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{{中国の歴史}}
'''唐'''︵とう、{{ピン音|Táng}}、[[618年]] - [[907年]]︶は、[[中国]]の[[王朝]] == 歴史 ==
[[File:Tang gao zu.jpg|left|thumb|200px|建国者 李淵]]
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==== 建国 ====
[[西晋]]の滅亡以来、[[中国]]は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが 604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広︵[[煬帝]]︶が後を継ぐ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=293}}。煬帝は文帝時代から引き継いだ[[大運河]]・[[洛陽]]新城などの大規模土木工事を完成させた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=294-295}}。さらに612年から3年連続で[[高句麗]]に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる︵[[隋の高句麗遠征]]︶{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=57-58}}。 国内の混乱が激しくなる中、北の東[[突厥]]に面する[[并州|太原]]の[[留守官|留守]]とされていた唐国公[[李淵]]は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、 同年、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位。[[武徳]]と元号を改め、'''唐'''を建国した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。この時点で[[王世充]]・[[李密]]・[[竇建徳]]・[[劉武周]]など各地に群雄が割拠していた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=66}}。李淵︵以下高祖とする︶は長男の[[李建成]]を[[皇太子]]とし、次男の[[李世民]]を[[尚書令]]として{{Sfn|布目|栗原|1997|p=73}}、各地の群雄討伐に向かわせた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=69}}。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}。 ==== 貞観の治 ====
[[File:TangTaizong.jpg |left |thumb |200px|太宗 李世民]]帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた[[朔方郡]]の[[梁師都]]を平定し、統一を果たした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=319}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=79}}。更に630年には突厥の内紛に乗じて[[李靖]]・[[李勣]]を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった[[鉄勒]]諸部から天可汗([[テングリ]]=[[カガン]])の称号を奉じられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=76}}。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を[[羈縻支配]]においた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}。635年には[[吐谷渾]]を破り、更に[[チベット]]の[[吐蕃]]も支配下に入れた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。ただし吐蕃には度々[[公主]]を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
内政面においては[[房玄齢]]・[[杜如晦]]の皇子時代からの腹心に加え、李建成に仕えていた[[魏徴]]・李密の配下であった李勣など多数の人材を集めて政治に当たった。この結果、627年の時に米一斗が絹一匹と交換されていたのが、630年には米一斗が4・5銭まで下がり、一年間の死刑者数は29人しかおらず、︵盗賊がいなくなったので︶みな外扉を閉めないようになり、道中で支給があったので数千里を旅する者でも食料をもたないようになったといい、[[貞観の治]]と呼ばれる太平の時代とされた。この時代のことを記した﹃[[貞観政要]]﹄は後世に政治の手本として扱われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=322}}。しかし統一から間もないこの時点でそこまで国力を回復できたか疑問が多く、貞観の治の実態に対して史書や﹃貞観政要﹄の記述はかなりの潤色が疑われる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=80}}。 89 ⟶ 86行目:
高宗の治世初期は長孫無忌・[[褚遂良]]・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}。ここに登場するのが武照、後の[[武則天]]である。 武照は太宗の後宮で[[才人]]︵唐[[後宮]]の階級の一つ。上から六番目︶だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って[[昭儀]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=331-332}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=111-112}}。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=114-115}}。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、[[垂簾の政]]を行い、武則天は高宗と並んで﹁二聖﹂と呼ばれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=119}}。 この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=328-329}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=84}}。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。 95 ⟶ 92行目:
[[File:武则天画像.jpg|right|thumb|200px|武則天]]
683年に高宗が死去すると武則天は高宗との間の子の李顕を帝位につけた︵[[中宗 (唐)|中宗]]︶が{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}、わずか54日でこれを廃し、弟の李旦をこれに替えた︵[[睿宗 (唐)|睿宗]]︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。当然実権は武則天にあり、彼らは武則天が皇位に登るまでのつなぎに過ぎなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。武則天に対する反乱も この反乱も程なく鎮圧され、[[690年]]に遂に武則天は帝位に登り、国号を'''周'''とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=128}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=88}}。中国史上唯一の女帝である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}。睿宗は皇嗣に格下げされて武の性を賜った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=333}}。 107 ⟶ 104行目:
