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{{中国の歴史}}
 
''''''{{|Táng}}[[618]] - [[907]][[]][[]][[]][[]][[7]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]]
 
== 歴史 ==
[[File:Tang gao zu.jpg|left|thumb|200px|建国者 李淵]]
=== 前期 ===
==== 建国 ====
[[西]][[]]300[[]][[ ()|]]589{{Sfn||||||1996|p=285}}[[]]{{Sfn||||||1996|pp=285-287}}[[]]{{Sfn||||||1996|pp=287-289}}[[]][[]]{{Sfn||||||1996|pp=288-289}}[[]]{{Sfn||||||1996|pp=289-290}}[[]]{{Sfn||2005|p=378}}
 
604[[]]{{Sfn||||||1996|p=293}}[[]][[]]{{Sfn||||||1996|pp=294-295}}6123[[]][[]]{{Sfn||2005|pp=57-58}}{{Sfn||||||1996|p=298}}{{Sfn||||||1996|p=298}}613[[]]{{Sfn||||||1996|p=299}}200[[]]{{Sfn||||||1996|p=298}}{{Sfn||2005|p=58}}
 
[[]][[|]][[|]][[]]617[[|]][[|]][[ ()|]]{{Sfn|||1997|p=72}}{{Sfn||2005|p=67}}618[[]]{{Sfn||||||1996|pp=311-312}}{{Sfn|||1997|p=72}}{{Sfn||2005|p=67}}
 
[[]][[]]''''''{{Sfn||||||1996|p=312}}{{Sfn|||1997|p=72}}{{Sfn||2005|p=67}}[[]][[]][[]][[]]{{Sfn|||1997|p=66}}[[]][[]][[]][[]]{{Sfn|||1997|p=73}}{{Sfn||||||1996|p=312}}{{Sfn|||1997|p=74}}{{Sfn||2005|p=68}}62010{{Sfn||||||1996|p=312}}{{Sfn|||1997|p=74}}{{Sfn||2005|p=69}}{{Sfn||||||1996|p=312}}
 
[[]][[]][[]][[]]{{SfnRefnest|group=""||1997|pname=66}}"[[]][[]]"|[[]][[]]{{Sfn|||19972005|p=7368}}}}{{Sfn||||||1996|p=312}}{{Sfn|||1997|p=74}}{{Sfn||2005|p=6871}}620[[626]][[]]10{{Sfn||||||1996|p=312}}{{Sfn|||1997|p=74}}{{Sfn||2005|p=69}}{{Sfn||||||1996|p=31277}}
 
==== 貞観の治 ====
[[File:TangTaizong.jpg |left |thumb |200px|太宗 李世民]]帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた[[朔方郡]]の[[梁師都]]を平定し、統一を果たした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=319}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=79}}。更に630年には突厥の内紛に乗じて[[李靖]]・[[李勣]]を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった[[鉄勒]]諸部から天可汗([[テングリ]]=[[カガン]])の称号を奉じられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=76}}。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を[[羈縻支配]]においた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}。635年には[[吐谷渾]]を破り、更に[[チベット]]の[[吐蕃]]も支配下に入れた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。ただし吐蕃には度々[[公主]]を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
[[File:TangTaizong.jpg |left |thumb |200px|太宗 李世民]]
抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の[[李元吉]]{{Refnest|group="注釈"|name="李淵三男"|三男の李玄覇は早世している{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。}}と後継の座を巡って対立するようになるが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった{{Sfn|氣賀澤|2005|p=71}}。[[626年]]、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し([[玄武門の変]])、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=77}}。
 
帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた[[朔方郡]]の[[梁師都]]を平定し、統一を果たした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=319}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=79}}。更に630年には突厥の内紛に乗じて[[李靖]]・[[李勣]]を派遣してこれを滅ぼすことに成功。突厥の支配下にあった[[鉄勒]]諸部から天可汗([[テングリ]]=[[カガン]])の称号を奉じられた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=76}}。647年にはこの地に燕然都護府をおいて鉄勒を[[羈縻支配]]においた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=326}}。635年には[[吐谷渾]]を破り、更に[[チベット]]の[[吐蕃]]も支配下に入れた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。ただし吐蕃には度々[[公主]]を降嫁させるなど懐柔に努めなければならなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=327}}。
 
[[]][[]][[]]6276304529[[]][[]]{{Sfn||||||1996|p=322}}{{Sfn|||1997|p=80}}
89 ⟶ 86行目:
[[]]{{Sfn||||||1996|p=331}}[[]]
 
