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== 人物・生涯 ==
元治元(1864)年4月14日︵4月10日との説もある<ref>千田稔 2003年16ページ</ref>︶、[[越後国]][[蒲原郡]]保田村︵現‥[[阿賀野市]]安田村︶の豪農<ref>田畑350町歩ほど、山林370町歩を所有︵千田稔 2003年20ページ︶</ref>旗野家の子︵三男︶としてに生まれる。吉田姓は[[養子]]先であり、明治17(1884)年12月から名乗った<ref>千田稔 2003年17ページ</ref>。明治8(1875)年、11歳の時から新潟学校︵後の新潟英語学校︶中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で[[小学校]][[教員]]となる<ref>1883年、20歳の時に新潟県教員検定に合格し、中蒲原郡大鹿小学校の教員となる︵岡田俊裕﹃日本地理学人物事典[近世編]﹄原書房 2011年 136ページ︶</ref>。1884(明治17)年、中蒲原大鹿新田︵新潟市秋葉区︶の吉田家の養子となり結婚する。1885(明治18)年、1年志願兵として仙台兵学校に入営する。休日には仙台師範学校の図書館︵旧仙台藩の図書を収蔵︶に通う。翌年、帰郷する。1887(明治20)年、24歳の時、小学校正教員の検定に合格し、北蒲原郡水原小学校訓導となった。この頃、歴史・地理・天文のほか考古学・人類学に関心をもつ。1889年︵明治22年︶水原小学校を辞職 1890年︵明治23年︶、27歳での[[結婚]]後に単身[[北海道]]に渡り、そこから﹃史学雑誌﹄に寄稿した﹁古代半島興廃概考﹂が学者の注意を引き、落後生という筆名で続々史論を発表し注目された。特に﹃史海﹄への投書論考が主筆田口卯吉らの注目をひき、学界への登竜門となった。1891年︵明治24年︶郷土に帰り、親戚の[[市島謙吉]]を頼って上京し、市島が主筆を務める[[読売新聞社]]に入社し、﹁徳川政教考﹂を﹃読売新聞﹄に連載。また、2年足らずで膨大な﹃日韓古史断﹄︵1893年、30歳︶を書き上げ、翌年﹃徳川政教考﹄を出版し、歴史家としての地位を固めた。 10行目:
1895年、[[日清戦争]]に記者として従軍した頃から、1893年に官撰日本地誌の編纂事業が中止されており、その事業を独力で継ごうという意思の表れでもあり<ref>岡田俊裕著 ﹃日本地理学人物事典 ﹇近世編1﹈ 原書房 2011年 137ページ</ref>、また、日本の[[地名]]の変遷を記した研究がないことに気付き、13年かかって﹃大日本地名辞書﹄11冊を完成した。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有の大地誌で、今日でも刊行されている。 歴史地理学のほか日本音楽史の造詣も深く、とくに[[能楽]]研究に意を注ぎ、﹃世子六十以後申楽談儀﹄(﹃申楽談儀﹄)を校訂、これが世阿弥伝書の発見につながる契機となった。その後、吉田が﹃花伝書﹄と命名した﹃[[風姿花伝]]﹄をはじめ,当時発見された世阿弥の著書16部を収めた﹃世阿弥十六部集﹄を校注し、従来の観阿弥・世阿弥像を一新させ 晩年は[[宴曲]](早歌︵そうが︶)研究に努め 他にも、社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が、近代史の分野では『維新史八講』があり、現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。
東京専門学校︵早稲田大学の前身︶文学部史学科講師となり、以後、[[国史]]、日本地誌、明治史、日本地理を担当、のちに教授となり、さらに維持員、理事に就任した === 家族 ===
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