2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「[[武韋の禍]]」と呼ぶ{{Sfn|氣賀澤|2005|p=90}}。
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[[File:Tang_XianZong.jpg|left|thumb|200px|玄宗]]
[[File:Tang Dynasty in the 8th century ja.svg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]
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[[File:Pao-Shan Tomb Wall-Painting of Liao Dynasty (寳山遼墓壁畫:頌經圗).jpg|right|thumb|300px|楊貴妃]]
玄宗は太子時代の妃であった[[王皇后 (唐玄宗)|王氏]]を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である[[武恵妃]]を寵愛し、その子である第十八子の寿王[[李瑁]]を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=348}}、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵︵後の[[粛宗 (唐)|粛宗]]︶を太子に立てていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=155}}。この寿王李瑁の妃の一人であったのが[[楊貴妃]]である。 一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は[[白居易]]の﹃[[長恨歌]]﹄に歌われている。その中に﹁此れ従り君主は早く朝せられず﹂とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=165-166}}。 140 ⟶ 137行目:
安禄山は757年に子の[[安慶緒]]に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の[[史朝義]]に殺される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=305}}。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=306}}。 ===
==== 律令体制の崩壊 ====
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文宗を継いだ弟の[[武宗 (唐)|武宗]]は[[道教]]を崇拝すること厚く{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=528}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=404}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}、道教側の要請もあり{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}、廃仏︵[[会昌の廃仏]]︶を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=528}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=402}}。まず845年から始まった廃仏により、還俗させられた僧尼が26万人余り・廃棄寺院4600・仏具や仏像は鋳潰されて銅銭などになった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}。寺院は長安・洛陽に4、各州に1とし{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}、それぞれに30から50の僧侶が所属するのみとした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}。これによって仏教界は大打撃を受けた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=403}}。後世に[[三武一宗の廃仏]]と言われるうちの3番目である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=527-528}}。この廃仏は単に道教に傾倒した武宗と道教側の策謀によるものだけではない{{Sfn|氣賀澤|2005|p=286}}。同時期に祆教・摩尼教・景教︵[[唐代三夷教]]︶も弾圧されているように、唐の国際性が薄れて一種の民族主義的なものが前面に出てきたことにもよる{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=403-404}}。 846年に武宗が死去し、後を継いだ[[宣宗 (唐)|宣宗]]により廃仏は終わった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}。
==== 乱の続発 ====
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また民を搾り取るだけでは足らず、兵士の人員の削減・給料のピンハネなども行われた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=462}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=411}}。このような節度使に対して兵士たちは不満を抱き、節度使・観察使を追い出す兵乱が続発する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=462}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=413}}。これら兵乱に刺激を受けて起きたのが[[裘甫の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=465}}。 859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部[[象山県]]次いで[[剡県]]を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=465-466}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=420}}。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた[[王式]]を派遣し{{Sfn|布目|栗原|1997|p=422}}、ウイグルや[[吐蕃]]の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=466}}。続けて868年、[[南詔]]に対する防衛のために[[桂州]]に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて[[龐勛]]を指導者として反乱を起こした([[龐勛の乱]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=425-426}}。龐勛軍はまず故郷である山東の[[徐州]]へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=470}}。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と[[突厥]][[沙陀族]]の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した{{Sfn|氣賀澤|2005|p=133}}{{Refnest|group="注釈"|name="朱邪赤心"|この時に活躍した沙陀族の長が{{仮リンク|朱邪赤心|zh|朱邪赤心}}で、この功績により国姓の李を授けられて李国昌を名乗る。[[後唐]]太祖[[李克用]]の父親である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=413}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=456}}。}}。