[[]][[]][[]]{{Sfn||||||1996|pp=331-332}}{{Sfn|||1997|pp=111-112}}{{Sfn||||||1996|p=332}}{{Sfn|||1997|p=114-115}}[[]]{{Sfn|||1997|p=119}}
 
6684{{Sfn||||||1996|pp=328-329}}{{Sfn||2005|p=84}}退{{Sfn||||||1996|p=329}}
107 ⟶ 104行目:
2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「[[武韋の禍]]」と呼ぶ{{Sfn|氣賀澤|2005|p=90}}。
 
==== 最盛期開元の治 ====
[[File:Tang_XianZong.jpg|left|thumb|200px|玄宗]]
[[File:Tang Dynasty in the 8th century ja.svg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]
125 ⟶ 122行目:
 
[[File:Pao-Shan Tomb Wall-Painting of Liao Dynasty (寳山遼墓壁畫:頌經圗).jpg|right|thumb|300px|楊貴妃]]
[[ ()|]][[]]寿[[]]{{Sfn||||||1996|p=348}}[[ ()|]]{{Sfn|||1997|p=155}}寿[[]]
 
745[[]][[]]{{Sfn|||1997|pp=165-166}}
140 ⟶ 137行目:
757[[]]761[[]]{{Sfn||||||1996|p=356}}{{Sfn|||1997|p=305}}757762763{{Sfn||||||1996|p=356}}{{Sfn|||1997|p=306}}
 
=== 後期 ===
 
==== 律令体制の崩壊 ====
180 ⟶ 177行目:
[[ ()|]][[]]{{Sfn||||||1996|p=528}}{{Sfn|||1997|p=404}}{{Sfn||2005|p=286}}{{Sfn||2005|p=286}}[[]]{{Sfn||||||1996|p=528}}{{Sfn|||1997|p=402}}845264600{{Sfn||||||1996|p=529}}{{Sfn|||1997|p=403}}41{{Sfn||||||1996|p=529}}{{Sfn|||1997|p=403}}3050{{Sfn||||||1996|p=529}}{{Sfn|||1997|p=403}}[[]]3{{Sfn||||||1996|pp=527-528}}{{Sfn||2005|p=286}}[[]]{{Sfn|||1997|pp=403-404}}
 
846年に武宗が死去し、後を継いだ[[宣宗 (唐)|宣宗]]により廃仏は終わった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=529}}
 
==== 乱の続発 ====
188 ⟶ 185行目:
{{Sfn||||||1996|p=462}}{{Sfn|||1997|p=411}}使使使{{Sfn||||||1996|p=462}}{{Sfn|||1997|p=413}}[[]]{{Sfn||||||1996|p=465}}
 
859年にわずか100人を率いて蜂起した裘甫は浙東藩鎮の海岸部[[象山県]]次いで[[剡県]]を攻略、近くの海賊や盗賊・無頼の徒を集め、3万という大軍に膨れ上がった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=465-466}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=420}}。その後浙東を転戦したが、政府は安南討伐に功を挙げた[[王式]]を派遣し{{Sfn|布目|栗原|1997|p=422}}、ウイグルや[[吐蕃]]の精兵も投入し、翌860年に鎮圧した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=466}}。続けて868年、[[南詔]]に対する防衛のために[[桂州]]に山東で集められた兵士の部隊が派遣されていたが、いつまでたっても交代の兵は来ず、前述のような給料のピンハネもあり、不満を爆発させて[[龐勛]]を指導者として反乱を起こした([[龐勛の乱]]){{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=425-426}}。龐勛軍はまず故郷である山東の[[徐州]]へと帰還し、失職兵士や没落農民、各種の賊を入れて一気に大勢力となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}。さらにこの乱の特徴として貧農ばかりではなく地主層もこの乱に参加したことが挙げられる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。ここにいたってこの乱は当初の兵乱から農民反乱の様相を呈することとなった{{Sfn|布目|栗原|1997|p=427}}。しかし雑多な寄せ集めの軍ゆえに内部の統制が取れなくなり{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=468}}、また龐勛の方針も、唐に対して節度使の職を求めたりなど一定しなかった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=470}}。のでますます内部が乱れた。これに対して唐は7万の軍と[[突厥]][[沙陀族]]の精兵騎兵3000を投入し、869年にこれを鎮圧した{{Sfn|氣賀澤|2005|p=133}}{{Refnest|group="注釈"|name="朱邪赤心"|この時に活躍した沙陀族の長が{{仮リンク|朱邪赤心|zh|朱邪赤心}}で、この功績により国姓の李を授けられて李国昌を名乗る。[[後唐]]太祖[[李克用]]の父親である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=413}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=456}}。}}
 
