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▲| 面積測定時期3 = [[715年]]<ref>{{cite journal |last1=Turchin|first1=Peter|last2=Adams|first2=Jonathan M.|last3=Hall|first3=Thomas D | title = East-West Orientation of Historical Empires | journal = Journal of world-systems research|date=December 2006 |volume=12|issue=2 |page=222 |url =http://jwsr.pitt.edu/ojs/index.php/jwsr/article/view/369/381 |issn= 1076-156X}}</ref><ref>{{cite journal |title=Expansion and Contraction Patterns of Large Polities: Context for Russia |first=Rein |last=Taagepera |author-link=Rein Taagepera |journal=[[International Studies Quarterly]] |year=1997 |volume=41 |issue=3 |pages=475–504 |doi=10.1111/0020-8833.00053 |jstor=2600793}} p. 492.</ref>
{{ウィキポータルリンク|中国}}
{{中国の歴史}}
'''唐'''︵とう、{{ピン音|Táng}}、[[618年]] - [[907年]]︶は、[[中国]]の[[王朝]]。[[李淵]]が[[隋]]を滅ぼして建国した。[[7世紀]]の最盛期には == 歴史 ==
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[[西晋]]の滅亡以来、[[中国]]は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により、589年に再統一が為された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=285}}。文帝は内政面でも[[律令]]の制定{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=285-287}}・[[三省六部]]を頂点とする官制改革{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=287-289}}・[[郡]]を廃止して[[州県制]]を導入{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=288-289}}・[[科挙]]制度の創設{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=289-290}}など多数の改革を行った{{Sfn|氣賀澤|2005|p=378}}。 604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広︵[[煬帝]]︶が後を継ぐ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=293}}。煬帝は文帝時代から引き継いだ[[大運河]]・[[洛陽]]新城などの大規模土木工事を完成させた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=294-295}}。さらに612年から3年連続で[[高句麗]]に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる︵[[隋の高句麗遠征]]︶{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=57-58}}。その最中の613年に起きた[[楊玄感]]の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=299}}、大小200の勢力が相争う内乱状態となった︵[[隋末唐初]]︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=298}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=58}}。 国内の混乱が激しくなる中、北の東[[突厥]]に面する[[并州|太原]]の[[留守官|留守]]とされていた唐国公[[李淵]]は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、 同年、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位。[[武徳]]と元号を改め、'''唐'''を建国した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。この時点で[[王世充]]・[[李密]]・[[竇建徳]]・[[劉武周]]など各地に群雄が割拠していた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=66}}。李淵︵以下高祖とする︶は長男の[[李建成]]を[[皇太子]]とし、次男の[[李世民]]を[[尚書令]]として{{Sfn|布目|栗原|1997|p=73}}、各地の群雄討伐に向かわせた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=69}}。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}。 88 ⟶ 86行目:
高宗の治世初期は長孫無忌・[[褚遂良]]・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}。ここに登場するのが武照、後の[[武則天]]である。 武照は太宗の後宮で[[才人]]︵唐[[後宮]]の階級の一つ。上から六番目︶だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って[[昭儀]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=331-332}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=111-112}}。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=114-115}}。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、[[垂簾の政]]を行い、武則天は高宗と並んで﹁二聖﹂と呼ばれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=119}}。 この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=328-329}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=84}}。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。 124 ⟶ 122行目:
[[File:Pao-Shan Tomb Wall-Painting of Liao Dynasty (寳山遼墓壁畫:頌經圗).jpg|right|thumb|300px|楊貴妃]]
玄宗は太子時代の妃であった[[王皇后 (唐玄宗)|王氏]]を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である[[武恵妃]]を寵愛し、その子である第十八子の寿王[[李瑁]]を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=348}}、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵︵後の[[粛宗 (唐)|粛宗]]︶を太子に立てていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=155}}。この寿王李瑁の妃の一人であったのが[[楊貴妃]]である。 一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は[[白居易]]の﹃[[長恨歌]]﹄に歌われている。その中に﹁此れ従り君主は早く朝せられず﹂とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=165-166}}。 288 ⟶ 286行目:
均田制は全国の丁男︵21歳から59歳までの男性︶及び中男︵18歳以上の男性︶一人につき、[[永業田]]が20[[畝 (単位)|畝]]・[[口分田]]が80畝まで支給される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。永業田は世襲が認められる田地で、[[クワ]]・[[ナツメ]]・[[ニレ]]を植えることが義務付けられる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=195-196}}。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地︵これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ︶では規定の半額が支給される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196}}。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる︵これは辞職した時に返却する︶。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=385}}。 これに対して、農民は[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟︵穀物︶2[[石 (単位)|石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]︵または布2.5丈と麻3斤︶を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、これを免除して貰うために納める税を[[庸]]と呼び、労役1日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある︵雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=388}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=200-201}}。[[府兵制]]は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す︵[[#兵制]]で後述︶。 以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、 男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する[[戸籍]]が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=389}}、戸の資産ごとに上上・ しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民︵逃戸︶が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=244-245}}。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。[[玄宗 (唐)|玄宗]]期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが[[宇文融]]の発案で行なった[[括戸政策]]である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=394-395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=153}}。 351 ⟶ 349行目:
唐政府の中央軍である禁軍として、﹁南衙﹂と呼ばれる国の正規軍と﹁北衙﹂と呼ばれる皇帝親軍の二元化した軍隊が存在した。 南衙禁軍は長安城内に駐屯し、ここに務める兵力は府兵が担いこれを衛士といった。長安には府兵が属する組織として十二衛府六率府があり、十二衛︵左右衛・左右驍衛・左右威衛・左右両軍衛︶は各4-50の折衝府を管理し、皇帝の[[儀仗]]や宿衛、皇族や各官庁の警護にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=404}}。六率府︵左右衛率府・左右司禦率府・左右清道率府︶には各3-6の折衝府を管理し、皇太子の宿衛儀仗にあたった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=404-405}}。南衙禁軍は、府兵制度の衰退とともに兵力の確保が困難になり、京師周辺の下等戸から優先して徴兵する[[彍騎制]]を行って兵力を確保しようとしたが、こちらも早期に頓挫。京師警備の任務も北衙禁軍が担うこととなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=405}}。 北衙禁軍は、[[李淵|高祖]]のときの元従禁軍を元とし{{Sfn|布目|栗原|1997|p=271}}、[[太宗 (唐)|太宗]]の638年︵[[貞観 (唐)|貞観]]十二年︶に老齢化した彼らに代わって二等戸以上から選抜して飛騎と呼んで皇帝親衛軍とし、更に飛騎の中から選抜して百騎とした。飛騎の駐屯地は長安宮城北の玄武門の左右にあったので北衙と呼ばれる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=408-409}}。この時点での北衙の兵力は南衙に比べれば微々たるものであったが、[[高宗 (唐)|高宗]]の662年︵[[龍朔]]二年︶に左右羽林軍として独立した軍となる。更に百騎が689年に千騎・705年に万騎と改称されてその都度増員され、玄宗の738年︵[[開元]]二重六年︶に万騎が左右龍武軍として独立、北衙は四軍となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=409}}。 安史の乱の際に、本来の北衙禁軍である羽林軍は壊滅しており、これに代わって禁軍の中核となったのが[[神策軍]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=370}}。[[憲宗 (唐)|憲宗]]のときにこの神策軍を大幅に拡充して15万を数えるようになり、この兵力を基に反則藩鎮の順地化に成功した︵[[#藩鎮との攻防]]で先述︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=457-459}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371-374}}。しかしこの神策軍の拡充の費用に当てられたのが[[#乱の続発|先述]]の[[羨余]]であり、民衆を大いに苦しめることとなった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=463}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=371}}。 456 ⟶ 454行目:
漢代以来700年以上の長きに渡って[[五銖銭]]が使われていたが、唐建国4年後の[[621年]]に新たな[[銅銭]]である[[開元通宝]]を発行した。この開元通宝は[[五代十国時代|五代]]までの340年間に通行した{{Sfn|宮澤|2007|p=144}}。なおこの銅銭のことは開通元宝と読むという説もあり、どちらが正しいかは現在でも確定していない{{Sfn|宮澤|2007|p=145}}。1文の重さは2銖4参≒4g。10文=1両、1000文=1貫となる{{Sfn|宮澤|2007|p=146}}。唐の間に開元通宝以外の高額面銅銭が何度か発行されたが、いずれも定着はしていない。 唐政府による正式な銅銭︵官銭︶に対して民間で勝手に鋳造する私鋳銭が横行した。政府は私鋳は死罪として厳しく取り締まったが、それにも 安史の乱以降、[[#兵制]]が[[府兵制]]から[[募兵制]]へと移行したことで、軍事支出が大幅に増加したこと・[[両税法]]の導入により納税が銅銭を基本とすることとなったことなどから銅銭の需要が激増し、銅銭の不足をもたらした︵これを[[銭荒]]と呼ぶ︶。これにより銅の価格は高騰し、銅銭を鋳潰して銅として売る行為︵私銷︶が増えた{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。こうなると私鋳銭で良銭を作ることは難しくなり、悪銭が増えて横行することとなる{{Sfn|宮澤|2007|p=155}}。政府も私銷や積銭︵銅銭を溜め込むこと︶の禁止などで銅銭不足に対応しようとしたが、原料の銅不足はいかんともしがたかった{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。これが[[会昌の廃仏]]により、各地の仏像を鋳潰したことでそれを原料とした銅銭が大量に発行された{{Sfn|宮澤|2007|p=166}}。 683 ⟶ 681行目:
| 只だ是れ黄昏に近し
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=== 思想・宗教 ===
唐代は歴代でも[[元 (王朝)|元]]時代に次いで、儒教不遇の時代とされる。