==== 滅亡 ====
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裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である[[黄巣の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}。870年くらいから唐には[[旱魃]]・[[蝗害]]などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝[[僖宗]]に出した被害報告が﹁イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり﹂というでたらめなものであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。 このような状態に対して874年(あるいは875年)に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで''「''[[黄巣の乱]]''」''が始まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。(詳細は''「''[[黄巣の乱]]''」を参照)''
しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=439}}。 880年、黄巣軍は洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
882年、黄巣軍の[[同州]]防御使であった朱温(後の[[朱全忠]])は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。さらに突厥沙陀族出身の[[李克用]]が大軍を率いて黄巣討伐に参加した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、''「''[[黄巣の乱]]''」''は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=447}}。
黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=452-453}}。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使[[李茂貞]]を滅ぼして皇帝[[昭宗 (唐)|昭宗]]を自らの根拠地である[[汴州]]に近い洛陽へと連れ出した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。 そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝[[哀帝 (唐)|哀帝]]から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を﹁梁﹂︵後世からは[[後梁]]と呼ばれる︶とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=486}}。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた{{Sfn|氣賀澤|2005|p=137}}。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=12}}、これから宋が再び統一するまでの約70年間、[[五代十国時代]]と呼ばれる分裂時代となる{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|pp=3-4}}。 == 政治 ==
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均田制は全国の丁男︵21歳から59歳までの男性︶及び中男︵18歳以上の男性︶一人につき、[[永業田]]が20[[畝 (単位)|畝]]・[[口分田]]が80畝まで支給される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。永業田は世襲が認められる田地で、[[クワ]]・[[ナツメ]]・[[ニレ]]を植えることが義務付けられる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=195-196}}。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地︵これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ︶では規定の半額が支給される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196}}。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる︵これは辞職した時に返却する︶。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=385}}。 これに対して、農民は[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟︵穀物︶2[[石 (単位)|石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]︵または布2.5丈と麻3斤︶を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、これを免除して貰うために納める税を[[庸]]と呼び、労役1日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある︵雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=388}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=200-201}}。[[府兵制]]は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す︵[[#兵制]]で後述︶。 以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、 男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する[[戸籍]]が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=389}}、戸の資産ごとに上上・ しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民︵逃戸︶が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=244-245}}。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。[[玄宗 (唐)|玄宗]]期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが[[宇文融]]の発案で行なった[[括戸政策]]である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=394-395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=153}}。 344 ⟶ 349行目:
