「唐」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→乱の続発: 句読点「。」の抜け修正 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
→歴史: 節名の変更、隋についての記述の簡略化 |
||
58行目:
== 歴史 ==
[[File:Tang gao zu.jpg|left|thumb|200px|建国者 李淵]]
===
==== 建国 ====
[[西晋]]の滅亡以来、[[中国]]は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが、北朝[[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]により589年に再統一が為された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=285}}。文帝は内政面でも[[律令]]の制定{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=285-287}}・[[三省六部]]を頂点とする官制改革{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=287-289}}・ 604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広︵[[煬帝]]︶が後を継ぐ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=293}}。煬帝は[[大運河]]・[[洛陽]]新城などの大規模土木工事を完成させた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=294-295}}。さらに612年から3年連続で[[高句麗]]に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる︵[[隋の高句麗遠征]]︶{{Sfn|氣賀澤|2005|pp=57-58}}。 国内の混乱が激しくなる中、北の東[[突厥]]に面する[[并州|太原]]の[[留守官|留守]]とされていた唐国公[[李淵]]は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、すぐに大興城︵長安︶を陥落させることに成功。煬帝を[[太上皇|太上皇帝]]に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である[[恭帝侑|楊侑]]を傀儡の皇帝に立てた、この時、煬帝は江都︵[[揚州 (江蘇省)|揚州]]︶で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に[[宇文化及]]を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=311-312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。 同年、李淵は恭帝から[[禅譲]]を受けて即位。[[武徳]]と元号を改め、'''唐'''を建国した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=72}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=67}}。この時点で[[王世充]]・[[李密]]・[[竇建徳]]・[[劉武周]]など各地に群雄が割拠していた{{Sfn|布目|栗原|1997|p=66}}。李淵︵以下高祖とする︶は長男の[[李建成]]を[[皇太子]]とし、次男の[[李世民]]を[[尚書令]]として{{Sfn|布目|栗原|1997|p=73}}、各地の群雄討伐に向かわせた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=68}}。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=74}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=69}}。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=312}}。 ==== 貞観の治 ====
84行目:
三回目の高句麗遠征が終わった後の649年に太宗は崩御{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=321}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=107}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。太宗の九男の晋王李治が三代皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|pp=320-321}}。 ==== 武
太宗と[[長孫皇后]]の間には[[李承乾]]︵長男︶・[[李泰]]︵四男︶・李治︵九男︶の三人の男子がいた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=120}}。最初に李承乾が皇太子に立てられたが、李承乾は成長するにつれ奇行が目立つようになり、最後には謀反の疑いにより廃された{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=120}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}。次いで太宗は学問に通じた李泰を皇太子にしようとしたが{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}、長孫皇后の兄の[[長孫無忌]]が凡庸な治を次代皇帝に推薦し、太宗もこれを入れて李治が後継に決まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=88}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。長孫無忌には凡庸な皇帝の後見役になることで権勢を振るうという意図があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=320}}{{Sfn|氣賀澤|2005|p=82}}。 107行目:
2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「[[武韋の禍]]」と呼ぶ{{Sfn|氣賀澤|2005|p=90}}。
====
[[File:Tang_XianZong.jpg|left|thumb|200px|玄宗]]
[[File:Tang Dynasty in the 8th century ja.svg|right|thumb|400px|8世紀前半の唐]]
140行目:
安禄山は757年に子の[[安慶緒]]に殺され、その後を継いだ史思明も761年にこれも子の[[史朝義]]に殺される{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=305}}。郭子儀率いる軍は回紇の支援を得て757年に長安、762年に洛陽を奪還。翌763年に史朝義が部下に殺され、ここに安史の乱は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=356}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=306}}。 ===
==== 律令体制の崩壊 ====
195行目:
裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である[[黄巣の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}。870年くらいから唐には[[旱魃]]・[[蝗害]]などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝[[僖宗]]に出した被害報告が﹁イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり﹂というでたらめなものであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。 このような状態に対して874年︵あるいは875年︶に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで黄巣の乱が始まる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}} しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=439}}。そして880年に洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。 |