==== 滅亡 ====
195 ⟶ 192行目:
[[]]{{Sfn||||||1996|p=476}}870[[]][[]]{{Sfn||||||1996|p=477}}[[]]{{Sfn||||||1996|p=477}}
 
このような状態に対して874年(あるいは875年)に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで''「''[[黄巣の乱]]''」''が始まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。(詳細は''「''[[黄巣の乱]]''」を参照)''
このような状態に対して874年(あるいは875年)に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。これが黄巣の乱である。この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊{{Refnest|group="注釈"|name="茶賊"|塩賊の茶バージョン。茶には塩ほどではないが、高額の税がかけられていたので、それを回避する私茶が横行、これを取り扱う私茶業者を茶賊と呼んだ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=461}}。}}・大道芸人などなど{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=437}}。唐政府はこれに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。その後の878年に王仙芝は唐軍の前に敗死{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。黄巣軍は江南・[[広州 (広東省)|広州]]に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。
 
{{SfnRefnest|group=""|name=""|1997|p=439}}880[[]]{{Sfn||||||1996|p=481461}}}}{{Sfn||||||1996|p=481}}{{Sfn|||1997|p=441478}}{{Sfn||||||1996|p=482478}}{{Sfn|||1997|ppp=441-442437}}{{Sfn||||||1996|p=482}}{{Sfn|||1997|p=442}}{{Sfn||||||1996|p=483}}{{Sfn||||||1996|p=346}}{{Sfn||||||1996|p=483}}1000[[]]{{Sfn||||||1996|p=483480}}
 
882878[[]]使[[]]{{Sfn||||||1996|p=483480}}{{Sfn|||1997|p=438}}[[ ()|]]使{{Sfn||||||1996|p=483480}}{{Sfn|||1997|p=438}}883884{{Sfn||||||1996|p=484}}{{Sfn|||1997|p=447480}}
 
{{Sfn|||1997|p=439}}
 
880年、黄巣軍は洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を「大斉」とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
 
882年、黄巣軍の[[同州]]防御使であった朱温(後の[[朱全忠]])は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。さらに突厥沙陀族出身の[[李克用]]が大軍を率いて黄巣討伐に参加した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
 
883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、''「''[[黄巣の乱]]''」''は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=447}}。
 
{{Sfn|||1997|pp=452-453}}{{Sfn||||||1996|p=485}}使[[]][[ ()|]][[]]{{Sfn||||||1996|p=485}}
 
907[[ ()|]][[]]{{Sfn||||||1996|p=486}}300{{Sfn||2005|p=137}}{{Sfn||||||1997|p=12}}70[[]]{{Sfn||||||1997|pp=3-4}}
 
== 政治 ==
281 ⟶ 286行目:
215918[[]]20[[ ()|]][[]]80{{Sfn||||||1996|pp=385-386}}{{Sfn|||1997|p=195}}[[]][[]][[]]{{Sfn|||1997|p=195}}60{{Sfn||||||1996|pp=385-386}}{{Sfn|||1997|pp=195-196}}{{Sfn|||1997|p=196}}[[]][[]]{{Sfn||||||1996|p=385}}
[[調]][[]]2[[ ()|]][[調]][[]]2[[]][[綿]]3[[]]2.5320[[]][[]]13[[]]3.75{{Sfn||||||1996|p=388}}{{Sfn|||1997|pp=200-201}}[[]]調[[#]]
 
[[|]]{{Sfn||||||1996|p=390-392}}{{Sfn|||1997|p=196-198}}{{Sfn||1994|pp=131-132}}{{Sfn||||||1996|p=390-392}}{{Sfn||1994|pp=134-135}}
 
[[]]{{Sfn||||||1996|p=389}}[[]]調{{Sfn||||||1996|p=389}}
 
{{Sfn||||||1996|p=394}}{{Sfn|||1997|pp=244-245}}[[ ()|]][[]][[]]{{Sfn||||||1996|pp=394-395}}{{Sfn|||1997|p=153}}
344 ⟶ 349行目:
 4-50[[]]宿{{Sfn||||||1996|p=404}}3-6宿{{Sfn||||||1996|pp=404-405}}退[[]]{{Sfn||||||1996|p=405}}
 
[[|]]{{Sfn|||1997|p=271}}[[ ()|]]638[[ ()|]]{{Sfn||||||1996|p=408-409}}[[ ()|]]662[[]]689705738[[]]{{Sfn||||||1996|p=409}}
 