唐政府の中央軍である禁軍として、﹁南衙﹂と呼ばれる国の正規軍と﹁北衙﹂と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛︵左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛︶は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の[[儀仗]]や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=404}}。六率府︵左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府︶には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=404-405}}。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する[[彍騎制]]を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}。 北衙禁軍は、[[李淵|高祖]]のときの元従禁軍を元とし{{Sfn|布目|栗原|1997|p=271}}、[[太宗 (唐)|太宗]]の638年︵[[貞観 (唐)|貞観]]十二年︶に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=408-409}}。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、[[高宗 (唐)|高宗]]の662年︵[[龍朔]]二年︶に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年︵[[開元]]二重六年︶に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=409}}。 安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが[[神策軍]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}。[[憲宗 (唐)|憲宗]]のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した︵[[#藩鎮との攻防]]で先述︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457-459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371-374}}。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが[[#乱の続発|先述]]の[[羨余]]であり、民衆を大いに苦しめることとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=463}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371}}。 440 ⟶ 445行目:
商業活動の活発化とともにこれらも大きく変化を見せる。決められた﹁市﹂以外の場所にも店が進出するようになり、禁じられていた夜間営業も行われるようになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。坊の方でも坊墻が壊されて街路に出入りし、坊門の開閉も厳密に守られないようになっていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。地方の農村においても交通の要衝などには﹁草市﹂と呼ばれる商業地域が誕生するようになる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=331}}。このような状態で市署の存在は有名無実のものとなり、縮小廃止への道を進むこととなる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=504}}。また行もそれまでの同業種の店舗が連なる形式から同業組合いわゆる[[ギルド]]へと変化した{{Sfn|布目|栗原|1997|p=331}}。 === 貨幣 ===
{{main|開元通宝}}
[[File:100 Tang Kaiyuan Coins.jpg|right|thumb|200px|開元通宝]]
漢代以来700年以上の長きに渡って[[五銖銭]]が使われていたが、唐建国4年後の[[621年]]に新たな[[銅銭]]である[[開元通宝]]を発行した。この開元通宝は[[五代十国時代|五代]]までの340年間に通行した{{Sfn|宮澤|2007|p=144}}。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない{{Sfn|宮澤|2007|p=145}}。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる{{Sfn|宮澤|2007|p=146}}。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。
唐政府による正式な銅銭︵官銭︶に対して民間で勝手に鋳造する私鋳銭が横行した。政府は私鋳は死罪として厳しく取り締まったが、それにもかかわらず唐代の私鋳は歴代でも最も激しいとされる{{Sfn|宮澤|2007|p=147}}。723年には銅錫の売買と銅器の製造を禁止する[[銅禁]]令を出して私鋳業者が原料の銅を入手することを困難にした{{Sfn|宮澤|2007|p=149}}。私鋳銭の中でも官銭の2銖4参に近い重量を持つ良銭もあれば、銅を少なくした悪銭もある。政府は良銭であれば通行することを認め、悪銭を取り締まった{{Sfn|宮澤|2007|p=150}}。 安史の乱以降、[[#兵制]]が[[府兵制]]から[[募兵制]]へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・[[両税法]]の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした(これを[[銭荒]]と呼ぶ)。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為(私銷)が増えた{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。政府も私銷や積銭(銅銭を溜め込むこと)の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。これが[[会昌の廃仏]]により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。
ただし当時の貨幣としては銅銭以外に絹などの現物貨幣が使われていた{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}{{Sfn|丸橋|2013|p=117}}。 === 交通・交易 ===
==== 国内 ====
[[漢]]代までは江南は後進地であり、中原の経済に大きな影響を与えるようなものではなかった。これが六朝時代を通じて開発が進み、飛躍的な発展を遂げた。さらに[[大運河]]の完成により、華北と江南の経済が結びついた{{Sfn|丸橋|2013|p=106}}。当初中国の物流は西(四川・陝西)と東(江南・河北・華南)に分断されており、2つが洛陽と長安間の道を通じてか細く繋がっているに過ぎなかった{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}。そのため首都長安では100万と謳われた人口を支えることが出来ず、朝廷ごと洛陽に引っ越して食を確保する「東都就食」という行為が頻繁に行われた{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}{{Sfn|愛宕|1996a|p=346}}。[[裴耀卿]]は733年に大規模な漕運改革を行い、南から洛陽・長安へ食料供給するシステムを作り上げることに成功する{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。これら漕運を統括するために設置されたのが[[転運使]]である{{Sfn|愛宕|1996a|p=445}}。以前は南から北へ運送できる穀物の量はせいぜい10~20万石であったのが、改革以降は毎年200万石の穀物を送ることができるようになった{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。
