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=== 人気作家への道 ===
[[1910年]]︵明治43年︶に上京、[[象嵌]]職人の下で働く。[[浅草]]に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこの頃から[[川柳]]を作り始め、[[井上剣花坊]]の紹介で﹁大正川柳﹂に参加する。[[1914年]]︵[[大正]]3年︶、﹁江の島物語﹂が﹃[[講談倶楽部]]﹄誌に3等当選︵吉川雉子郎の筆名<!-- ×名義-->︶するが、生活は向上しなかった。のちに結婚する赤沢やすを頼って[[大連市|大連]]へ行き、貧困からの脱出を目指したが変わらず、この間に書いた小説3編が[[講談社]]の懸賞小説に入選。[[1921年]]︵大正10年︶に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ﹃親鸞記﹄などを執筆する。▼ [[File:Yoshikawa Eiji1.JPG|thumb|150px|right|<center>『[[神州天馬侠]]』執筆のころ[[下落合]]の家にて<br />1925年(大正14年)</center>]]
[[関東大震災]]により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を[[講談社]]に送り様々な筆名で発表し、﹁剣魔侠菩薩﹂を﹃面白倶楽部﹄誌に連載、作家として一本立ちする。[[1925年]]︵大正14年︶より創刊された﹃[[キング (雑誌)|キング]]﹄誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った﹁剣難女難﹂で人気を得た。この時本名の﹁吉川英次﹂で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を﹁英治﹂と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これを[[ペンネーム]]とするようになった。キング誌は講談社が社運をかけた雑誌だが、新鋭作家吉川英治はまさに期待の星であり、﹁坂東侠客陣﹂﹁神洲天馬侠﹂の2長編を発表し、多大な読者を獲得した。執筆の依頼は増え、[[毎日新聞社|毎日新聞]]からも要請を受け、阿波の[[蜂須賀重喜]]の蟄居を背景とした作品﹁[[鳴門秘帖]]﹂を完成させた。これを収録した﹃現代大衆文学全集﹄もよく売れ、また作品も多く映画化された。▼ [[1910年]]︵明治43年︶に上京、[[象嵌]]職人の下で働く。[[浅草]]に住み、この時の町並みが江戸の町を書くにあたって非常に印象に残ったという。またこの頃から[[川柳]]を作り始め、[[井上剣花坊]]の紹介で﹁大正川柳﹂に参加する。 ▲ [[1921年]]︵大正10年︶に母が没すると、翌年より東京毎夕新聞社に入り、次第に文才を認められ﹃親鸞記﹄などを執筆する。[[関東大震災]]により東京毎夕新聞社が解散すると、作品を[[講談社]]に送り様々な筆名で発表し、﹁剣魔侠菩薩﹂を﹃面白倶楽部﹄誌に連載、作家として一本立ちする。 ▲ 執筆の依頼は増え、[[毎日新聞社|毎日新聞]]からも要請を受け、阿波の[[蜂須賀重喜]]の蟄居を背景とした作品「[[鳴門秘帖]]」を完成させた。これを収録した『現代大衆文学全集』もよく売れ、また作品も多く映画化された。
=== 『宮本武蔵』の誕生 ===
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