[[]]{{Sfn||||||1996|p=457}}{{Sfn|||1997|p=370}}[[ ()|]]15[[#]]{{Sfn||||||1996|p=457-459}}{{Sfn|||1997|p=371-374}}[[#|]][[]]{{Sfn||||||1996|p=463}}{{Sfn|||1997|p=371}}
440 ⟶ 445行目:
 
{{Sfn||||||1996|p=504}}{{Sfn||||||1996|p=504}}{{Sfn|||1997|p=331}}{{Sfn||||||1996|p=504}}[[]]{{Sfn|||1997|p=331}}
 
=== 貨幣 ===
 
{{main|開元通宝}}
 
[[File:100 Tang Kaiyuan Coins.jpg|right|thumb|200px|開元通宝]]
 
漢代以来700年以上の長きに渡って[[五銖銭]]が使われていたが、唐建国4年後の[[621年]]に新たな[[銅銭]]である[[開元通宝]]を発行した。この開元通宝は[[五代十国時代|五代]]までの340年間に通行した{{Sfn|宮澤|2007|p=144}}。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない{{Sfn|宮澤|2007|p=145}}。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる{{Sfn|宮澤|2007|p=146}}。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。
 
{{Sfn||2007|p=147}}723[[]]{{Sfn||2007|p=149}}24{{Sfn||2007|p=150}}
 
安史の乱以降、[[#兵制]]が[[府兵制]]から[[募兵制]]へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・[[両税法]]の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした(これを[[銭荒]]と呼ぶ)。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為(私銷)が増えた{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。政府も私銷や積銭(銅銭を溜め込むこと)の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。これが[[会昌の廃仏]]により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。
 
使{{Sfn||2013|p=108}}{{Sfn||2013|p=117}}
 
=== 交通・交易 ===
 
==== 国内 ====
 
[[漢]]代までは江南は後進地であり、中原の経済に大きな影響を与えるようなものではなかった。これが六朝時代を通じて開発が進み、飛躍的な発展を遂げた。さらに[[大運河]]の完成により、華北と江南の経済が結びついた{{Sfn|丸橋|2013|p=106}}。当初中国の物流は西(四川・陝西)と東(江南・河北・華南)に分断されており、2つが洛陽と長安間の道を通じてか細く繋がっているに過ぎなかった{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}。そのため首都長安では100万と謳われた人口を支えることが出来ず、朝廷ごと洛陽に引っ越して食を確保する「東都就食」という行為が頻繁に行われた{{Sfn|丸橋|2013|p=108}}{{Sfn|愛宕|1996a|p=346}}。[[裴耀卿]]は733年に大規模な漕運改革を行い、南から洛陽・長安へ食料供給するシステムを作り上げることに成功する{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。これら漕運を統括するために設置されたのが[[転運使]]である{{Sfn|愛宕|1996a|p=445}}。以前は南から北へ運送できる穀物の量はせいぜい10~20万石であったのが、改革以降は毎年200万石の穀物を送ることができるようになった{{Sfn|愛宕|1996a|p=446}}。
 
[[]][[#]]{{Sfn||1996|p=493}}{{Sfn||2023|p=216}}使使{{Sfn||1996a|p=447}}使[[]][[]]西西西使{{Sfn||2013|p=115}}
 
安史の乱以後の北方民族との戦闘に必要な諸経費・物資を専売制の利益・江南からの富(と関中における屯田・[[和糴]])で支える南北分業体制が整えられたのである{{Sfn|丸橋|2013|p=115}}。
 
==== 国外 ====
 
当時の国外交易には[[朝貢]]と[[互市]]の2つの形式がある。朝貢は国外からの使節が貢物として持ってきたものに対して絹製品を中心とした回賜品が与えられる形態で、互市は辺境の特定の場所に限って交易が認められた{{Sfn|金子|1996b|p=508}}。
 
西[[|]][[]][[]]{{Sfn||1996b|p=508}}{{Refnest|group=""|name=""|{{Sfn||1996b|p=508}}<ref>{{Cite journal||author= |authorlink= |title= |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.106.12_2174_1 |journal= |publisher= |year=1999 |volume=108 |issue=10 |page=33}}</ref> }}西[[]]{{Sfn||2013|p=107}}{{Sfn||2013|p=107}}
 
[[]][[]][[]][[]]{{Sfn||1996b|p=510}}{{Sfn||1996b|p=481}}{{Sfn||1996b|p=481}}[[]]{{Sfn||1996b|p=481}}
 