[[安史の乱]]後に[[#専売制]]が始まると、その運送においても大運河が大きな役割を果たす{{Sfn|金子|1996|p=493}}。それに伴い乱の影響で機能不全に陥っていた大運河の再整備が行われ、塩の販売利益がそれに当てられた{{Sfn|森部|2023|p=216}}。塩専売を司る塩鉄使と密接な関係を持つ転運使は両者が兼任されるようになり、宰相に次ぐ重要ポストとされた{{Sfn|愛宕|1996a|p=447}}。この時の財政関連として塩鉄転運使の他に六分の一つ[[戸部]]と財政全般を司る[[度支]]があり、度支が陝西・山西・四川の唐西部を塩鉄転運使が河北・河南・山東・江南の唐東部を管轄するようになる{{Sfn|丸橋|2013|p=115}}。 安史の乱以後の北方民族との戦闘に必要な諸経費・物資を専売制の利益・江南からの富(と関中における屯田・[[和糴]])で支える南北分業体制が整えられたのである{{Sfn|丸橋|2013|p=115}}。
==== 国外 ====
当時の国外交易には[[朝貢]]と[[互市]]の2つの形式がある。朝貢は国外からの使節が貢物として持ってきたものに対して絹製品を中心とした回賜品が与えられる形態で、互市は辺境の特定の場所に限って交易が認められた{{Sfn|金子|1996b|p=508}}。
西方および北方とは主に[[ウマ|馬]]を輸入し、絹で贖う[[絹馬交易]]が行われた。安史の乱以後は[[ウイグル帝国]]と取引が行われた{{Sfn|金子|1996b|p=508}}{{Refnest|group="注釈"|name="絹馬交易について"|絹馬交易についてはウイグルが優位な立場を背景に質・価格とも問題があり、更には必要以上の馬数を売りつけようとしたので、唐は支払いに苦しんでいたとされている{{Sfn|金子|1996b|p=508}}。しかし実際には価格は適正なものであり、唐が支払いに苦しんだのは唐の財政事情によるという見解がある<ref>{{Cite journal|和書|author=齋藤勝 |authorlink=齋藤勝 |title=唐・回鶻絹馬交易再考 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.106.12_2174_1 |journal=史学雑誌 |publisher=史学会 |year=1999 |volume=108 |issue=10 |page=33}}</ref>。 }}。この北方・西方との交流に大きな役割を果たしたのが[[ソグド人]]商人たちである{{Sfn|丸橋|2013|p=107}}。彼らが構築したネットワークは民間交易だけではなく、軍需物資の運搬などの公的業務も請け負った{{Sfn|丸橋|2013|p=107}}。 南の東南アジア諸国とは[[南海交易]]が行われた。拠点となったのが[[広州]]で、ここに[[市舶司]]が置かれて積み荷の検閲・課税・管理などが行われた。主な輸入品は香料・染料・[[タイマイ]]などである{{Sfn|金子|1996b|p=510}}。安史の乱以降はシルクロードが吐蕃の占領により途絶してしまい、南海交易の重要度は増した{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。また多数のイスラム商人が来て商売を行い、広州は大いに繁栄する{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。しかし[[黄巣の乱]]の際に甚大な被害を受けて交易港としての機能を喪失し、回復までに数十年の時を要した{{Sfn|愛宕|1996b|p=481}}。 東の日本・新羅・渤海とも朝貢貿易が行われ、人参や工芸品が献上された{{Sfn|金子|1996b|p=510}}。
== 文化 ==
=== 文学 ===
唐は歴代でも[[漢詩]]の黄金時代とされる{{Sfn|宇野|2005|p=119}}。唐の文化を初唐・盛唐・中唐・晩唐に区分することが[[南宋]]の[[厳羽]]が提唱して以来、一般化している{{Sfn|宇野|2005|p=119}}{{Sfn|池田|1996a|p=427}}。散文は盛唐までは漢詩の影に隠れて目立たない存在であったが、中唐に[[韓愈]]らが[[古文復興運動]]が起こして注目を集めた{{Sfn|池田|1996|p=427}}。同じく中唐以降に小説や[[講唱]]などの通俗文学も発展を遂げた{{Sfn|池田|1996a|p=427}}。 ==== 初唐 ====
初唐は建国直後から玄宗即位までの618年から712年までの期間である。この時期に六朝からの流れを受けて[[近体詩]](五言・七言、絶句・律詩)の規則・形式が確立した{{Sfn|宇野|2005|p=119}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}。
建国直後の詩人として名が挙がるのが[[魏徴]]と[[王積]]である。魏徴は太宗の諫臣として名高く、詩人としては豪快な詩風で代表作﹁述懐﹂は﹃[[唐詩選]]﹄の巻頭を飾る{{Sfn|宇野|2005|p=121}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。王積は官界で栄達せず隠退し、[[陶淵明]]風の素朴な隠士としての生活を詠んだ詩が特徴{{Sfn|宇野|2005|p=123}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。太宗本人も詩や書など文化面においても高い評価を受ける人物であり、文学の士を幕下に多く置いた。その中のひとりが[[上官儀]]であり、上官体と呼ばれる詩風で朝廷を風靡した{{Sfn|宇野|2005|p=127}}。 初唐の代表的詩人とされるのが[[王勃]]・[[楊炯]]・[[盧照鄰]]・[[駱賓王]]の四人で、[[初唐四傑]]と称される{{Sfn|宇野|2005|p=127}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=231}}。いずれも[[高宗 (唐)|高宗]]期に活躍した詩人で、四人とも官界に入るも不遇だったという共通点があり{{Sfn|宇野|2005|pp=127-128}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=231-232}}、その影響から彼らの詩には[[自照文学|自照]]の傾向が強い{{Sfn|宇野|2005|p=128}}。 その後の武則天は積極的に文化を称揚し、[[科挙]]の[[進士]]科に詩を必須のものとしたことで唐詩の隆盛を導いたと評される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=232}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=339}}。武則天期の代表詩人として﹁沈宋﹂と称される[[沈佺期]]と[[宋之問]]がいる。沈は七言律詩、宋は五言律詩を得意とした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=233}}。 これら南朝から受け継いだ技巧的な詩風に対して、[[陳子昂]]は[[漢]][[魏 (三国)|魏]]の詩風に学んで質実剛健な詩を作り、盛唐の詩へ影響を与えた{{Sfn|宇野|2005|p=137}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}。 ==== 盛唐 ====
盛唐は玄宗が即位した712年から退位させられた玄宗が死去する762年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=141}}。この時代を代表するのは何と言っても'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''であり、[[孟浩然]]・[[王維]]がそれに次ぐ。
李白は[[西域]]出身で子供の頃に蜀に移住。若き日は江南を旅し、40代になってから一度仕官したものの朝廷の気風と合わず、官界を追放される。その後はまた旅をして最後は[[当塗県|当塗]]にて病死した。伝説では舟遊びの最中に酔って水面に写った月を取ろうとして転落し、溺死したという{{Sfn|宇野|2005|pp=159-165}}。その詩の特徴は豪快で明るく、流動感に溢れ{{Sfn|宇野|2005|p=166}}、詩仙と称される{{Sfn|池田|1996a|p=427}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=237}}。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 峨眉山月歌<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P167に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