唐初に太宗の命により﹃[[五経正義]]﹄が編纂されて五教︵[[周易]]・[[詩経]]・[[書経]]・[[礼記]]・[[春秋]]︶の解釈が一つに統一され、科挙[[名経]]科にてこの﹁正義﹂の解釈を憶えることが必須となった。しかし﹃正義﹄の編纂により、儒教思想の固定化を招き、自由な思想発達は主に宗教界、特に[[仏教]]に発揮されることになった{{Sfn|池田|1996a|p=423}}。 当時の仏教の主な宗派として[[三階教]]・[[華厳宗]]・[[禅宗]]・[[浄土教]]・[[天台宗]]などが挙げられる。ただし三階教は後に弾圧された{{Sfn|池田|1996a|pp=423-425}}。また[[玄奘]]が齎した大量の梵字仏典、さらに([[鳩摩羅什]]らに対して)「新訳」と称される漢訳仏典は仏教学に新たな進展を齎した。唐室李氏は李耳([[老子]])をその遠祖とすると称していたので[[道教]]に対して「道先仏後」というような手厚い保護をした。特に[[玄宗 (唐)|玄宗]]は道教に対して傾倒し、『[[老子 (書物)|老子道徳経]]』に自ら注釈を付けている。ただし唐室の保護にもかかわらず道教の勢力は仏教の勢力には及ばなかった{{Sfn|池田|1996a|p=426}}。それ以外にも[[ゾロアスター教]](祆教)・[[ネストリウス派]](景教)・[[マニ教]](明経)の[[唐代三夷教]]と称される宗教が唐の下で存在していた。ただこれら三夷教は唐に住んでいた外国人に信仰されていたものであり、中国には広がらなかった{{Sfn|池田|1996a|p=416}}。
玄宗に次いで道教に傾倒していたと評される[[武宗 (唐)|武宗]]は[[会昌の廃仏]]([[三武一宗の法難]]の第三)と呼ばれる反仏教運動を起こした。首都長安にあった多数の仏教寺院を廃してのみにし、各都市においてもこれに準じて最低限の仏寺・僧・尼だけを置き、それ以外は廃・還俗させた。これに伴い前述の三夷教も排撃されて姿を消した{{Sfn|池田|1996a|p=526}}。
廃仏は武宗の死とともに終了したが、これと前後して[[韓愈]]・[[柳宗元]]による[[古文復興運動]]、および「'''新儒教'''」の開発が進められた。それまでの経典の字句解釈・暗記を主とした儒教から経典を基に自らの思想を大胆に主張する全く新しい儒教が試みられた。この時点での新儒教はまだまだ未熟なものであったが、その後に与えた影響は大きく、宋代になって[[道学]]へと大成されることになる{{Sfn|池田|1996b|p=523-525}}。
=== 美術 ===
[[File:Longmen lu she na.jpg|thumb|龍門石窟]]
唐代では各地の石窟寺院で盛んに造像や壁画が行われた。[[敦煌]][[莫高窟]]では([[吐蕃]]支配時を含めて)220ほどの窟が唐代に作られたものと推定されている(初唐40・盛唐80{{Sfn|池田|1996a|p=437}}・吐蕃40・晩唐60{{Sfn|池田|1996b|pp=540-541}})。洛陽に近い[[龍門石窟]]でも盛んに造像が進められ、高宗期の672年から675年にかけて本尊[[盧遮那仏]]を始めとした9体が象像された{{Sfn|池田|1996a|p=437}}。
[[書道|書]]の分野では太宗が[[王羲之]]に傾倒したことが有名だが、その影響で王羲之流の均整の取れた書体が好まれて、[[欧陽詢]]・[[虞世南]]・[[褚遂良]]が初唐の三大家と呼ばれる{{Sfn|源川|2002|p=123}}。しかしあまりに王羲之風一辺倒になりすぎた弊害を打破すべく、[[狂草体]]と呼ばれる奔放な草書を得意としたグループが誕生した。代表的な人物に[[賀知章]]・[[張旭]]・[[懐素]]などがいる{{Sfn|源川|2002|p=132}}。褚遂良以後の唐の書道界は一時衰微するが[[顔真卿]]の登場により中興の時を迎える{{Sfn|源川|2002|p=127}}。 絵画の分野では[[閻立本]]・[[呉道玄]]らの名前が挙がる。両者ともに真筆は現存していない。閻立本は北宋代の模写『歴代帝王図巻』が残るが、呉道玄には模写も残っていない{{Sfn|池田|1996a|p=439}}。山水画もまた発展し、後に[[北宗画]]の祖とされることになる[[李思訓]]、南宗画の始まりとされる[[王維]]がいる{{Sfn|池田|1996b|p=439}}。さらに[[張彦遠]]によって著された『[[歴代名画記]]』はその時点までの中国絵画史を総括したものとしてその存在意義を多角評価されている{{Sfn|池田|1996b|p=543}}。
=== ギャラリー ===
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
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=== 総論・歴史 ===
* {{Cite book|和書|
* {{Cite book|和書|editor=[[池田温]] |title=中国史2 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
** 第五章「唐」
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* {{Cite book|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |authorlink=渡辺信一郎 (中国史学者)|title=中國古代の財政と國家 |edition= |year=2010 |publisher=[[汲古書院]] |series= |volume= |isbn=9784762925900 |ref={{SfnRef|渡辺|2010}} }}
** {{Cite journal|和書|last=渡辺 |first=信一郎 |title=唐代後半期の中央財政 : 戸部財政を中心に |url=http://id.nii.ac.jp/1122/00003897/ |journal=京都府立大學學術報告. 人文 |publisher=[[京都府立大学]] |year=1988 |volume=40 |page=30_a-1_a |id={{CRID|1050564287579063296 |ref={{SfnRef|渡辺|1988}} }}、渡辺2010 14章に所収。--> === 文化 ===
* {{Cite book|和書 |editor=[[杉村邦彦]] |title= 中国書法史を学ぶ人のために |year=2002 |publisher=[[世界思想社]] |isbn=978-4790709466 |ref= }}
** 第4章「隋・唐・五代」
**# {{Cite journal |和書 |author=源川進 |authorlink=源川進 |year= |title=唐 |ref={{SfnRef|源川|2002}} }}
=== 国際関係 ===
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