東の日本・新羅・渤海とも朝貢貿易が行われ、人参や工芸品が献上された{{Sfn|金子|1996b|p=510}}。
 
== 文化 ==
 
=== 文学 ===
 
[[]]{{Sfn||2005|p=119}}[[]][[]]{{Sfn||2005|p=119}}{{Sfn||1996a|p=427}}[[]][[]]{{Sfn||1996|p=427}}[[]]{{Sfn||1996a|p=427}}
 
==== 初唐 ====
 
初唐は建国直後から玄宗即位までの618年から712年までの期間である。この時期に六朝からの流れを受けて[[近体詩]](五言・七言、絶句・律詩)の規則・形式が確立した{{Sfn|宇野|2005|p=119}}{{Sfn|池田|1996|p=427}}。
 
[[]][[]][[]]{{Sfn||2005|p=121}}{{Sfn|||1997|p=231}}退[[]]{{Sfn||2005|p=123}}{{Sfn|||1997|p=231}}[[]]{{Sfn||2005|p=127}}
 
[[]][[]][[]][[]][[]]{{Sfn||2005|p=127}}{{Sfn||1996|p=427}}{{Sfn|||1997|p=231}}[[ ()|]]{{Sfn||2005|pp=127-128}}{{Sfn|||1997|pp=231-232}}[[|]]{{Sfn||2005|p=128}}
 
[[]][[]]{{Sfn|||1997|p=232}}{{Sfn||2005|p=339}}[[]][[]]{{Sfn|||1997|p=233}}
 
[[]][[]][[ ()|]]{{Sfn||2005|p=137}}{{Sfn||1996|p=427}}
 
==== 盛唐 ====
 
盛唐は玄宗が即位した712年から退位させられた玄宗が死去する762年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=141}}。この時代を代表するのは何と言っても'''[[李白]]'''・'''[[杜甫]]'''であり、[[孟浩然]]・[[王維]]がそれに次ぐ。
 
[[西]]40[[|]]{{Sfn||2005|pp=159-165}}{{Sfn||2005|p=166}}{{Sfn||1996a|p=427}}{{Sfn|||1997|p=237}}
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 峨眉山月歌<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P167に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
|峨眉山月半輪秋
|峨眉山月 半輪の秋
|-
|影入平羌江水流
|影は平羌江水に入って流る
|-
|夜発清溪向三峡
|夜 清溪を発っして三峡に向ふ 
|-
|思君不見下渝州 
|君を思へども見ず 渝州に下る
|-
|} 
 
[[]][[西]][[]]24[[]][[]]44[[]]{{Sfn||2005|pp=171-175}}姿{{Sfn||2005|p=175}}
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 貧交行<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P171に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 翻手作雲覆手雨
| 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
|-
| 紛紛軽薄何須数
| 紛紛たる軽薄 何ぞ数ふるを須いん
|-
| 君不見管鮑貧時交
| 君見ずや [[管鮑の交わり|管鮑]]貧時の交はりを
|-
| 此道今人棄如土
| 此道 今人 棄てて土の如し
|}
 
[[]]{{Sfn||2005|pp=148-149}}[[]][[]]{{Sfn||2005|p=152}}
{| class="wikitable"
! colspan="2" | [[春曉]]<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P148に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 春眠不覺曉
| 春眠 曉を覺ず
|-
| 處處聞啼鳥
| 処々 啼鳥を聞く
|-
| 夜來風雨聲
| 夜來 風雨の声
|-
| 花落知多少
| 花落つること知る多少
|} 
 
[[]]21[[|]]{{Sfn||2005|pp=152-156}}[[]]
 
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 竹里館<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P156に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 独坐幽篁裏
| 独り坐す 幽篁の裏
|-
| 弾琴復長嘯
| 弾琴 復た長嘯
|-
| 深林人不知
| 深林 人を不らず
|-
| 明月来相照
| 明月 来って相照らす
|} 
 
==== 中唐 ====
 
中唐は安史の乱終結の763年から840年までの期間である。この時代を代表する詩人が[[白居易]]・[[元稹]]である{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
 
152944退{{Sfn||2005|pp=195-196}}{{Sfn||2005|p=197}}[[]][[]]
 