|-
|峨眉山月半輪秋
|峨眉山月 半輪の秋
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|影入平羌江水流
|影は平羌江水に入って流る
|-
|夜発清溪向三峡
|夜 清溪を発っして三峡に向ふ
|-
|思君不見下渝州
|君を思へども見ず 渝州に下る
|-
|}
杜甫は河南省鞏県︵現[[鞏義市]]︶の生まれで、その遠祖は[[西晋]]の将軍[[杜預]]である。24歳のときに[[科挙]][[進士]]科を受験するが落第。以後も官位を得るために活動するもなかなか上手く行かず、44歳のときにようやく士官が叶うが直後に[[安史の乱]]が勃発。以後、粛宗の元で一時的に官職を得るも乱の激化により家族を連れて各地を転々として最後は船の上で没した{{Sfn|宇野|2005|pp=171-175}}。その詩は社会や自身を直視した現実的な姿勢が特徴である{{Sfn|宇野|2005|p=175}}。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 貧交行<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P171に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
|-
| 翻手作雲覆手雨
| 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
|-
| 紛紛軽薄何須数
| 紛紛たる軽薄 何ぞ数ふるを須いん
|-
| 君不見管鮑貧時交
| 君見ずや [[管鮑の交わり|管鮑]]貧時の交はりを
|-
| 此道今人棄如土
| 此道 今人 棄てて土の如し
|}
孟浩然は襄陽︵現[[襄陽市]]︶の人で科挙に落第して、各地を放浪・隠逸生活に入った{{Sfn|宇野|2005|pp=148-149}}。その生活を詠んだ﹁[[春暁]]﹂が特に有名。しかし孟浩然は官途が絶たれたことに失意を感じていたようであり、隠逸生活を楽しんでいた[[陶淵明]]に対して、孟浩然は失意・孤独・寂寥感を感じさせる詩が特徴的である{{Sfn|宇野|2005|p=152}}。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | [[春曉]]<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P148に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 春眠不覺曉
| 春眠 曉を覺ず
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| 處處聞啼鳥
| 処々 啼鳥を聞く
|-
| 夜來風雨聲
| 夜來 風雨の声
|-
| 花落知多少
| 花落つること知る多少
|}
王維は当時の名門貴族・[[太原王氏]]の出身で若き頃より才能を発揮して社交界の寵児となった。21歳のときに科挙に及第して官僚の地位を得ると地方に転出した後に中央へと戻って朝廷詩人として名声を得た。しかし安史の乱が勃発すると捕らえられて反乱軍の官に就かされ、乱終結後にこのことを罪に問われて降格されるが、その後は[[尚書省|尚書]]右丞まで登る{{Sfn|宇野|2005|pp=152-156}}。王維は[[自然詩]]を得意とする。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 竹里館<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P156に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 独坐幽篁裏
| 独り坐す 幽篁の裏
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| 弾琴復長嘯
| 弾琴 復た長嘯
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| 深林人不知
| 深林 人を不らず
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| 明月来相照
| 明月 来って相照らす
|}
==== 中唐 ====
中唐は安史の乱終結の763年から840年までの期間である。この時代を代表する詩人が[[白居易]]・[[元稹]]である{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
白居易は15の頃から詩作と勉学に励み、29歳のときに科挙進士に合格、中央で官歴を積んだ。しかし44歳のときに左遷されて地方へ転出、以後は地方官を歴任し、引退後は洛陽で隠居生活に入った{{Sfn|宇野|2005|pp=195-196}}。このような経緯から若き日は政治・社会批判を行った詩︵諷喩詩︶を多く詠み、左遷以後は世俗を超越し身近な生活を描いた詩︵閑適詩︶を詠んだ{{Sfn|宇野|2005|p=197}}。代表作には﹁[[新楽府]]﹂・﹁[[長恨歌]]﹂など。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 閑遊に勉む<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P202に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 天時人事常多故
| 天時人事 常に故多し
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| 一歳春能幾處遊
| 一歳 春能く幾処にか遊ぶ
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| 不是塵埃便風雨
| 是れ塵埃ならざれば便ち風雨
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| 若非疾病即悲愁
| 若し疾病に非ざれば即ち悲愁
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| 貧窮心苦多無興
| 貧窮なれば心苦しくして多く興無く
|-
| 富貴身忙不自由
| 富貴なれば身忙がしくして自由ならず
|-
| 唯有分司官恰好
| 唯だ分司の 官の恰かも好しき有り
|-
| 閑遊雖老未能休
| 閑遊老いたりと雖も未だ休む能はず
|}
元稹は白居易の同期生で、生涯に渡って友情が続き、その友情は元白の交わりと呼ばれる。官は[[同中書門下平章事]]にまで登ったが、剛直な性格によりしばしば左遷された{{Sfn|宇野|2005|p=206}}。詩風は白居易と共通するものがあり、2人の詩風を[[元和体]]と呼ぶ{{Sfn|宇野|2005|pp=205-206}}。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 聞楽天授江州司馬<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P206-207に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 残灯無焔影幢幢
| 残灯 焔無くして影幢幢
|-
| 此夕聞君謫九江
| 此の夕べ 君が九江に謫せられしを聞く
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| 垂死病中驚坐起
| 垂死の病中 驚いて坐起すれば
|-
| 暗風吹雨入寒窓
| 暗風 雨を吹いて寒窓に入る
|}
またこの時期に[[韓愈]]・[[柳宗元]]が中心となって[[古文復興運動]]が行われた。六朝時代からの対句と装飾に重きを置いた[[駢文]](四六駢儷体)を排除し、『[[史記]]』を模範とした文章に回帰することを目指す運動で、[[北宋]]の[[欧陽脩]]を経て文壇を支配するようになり、[[清]]末までその状態が続いた{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
==== 晩唐 ====
