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'''吉岡 彌生'''︵よしおか やよい、[[新字体]] : '''吉岡 弥生'''、[[1871年]][[4月29日]]︿[[明治]]4年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]﹀ - [[1959年]]︿[[昭和]]34年﹀[[5月22日]]︶は、[[日本]]の[[教育者]]、[[医師]]。[[位階]]は[[正五位]]。[[勲等]]は[[勲二等]]。[[東京女医学校]]・[[東京女子医学専門学校]]・[[東京女子医科大学]]創立者。東京女医学校[[校長]]、東京女子医科大学学頭、[[至誠会 (東京女子医科大学)|至誠会]][[会長]]などを歴任した。旧姓は'''鷲山'''︵わしやま︶ == 概要 ==
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== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
[[ファイル:Yosai Washiyama cropped 5 Shizuoka Kenjin Shozoroku Frame 67.jpg|thumb|left|200px|彌生の父である[[鷲山養
[[遠江国]][[城東郡]][[土方村]]︵現‥[[静岡県]][[掛川市]]︶に、[[漢方医]]・[[鷲山養齋]]の二女として生まれる<ref name=":0">{{Cite web [[1892年]](明治25年)、[[内務省 (日本)|内務省]][[医術開業試験]]に合格し、日本で27人目の女医となる<ref name=":1" />。
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=== 学校設立 ===
[[1900年]]︵明治33年︶、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り<ref name=":2">{{Cite web 1928年︵昭和3年︶ホノルルで開かれた第1回汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席し<ref name=":3">{{Cite web === 戦時中 ===
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=== 晩年 ===
[[1955年]]︵昭和30年︶危篤に際し、勲四等[[宝冠章]]を賜る。 1959年︵昭和34年︶5月22日、[[世田谷区]]の自宅で死去<ref name=":3" />。遺言により遺体は[[病理解剖|解剖]]に付された。死後、正五位勲二等[[瑞宝章]]を賜る。 66行目:
== 栄典 ==
[[File:Yosioka Yayoi 1941.jpg|thumb|勲五等瑞宝章を佩用する[[1941年]]([[昭和]]16年)頃の吉岡。]]
* 大正13年([[1924年]]) - [[勲六等]][[瑞宝章]]。
* 昭和15年([[1940年]])- [[勲五等]]瑞宝章。
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[[Category:19世紀日本の女性ノンフィクション作家]]
[[Category:20世紀日本の女性ノンフィクション作家]]
[[Category:19世紀日本の活動家]]
[[Category:20世紀日本の活動家]]
[[Category:女性の権利活動家 (日本)]]
[[Category:日本の女性活動家]]
[[Category:日本の女性医学者]]
[[Category:日本の学校法人の理事長]]
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