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 閑遊に勉む<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P202に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 天時人事常多故
| 天時人事 常に故多し
|-
| 一歳春能幾處遊
| 一歳 春能く幾処にか遊ぶ
|-
| 不是塵埃便風雨
| 是れ塵埃ならざれば便ち風雨
|-
| 若非疾病即悲愁
| 若し疾病に非ざれば即ち悲愁
|-
| 貧窮心苦多無興
| 貧窮なれば心苦しくして多く興無く
|-
| 富貴身忙不自由
| 富貴なれば身忙がしくして自由ならず
|-
| 唯有分司官恰好
| 唯だ分司の 官の恰かも好しき有り
|-
| 閑遊雖老未能休
| 閑遊老いたりと雖も未だ休む能はず
|}
 
[[]]{{Sfn||2005|p=206}}2[[]]{{Sfn||2005|pp=205-206}}
 
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 聞楽天授江州司馬<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 P206-207に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 残灯無焔影幢幢
| 残灯 焔無くして影幢幢
|-
| 此夕聞君謫九江
| 此の夕べ 君が九江に謫せられしを聞く
|-
| 垂死病中驚坐起
| 垂死の病中 驚いて坐起すれば
|-
| 暗風吹雨入寒窓  
| 暗風 雨を吹いて寒窓に入る
|}
 
またこの時期に[[韓愈]]・[[柳宗元]]が中心となって[[古文復興運動]]が行われた。六朝時代からの対句と装飾に重きを置いた[[駢文]](四六駢儷体)を排除し、『[[史記]]』を模範とした文章に回帰することを目指す運動で、[[北宋]]の[[欧陽脩]]を経て文壇を支配するようになり、[[清]]末までその状態が続いた{{Sfn|池田|1996b|p=529}}。
 
==== 晩唐 ====
 
晩唐は840年から唐が滅亡する907年までの期間である{{Sfn|宇野|2005|p=229}}。この時期を代表する詩人として[[杜牧]]・[[李商隠]]らが挙がる。
 
2649{{Sfn||2005|p=231}}{{Sfn||2005|p=232-233}}
 
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 遣懐<ref group="注釈">書き下しは池田1996b P537に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 落魄江湖載酒行
| 江湖に落魄して酒を載せて行く、
|-
| 楚腰繊細掌中輕
| 楚腰繊細 掌中に輕し。
|-
| 十年一覺揚州夢
| 十年一たび覚む揚州の夢、
|-
| 贏得青楼薄倖名
| 贏ち得たり青楼薄倖の名。
|}
 
李商隠は[[懐州]]河内県(現在の[[河南省]][[焦作市]][[沁陽市]])の人。典故を並べた華麗かつ難解な詩が特徴。詩作のときに書物を多数並べていたので、「[[獺祭魚]]」と呼ばれた{{Sfn|宇野|2005|p=235}}。
 
{| class="wikitable"
! colspan="2" | 登樂遊原<ref group="注釈">書き下しは宇野2005 PP238-239に依る。</ref>
|-
! 原文 !! 書き下し
|-
| 向晩意不適
| 晩に向意適はず
|-
| 驅車登古原
| 車駆りて古原に登る
|-
| 夕陽無限好
| 夕陽 無限に好し
|-
| 只是近黄昏
| 只だ是れ黄昏に近し
|}
 
=== 思想・宗教 ===
 
唐代は歴代でも[[元 (王朝)|元]]時代に次いで、儒教不遇の時代とされる。
 
[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]{{Sfn||1996a|p=423}}
 
当時の仏教の主な宗派として[[三階教]]・[[華厳宗]]・[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[天台宗]]などが挙げられる。ただし三階教は後に弾圧された{{Sfn|池田|1996a|pp=423-425}}。また[[玄奘]]が齎した大量の梵字仏典、さらに([[鳩摩羅什]]らに対して)「新訳」と称される漢訳仏典は仏教学に新たな進展を齎した。唐室李氏は李耳([[老子]])をその遠祖とすると称していたので[[道教]]に対して「道先仏後」というような手厚い保護をした。特に[[玄宗 (唐)|玄宗]]は道教に対して傾倒し、『[[老子 (書物)|老子道徳経]]』に自ら注釈を付けている。ただし唐室の保護にもかかわらず道教の勢力は仏教の勢力には及ばなかった{{Sfn|池田|1996a|p=426}}。それ以外にも[[ゾロアスター教]](祆教)・[[ネストリウス派]](景教)・[[マニ教]](明経)の[[唐代三夷教]]と称される宗教が唐の下で存在していた。ただこれら三夷教は唐に住んでいた外国人に信仰されていたものであり、中国には広がらなかった{{Sfn|池田|1996a|p=416}}。
 