晩唐は840年から唐が滅亡する907年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=229}}。この時期を代表する詩人として[[杜牧]]・[[李商隠]]らが挙がる。
杜牧は親族から宰相を出す名門の出身で、自らも26歳で進士に合格。職務に励むが、剛直な性格から上から疎まれることもあった。その後、弟ら親類を養うために志願して収入の良い地方官を歴任し、49歳のときに中央に呼び戻されるが翌年に病没した{{Sfn|宇野|2005|p=231}}。詩風は軽妙洒脱{{Sfn|宇野|2005|p=232-233}}。 {| class="wikitable"
! colspan="2" | 遣懐<ref group="注釈">書き下しは池田1996b P537に依る。</ref>
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! 原文 !! 書き下し
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| 落魄江湖載酒行
| 江湖に落魄して酒を載せて行く、
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| 楚腰繊細掌中輕
| 楚腰繊細 掌中に輕し。
|-
| 十年一覺揚州夢
| 十年一たび覚む揚州の夢、
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| 贏得青楼薄倖名
| 贏ち得たり青楼薄倖の名。
|}
李商隠は[[懐州]]河内県(現在の[[河南省]][[焦作市]][[沁陽市]])の人。典故を並べた華麗かつ難解な詩が特徴。詩作のときに書物を多数並べていたので、「[[獺祭魚]]」と呼ばれた{{Sfn|宇野|2005|p=235}}。
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 登樂遊原<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 PP238-239に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
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| 向晩意不適
| 晩に向意適はず
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| 驅車登古原
| 車駆りて古原に登る
|-
| 夕陽無限好
| 夕陽 無限に好し
|-
| 只是近黄昏
| 只だ是れ黄昏に近し
|}
=== 思想・宗教 ===
唐代は歴代でも[[元 (王朝)|元]]時代に次いで、儒教不遇の時代とされる。
唐初に太宗の命により﹃[[五経正義]]﹄が編纂されて五教︵[[周易]]・[[詩経]]・[[書経]]・[[礼記]]・[[春秋]]︶の解釈が一つに統一され、科挙[[名経]]科にてこの﹁正義﹂の解釈を憶えることが必須となった。しかし﹃正義﹄の編纂により、儒教思想の固定化を招き、自由な思想発達は主に宗教界、特に[[仏教]]に発揮されることになった{{Sfn|池田|1996a|p=423}}。 当時の仏教の主な宗派として[[三階教]]・[[華厳宗]]・[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[天台宗]]などが挙げられる。ただし三階教は後に弾圧された{{Sfn|池田|1996a|pp=423-425}}。また[[玄奘]]が齎した大量の梵字仏典、さらに([[鳩摩羅什]]らに対して)「新訳」と称される漢訳仏典は仏教学に新たな進展を齎した。唐室李氏は李耳([[老子]])をその遠祖とすると称していたので[[道教]]に対して「道先仏後」というような手厚い保護をした。特に[[玄宗 (唐)|玄宗]]は道教に対して傾倒し、『[[老子 (書物)|老子道徳経]]』に自ら注釈を付けている。ただし唐室の保護にもかかわらず道教の勢力は仏教の勢力には及ばなかった{{Sfn|池田|1996a|p=426}}。それ以外にも[[ゾロアスター教]](祆教)・[[ネストリウス派]](景教)・[[マニ教]](明経)の[[唐代三夷教]]と称される宗教が唐の下で存在していた。ただこれら三夷教は唐に住んでいた外国人に信仰されていたものであり、中国には広がらなかった{{Sfn|池田|1996a|p=416}}。
玄宗に次いで道教に傾倒していたと評される[[武宗 (唐)|武宗]]は[[会昌の廃仏]]([[三武一宗の法難]]の第三)と呼ばれる反仏教運動を起こした。首都長安にあった多数の仏教寺院を廃してのみにし、各都市においてもこれに準じて最低限の仏寺・僧・尼だけを置き、それ以外は廃・還俗させた。これに伴い前述の三夷教も排撃されて姿を消した{{Sfn|池田|1996a|p=526}}。
廃仏は武宗の死とともに終了したが、これと前後して[[韓愈]]・[[柳宗元]]による[[古文復興運動]]、および「'''新儒教'''」の開発が進められた。それまでの経典の字句解釈・暗記を主とした儒教から経典を基に自らの思想を大胆に主張する全く新しい儒教が試みられた。この時点での新儒教はまだまだ未熟なものであったが、その後に与えた影響は大きく、宋代になって[[道学]]へと大成されることになる{{Sfn|池田|1996b|p=523-525}}。
=== 美術 ===
[[File:Longmen lu she na.jpg|thumb|龍門石窟]]
唐代では各地の石窟寺院で盛んに造像や壁画が行われた。[[敦煌]][[莫高窟]]では([[吐蕃]]支配時を含めて)220ほどの窟が唐代に作られたものと推定されている(初唐40・盛唐80{{Sfn|池田|1996a|p=437}}・吐蕃40・晩唐60{{Sfn|池田|1996b|pp=540-541}})。洛陽に近い[[龍門石窟]]でも盛んに造像が進められ、高宗期の672年から675年にかけて本尊[[盧遮那仏]]を始めとした9体が象像された{{Sfn|池田|1996a|p=437}}。
[[書道|書]]の分野では太宗が[[王羲之]]に傾倒したことが有名だが、その影響で王羲之流の均整の取れた書体が好まれて、[[欧陽詢]]・[[虞世南]]・[[褚遂良]]が初唐の三大家と呼ばれる{{Sfn|源川|2002|p=123}}。しかしあまりに王羲之風一辺倒になりすぎた弊害を打破すべく、[[狂草体]]と呼ばれる奔放な草書を得意としたグループが誕生した。代表的な人物に[[賀知章]]・[[張旭]]・[[懐素]]などがいる{{Sfn|源川|2002|p=132}}。褚遂良以後の唐の書道界は一時衰微するが[[顔真卿]]の登場により中興の時を迎える{{Sfn|源川|2002|p=127}}。 絵画の分野では[[閻立本]]・[[呉道玄]]らの名前が挙がる。両者ともに真筆は現存していない。閻立本は北宋代の模写『歴代帝王図巻』が残るが、呉道玄には模写も残っていない{{Sfn|池田|1996a|p=439}}。山水画もまた発展し、後に[[北宗画]]の祖とされることになる[[李思訓]]、南宗画の始まりとされる[[王維]]がいる{{Sfn|池田|1996b|p=439}}。さらに[[張彦遠]]によって著された『[[歴代名画記]]』はその時点までの中国絵画史を総括したものとしてその存在意義を多角評価されている{{Sfn|池田|1996b|p=543}}。
=== ギャラリー ===
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[[ファイル:Gok turk Epigraph Copy in Gazi University Ankara.jpg|thumb|ビルゲ・カガン碑文のレプリカ([[アンカラ]]の[[ガズィ大学]])。]]
その後、突厥は唐の単于都護府下に支配されていたが、度々唐に対して反抗し、[[682年]]に === 西方 ===
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=== 東方 ===
