と麻の油を用いて風上より火をかけ呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の[[孫泰 (呉)|孫泰]]を射殺した<ref>{{Cite wikisource|title=三國志/卷26#滿寵|author=三國志 魏書滿田牽郭傳|wslanguage=zh}} - 明年,權自將號十萬,至合肥新城。寵馳往赴,募壯士數十人,折松爲炬,灌以麻油,從上風放火,燒賊攻具,射殺權弟子孫泰。賊於是引退。</ref>。 76行目:
毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。
== 第六次戦役(268年)==
[[268年]]秋9月、呉は荊州と揚州で同時に軍事行動を起こした。命をうけた[[丁奉]]と[[諸葛靚]]は芍陂に布陣して合肥を攻撃し、[[孫晧]]も自ら東関まで軍をすすめた。
丁奉は、晋側の指揮を取っていた[[石苞]]が中央とうまくいっていない事を聞きつけると、有りもしない手紙を送って離間の計を行った。この計略は上手くいき、司馬炎は軍を派遣して石苞を捕らえようとするなど大きな事態に発展しかけたが、[[孫鑠]]の助言により武装解除の上石苞自ら寿春を出て罪に服したため、事態は収拾された。[[司馬駿]]が変わって丁奉と対峙した。その頃荊州では襄陽を攻めていた[[万彧]]が[[胡烈]]に打ち破られ、江夏を攻めていた[[朱績]]も撤退した為、荊州で指揮を執っていた[[司馬望]]は合肥方面へ軍を向けた。丁奉は2か月にわたって晋軍と対峙を続けていたが戦況は不利であり、司馬望の救援もやってきたため、冬11月には撤退した<ref>呉志・三嗣主伝、呉志・丁奉伝 晋書・武帝紀、晋書・安平献王孚伝及び資治通鑑より。武帝紀では司馬望と司馬駿が共同して丁奉を打ち破ったと書かれているが、安平献王孚伝では司馬望が到着する前に丁奉は撤退したとしている</ref>。これが三国時代を通して行われた合肥方面での最後の戦いとなっている。 == 脚注 ==
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