玄宗に次いで道教に傾倒していたと評される[[武宗 (唐)|武宗]]は[[会昌の廃仏]]([[三武一宗の法難]]の第三)と呼ばれる反仏教運動を起こした。首都長安にあった多数の仏教寺院を廃してのみにし、各都市においてもこれに準じて最低限の仏寺・僧・尼だけを置き、それ以外は廃・還俗させた。これに伴い前述の三夷教も排撃されて姿を消した{{Sfn|池田|1996a|p=526}}。
 
廃仏は武宗の死とともに終了したが、これと前後して[[韓愈]]・[[柳宗元]]による[[古文復興運動]]、および「'''新儒教'''」の開発が進められた。それまでの経典の字句解釈・暗記を主とした儒教から経典を基に自らの思想を大胆に主張する全く新しい儒教が試みられた。この時点での新儒教はまだまだ未熟なものであったが、その後に与えた影響は大きく、宋代になって[[道学]]へと大成されることになる{{Sfn|池田|1996b|p=523-525}}。
 
=== 美術 ===
[[File:Longmen lu she na.jpg|thumb|龍門石窟]]
[[]][[]][[]][[]]3
 
唐代では各地の石窟寺院で盛んに造像や壁画が行われた。[[敦煌]][[莫高窟]]では([[吐蕃]]支配時を含めて)220ほどの窟が唐代に作られたものと推定されている(初唐40・盛唐80{{Sfn|池田|1996a|p=437}}・吐蕃40・晩唐60{{Sfn|池田|1996b|pp=540-541}})。洛陽に近い[[龍門石窟]]でも盛んに造像が進められ、高宗期の672年から675年にかけて本尊[[盧遮那仏]]を始めとした9体が象像された{{Sfn|池田|1996a|p=437}}。
[[]][[]]{{Sfn||2005|p=331}}
 
[[|]][[]][[]][[]][[]]{{Sfn||2002|p=123}}[[]][[]][[]][[]]{{Sfn||2002|p=132}}[[]]{{Sfn||2002|p=127}}
 
絵画の分野では[[閻立本]]・[[呉道玄]]らの名前が挙がる。両者ともに真筆は現存していない。閻立本は北宋代の模写『歴代帝王図巻』が残るが、呉道玄には模写も残っていない{{Sfn|池田|1996a|p=439}}。山水画もまた発展し、後に[[北宗画]]の祖とされることになる[[李思訓]]、南宗画の始まりとされる[[王維]]がいる{{Sfn|池田|1996b|p=439}}。さらに[[張彦遠]]によって著された『[[歴代名画記]]』はその時点までの中国絵画史を総括したものとしてその存在意義を多角評価されている{{Sfn|池田|1996b|p=543}}。
 
=== ギャラリー ===
495 ⟶ 750行目:
[[ファイル:Gok turk Epigraph Copy in Gazi University Ankara.jpg|thumb|ビルゲ・カガン碑文のレプリカ([[アンカラ]]の[[ガズィ大学]])。]]
 
[[682]]]{{Sfn|||1997|p=142}}{{Sfn||2005|p=310}}{{Sfn||2005|p=311}}[[]]{{Sfn||2005|p=311}}[[744]][[]]{{Sfn||2005|p=312}}[[]][[#]]{{Sfn||||||1997|pp=390-391}}{{Sfn||2005|p=313}}[[840]][[]][[]]{{Sfn||||||1997|p=391}}
 
=== 西方 ===
511 ⟶ 766行目:
=== 東方 ===
 
618[[]][[]][[]][[]]{{Sfn||||||1996|p=328}}{{Sfn|||1997|p=100}}[[642]][[]][[ ()|]]3[[]]{{Sfn||||||1996|p=328}}{{Sfn|||1997|pp=101-102}}[[ ()|]]658659{{Sfn|||1997|p=137}}[[660]][[]][[663]][[]]{{Sfn||||||1996|p=328}}{{Sfn|||1997|p=137}}[[668]][[]][[]]{{Sfn||||||1996|p=328}}{{Sfn|||1997|p=138}}
 
[[]][[]]退{{Sfn||||||1996|p=329}}
667 ⟶ 922行目:
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
675 ⟶ 930行目:
=== 総論・歴史 ===
 