唐が成立した618年に[[高句麗]]・[[百済]]・[[新羅]]の三国は唐に朝貢し、それに対して三国は唐からそれぞれ遼東郡王・帯方郡王・楽浪郡王に[[冊封]]されていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=100}}。[[642年]]に高句麗で[[泉蓋蘇文]]がクーデターを起こしたことと新羅からの要請で[[太宗 (唐)|太宗]]は高句麗に3度に渡って遠征軍を送るが失敗に終わる︵[[唐の高句麗遠征]]︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=328}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=101-102}}。太宗が崩御したことで高句麗遠征は一旦終了するが、次の[[高宗 (唐)|高宗]]のときに新羅が高句麗・百済の その後、新羅が半島にあった唐の都督府ほか各地の行政機関を襲撃︵[[唐・新羅戦争]]︶した結果、安東都護府は[[遼東半島]]にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。 667 ⟶ 922行目:
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
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=== 総論・歴史 ===
* {{Cite book|和書|
* {{Cite book|和書
** 第五章「唐」
*# {{Citation|和書|author=愛宕元 |authorlink=愛宕元 |contribution=唐代前期の政治 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|愛宕|1996a}} }}
*# {{Citation|和書|author=金子修一 |authorlink=金子修一 |contribution=唐代前期の国制と社会経済 |p=364-412 |title= |ref={{SfnRef|金子|1996a}} }}
*# {{Citation|和書|author=池田温 |authorlink=池田温 |contribution=隋・唐代前期の文化 |title= |p=413-443 |ref={{SfnRef|池田|1996}} }}
*# {{Citation|和書|author=愛宕元 |contribution=唐代後期の政治 |title= |p=444-486 |ref={{SfnRef|愛宕|1996b}} }}
*# {{Citation|和書|author=金子修一 |contribution=唐代後期の社会経済 |title= |p=486-514 |ref={{SfnRef|金子|1996b}} }}
*# {{Citation|和書|author=池田温 |contribution=唐代後期の文化 |title= |p=515-551 |ref={{SfnRef|池田|1996b}} }}
* {{Cite book|和書|last1=愛宕 |first1=元 |authorlink1=愛宕元 |last2=梅原 |first2=郁 |authorlink2=梅原郁 |last3=溝口 |first3=雄三 |authorlink3=溝口雄三 |last4=森田 |first4=憲司 |authorlink4=森田憲司 |last5=杉山 |first5=正明 |authorlink5=杉山正明 |editor=[[斯波義信]] |title=中国史 五代〜宋 |year=1997 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=3 |edition=初版 |isbn=4634461706 |ref={{SfnRef|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997}} }}
* {{Cite book|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|year=2005 |title=中国の歴史6 絢爛たる世界帝国:隋唐時代 | publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series= |isbn=978-4062740562 |ref={{SfnRef|氣賀澤|2005}} }}
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* {{Citation|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|contribution=均田制研究の展開|title=戦後日本の中国史論争|ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}}}}
** {{Cite book|和書|editor-last=谷川 |editor-first=道雄|authorlink=谷川道雄|year=1993 |title=戦後日本の中国史論争 | publisher=[[河合教育文化研究所]] |isbn=978-4879999894 |ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}} }}
* {{Cite book|和書|author=森部豊 |authorlink=森部豊 |year=2023 |title=唐―東ユーラシアの大帝国 | publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4121027429 |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
** {{Cite book|和書|author= |year=2023 |title=電子書籍版 | publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
* {{Cite book|和書| editor=[[岡本隆司]] |year=2013 |title=中国経済史 | publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4815807511 |ref=}}
** {{Citation|和書|author=丸橋充拓 |authorlink=丸橋充拓 |contribution=魏晋南北朝~隋唐五代 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|丸橋|2014}} }}
<!--
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* {{Cite book|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |authorlink=渡辺信一郎 (中国史学者)|title=中國古代の財政と國家 |edition= |year=2010 |publisher=[[汲古書院]] |series= |volume= |isbn=9784762925900 |ref={{SfnRef|渡辺|2010}} }}
** {{Cite journal|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |title=唐代後半期の中央財政 : 戸部財政を中心に |url=http://id.nii.ac.jp/1122/00003897/ |journal=京都府立大學學術報告. 人文 |publisher=[[京都府立大学]] |year=1988 |volume=40 |page=30_a-1_a |id={{CRID|1050564287579063296 |ref={{SfnRef|渡辺|1988}} }}、渡辺2010 14章に所収。--> === 文化 ===
* {{Cite book|和書 |editor=[[杉村邦彦]] |title= 中国書法史を学ぶ人のために |year=2002 |publisher=[[世界思想社]] |isbn=978-4790709466 |ref= }}
** 第4章「隋・唐・五代」
**# {{Cite journal |和書 |author=源川進 |authorlink=源川進 |year= |title=唐 |ref={{SfnRef|源川|2002}} }}
=== 国際関係 ===
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* [[唐朝の官職]]
* [[唐朝におけるイスラーム]]
* [[黄巣の乱]]
== 外部リンク ==
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