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高宗の治世初期は長孫無忌・[[褚遂良]]・李勣などの元勲の補佐を受けて概ね平穏に過ぎた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=331}}。ここに登場するのが武照、後の[[武則天]]である。 武照は太宗の後宮で[[才人]]︵唐[[後宮]]の階級の一つ。上から六番目︶だったが、太宗の死と共に尼になり、改めて高宗の後宮に入って[[昭儀]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=331-332}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=111-112}}。この時に高宗の皇后は王皇后であったが、武昭儀は策略によりこれを廃除して、自ら皇后となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=332}}。皇后冊立に当たり、高宗は長孫無忌ら重臣に冊立の可否を問い、長孫無忌と褚遂良が反対・李勣が転向して賛成に回った{{Sfn|布目|栗原|1997|p=114-115}}。皇后となった武則天により長孫無忌・褚遂良は謀反の疑いをかけられて左遷、最後は辺境で死去した。宮廷を掌握した武則天は高宗に代わって実権を握り、[[垂簾の政]]を行い、武則天は高宗と並んで﹁二聖﹂と呼ばれた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=119}}。 この時期の668年に李勣を総大将に4度目の高句麗遠征を行い、新羅との連合軍で高句麗を滅ぼすことに成功している{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=328-329}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=84}}。唐はここに安東都護府をおいて支配しようとしたが、後に新羅の圧力を受けて遼東まで後退を余儀なくされる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=329}}。 122行目:
[[File:Pao-Shan Tomb Wall-Painting of Liao Dynasty (寳山遼墓壁畫:頌經圗).jpg|right|thumb|300px|楊貴妃]]
玄宗は太子時代の妃であった[[王皇后 (唐玄宗)|王氏]]を皇后としていたが、子が無く寵愛が離れた。代わって武則天の一族である[[武恵妃]]を寵愛し、その子である第十八子の寿王[[李瑁]]を太子に立てたいと思っていたが、武氏の一族であることから群臣の反対にあい{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=348}}、最終的に高力士の勧めに従って忠王李璵︵後の[[粛宗 (唐)|粛宗]]︶を太子に立てていた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=155}}。この寿王李瑁の妃の一人であったのが[[楊貴妃]]である。 一旦道士になった後に、745年に改めて後宮に入った楊貴妃を玄宗は溺愛した。その様は[[白居易]]の﹃[[長恨歌]]﹄に歌われている。その中に﹁此れ従り君主は早く朝せられず﹂とあるように玄宗は政治に倦み、李林甫らに任せきりになっていた{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=165-166}}。 286行目:
均田制は全国の丁男︵21歳から59歳までの男性︶及び中男︵18歳以上の男性︶一人につき、[[永業田]]が20[[畝 (単位)|畝]]・[[口分田]]が80畝まで支給される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。永業田は世襲が認められる田地で、[[クワ]]・[[ナツメ]]・[[ニレ]]を植えることが義務付けられる{{Sfn|布目|栗原|1997|p=195}}。口分田は穀物を育てる田地で60歳になるあるいは死亡した場合は返還しなければならない{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=385-386}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=195-196}}。なお人口に対して田地が少なく十分な給付が出来ない土地︵これを狭郷と呼び、対して普通の所を寛郷と呼ぶ︶では規定の半額が支給される{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196}}。また官職にある者は[[職分田]]が与えられる︵これは辞職した時に返却する︶。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・[[道士]]などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=385}}。 これに対して、農民は[[租庸調]]と呼ばれる税を納める義務を負う。[[租]]は粟︵穀物︶2[[石 (単位)|石]]、[[調]]は[[絹]]2[[丈]]と[[綿]]3[[両]]︵または布2.5丈と麻3斤︶を収める。年間20日の[[労役]]の義務があり、これを免除して貰うために納める税を[[庸]]と呼び、労役1日に対し絹3[[尺]]あるいは布3.75尺を収める。これに加えて雑徭という臨時的に徴される力役がある︵雑徭に関しては諸説あり、ここでは詳細は省く︶{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=388}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=200-201}}。[[府兵制]]は軍府という軍組織に所属する民に対して租調役を免除する代わりに兵役を課す︵[[#兵制]]で後述︶。 以上が理念的な均田制であるが、給付・返還の実態については諸説ある所であり、[[第二次世界大戦|戦前]]は均田制は土地所有の制限を定めたものであり、土地の返還は行われていなかったとする見解もあった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=390-392}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=196-198}}{{Sfn|氣賀澤|1994|pp=131-132}}。しかし新史料の発見により、少なくとも部分的には給付・返還が行われていたと考えられている{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=390-392}}{{Sfn|氣賀澤|1994|pp=134-135}}。 男丁を基準に給付と課税が行われるのであるからその運用には戸内の男丁の数を把握する[[戸籍]]が必要である。唐では戸籍が三年に一回作られ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=389}}、戸の資産ごとに上上・ しかし武則天期から天災や異民族の侵入、あるいは大土地所有者の増加などにより本籍地から逃亡する民︵逃戸︶が増え始めた。逃戸が逃亡先で定住したものを客戸と呼ぶ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=394}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=244-245}}。逃戸が増えるとその分の税収が減ることになる。[[玄宗 (唐)|玄宗]]期には更にこの傾向は進み、何らかの対策が必要とされた。その一つが[[宇文融]]の発案で行なった[[括戸政策]]である。客戸を逃亡先の土地で戸籍に登録するこの政策により八十余万戸が新たに登録されたという{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=394-395}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=153}}。 922行目:
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=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
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=== 総論・歴史 ===
* {{Cite book|和書|
* {{Cite book|和書|editor=[[池田温]] |title=中国史2 三国〜唐 |year=1996 |publisher=[[山川出版社]] |location= |series=世界歴史大系 |volume=2 |edition=初版 |isbn=4634461609 |ref={{SfnRef|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996}} }}
** 第五章「唐」
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