* {{Cite book|和書|last1author1=布目 |first1=潮渢 |authorlink1=布目潮渢 |last2author2=栗原 |first2=益男 |authorlink2=栗原益男|title=隋唐帝国 |year=1997 |publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series=講談社学術文庫 |isbn=4061593005 |ref={{SfnRef|布目|栗原|1997}} }}
* {{Cite book|和書|last1=窪添 |first1=慶文 |authorlink1=窪添慶文 |last2=關尾 |first2=史郎 |authorlink2=關尾史郎 |last3=中村 |first3=圭爾 |authorlink3=中村圭爾 |last4=愛宕 |first4=元 |authorlink4=愛宕元 |last5=金子 |first5=修一 |authorlink5=金子修一 |editor=[[池田温]] |title=中国史2 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
** 第五章「唐」
*# {{Citation|和書|author=愛宕元 |authorlink=愛宕元 |contribution=唐代前期の政治 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|愛宕|1996a}} }}
*# {{Citation|和書|author=金子修一 |authorlink=金子修一 |contribution=唐代前期の国制と社会経済 |p=364-412 |title= |ref={{SfnRef|金子|1996a}} }}
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*# {{Citation|和書|author=池田温 |contribution=唐代後期の文化 |title= |p=515-551 |ref={{SfnRef|池田|1996b}} }}
* {{Cite book|和書|last1=愛宕 |first1=元 |authorlink1=愛宕元 |last2=梅原 |first2=郁 |authorlink2=梅原郁 |last3=溝口 |first3=雄三 |authorlink3=溝口雄三 |last4=森田 |first4=憲司 |authorlink4=森田憲司 |last5=杉山 |first5=正明 |authorlink5=杉山正明 |editor=[[斯波義信]] |title=中国史 五代〜宋 |year=1997 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=3 |edition=初版 |isbn=4634461706 |ref={{SfnRef|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997}} }}
* {{Cite book|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|year=2005 |title=中国の歴史6 絢爛たる世界帝国:隋唐時代 | publisher=[[講談社]] |edition=初版 |series= |isbn=978-4062740562 |ref={{SfnRef|氣賀澤|2005}} }}
698 ⟶ 960行目:
* {{Citation|和書|last=氣賀澤 |first=保規|authorlink=氣賀澤保規|contribution=均田制研究の展開|title=戦後日本の中国史論争|ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}}}}
** {{Cite book|和書|editor-last=谷川 |editor-first=道雄|authorlink=谷川道雄|year=1993 |title=戦後日本の中国史論争 | publisher=[[河合教育文化研究所]] |isbn=978-4879999894 |ref={{SfnRef|氣賀澤|1993}} }}
** {{Cite book|和書|author=山田勝芳 |authorlink=山田勝芳 |year=2000 |title=貨幣の中国古代史 | publisher=[[朝日新聞社]] |isbn=978-4022597601 |ref={{SfnRef|山田|2000}} }}
* {{Cite book|和書|author=森部豊 |authorlink=森部豊 |year=2023 |title=唐―東ユーラシアの大帝国 | publisher=[[中央公論新社]] |isbn=978-4121027429 |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
** {{Cite book|和書|author= |year=2023 |title=電子書籍版 | publisher= |isbn= |ref={{SfnRef|森部|2023a}} }}
* {{Cite book|和書| editor=[[岡本隆司]] |year=2013 |title=中国経済史 | publisher=[[名古屋大学出版会]] |isbn=978-4815807511 |ref=}}
** {{Citation|和書|author=丸橋充拓 |authorlink=丸橋充拓 |contribution=魏晋南北朝~隋唐五代 |title= |p=305-363 |ref={{SfnRef|丸橋|2014}} }}
 
<!--
706 ⟶ 972行目:
* {{Cite book|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |authorlink=渡辺信一郎 (中国史学者)|title=中國古代の財政と國家 |edition= |year=2010 |publisher=[[汲古書院]] |series= |volume= |isbn=9784762925900 |ref={{SfnRef|渡辺|2010}} }}
** {{Cite journal||last= |first= |title= :  |url=http://id.nii.ac.jp/1122/00003897/ |journal=.  |publisher=[[]] |year=1988 |volume=40 |page=30_a-1_a |id={{CRID|1050564287579063296 |ref={{SfnRef||1988}} }}2010 14-->
 
=== 文化 ===
* {{Cite book|和書 |editor=[[杉村邦彦]] |title= 中国書法史を学ぶ人のために |year=2002 |publisher=[[世界思想社]] |isbn=978-4790709466 |ref= }}
** 第4章「隋・唐・五代」
**# {{Cite journal |和書 |author=源川進 |authorlink=源川進 |year= |title=唐 |ref={{SfnRef|源川|2002}} }}
 
=== 国際関係 ===
767 ⟶ 1,038行目:
* [[唐朝の官職]]
* [[唐朝におけるイスラーム]]
* [[黄巣の乱]]
 
== 外部リンク ==