土屋三余
人物情報 | |
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別名 | 宗三郎 |
生誕 |
1815年(文化12年) 伊豆国那賀郡中村(現・松崎町) |
死没 |
1866年(慶応2年)7月4日 伊豆国那賀郡中村(現・松崎町) |
居住 | 伊豆国那賀郡中村(現・松崎町) |
配偶者 | みよ[1] |
学問 | |
時代 | 江戸時代後期 |
研究分野 | 漢学、儒学 |
影響を与えた人物 | 依田佐二平、依田勉三 |
生涯
1815年︵文化12年︶、伊豆国那賀郡中村︵現・松崎町那賀︶出身、土屋家12世に生まれた。6歳時に父親、8歳時に母親と死別後に、母親の実家に引き取られ、浄感寺の本多正観に学問を学んだ[3]。
三余は、掛川藩領役人が農民を横暴苦しめていたことを見て、農民自身が智徳を磨き身に付けることで、武士と対等の人間に育てることを自らの生涯をかけて取り組む仕事と決めた[2][3]。学問を志し、1829年︵文政12年︶15歳の時に江戸に旅立ったものの、1830年︵天保元年︶に一旦帰郷している[3]。1831年︵天保2年︶の17歳の時に、再び江戸に出て東條一堂の瑶地塾に入門、国語学についても大沢赤城に就き、8年の学問の研鑽と、玄武間道場で剣術の鍛錬もつとめ、見識が上達すると共に名声も高まったという[2][3]。
諸侯からの顧問に招かれるようになり、評価が高まるにつれ、本来の農民自体が智徳を磨くという理念との間で悩みながらも、1839年︵天保10年︶、25歳の時に郷里に帰ることを決断し、伊豆中村で竹裡塾を開き、竹裡閑人と号した[2][3]。講義を始めた頃、外国船が日本周辺に出没し、三余は世情を把握するため、江戸を往来し、勤王志士とも親交をもった[3]。タウンゼント・ハリスが1856年︵安政3年︶に下田の玉泉寺に来航した際には、外人と接してみたい思いから、門下生の依田佐二平と共に下田に黒船を見に行っている。この際、水兵たちとの間で、筆や墨と日本紙と、ビール3本と缶詰などを交換している[3]。
激動する情勢の中で、今までの竹裡塾の教育よりも、子弟の魂の通い合った教育でなければ混乱の時代に対応した人材を養成できないと判断し、1859年︵安政6年︶に三余塾と名付けた新しい塾舎で新たに号を三余と名乗り、弟子と寝食を共にする教育を始め、逝去するまで塾で子弟の育成に力を注いだ。菩提寺西法寺入口に、﹁三余土屋先生之碑﹂が残っており、題字は勝海舟、撰文は旧仙台藩の岡千仞、書は日下部東作による作である。名塾といわれたが、三余の逝去により閉じられた[2][3]。
竹裡塾
三余は、開塾の信条として、3つ挙げている[2][3]。
●人の天分に上下の差はない。士が尊く農民が賤しい断りはない、ただ現在の境遇に優劣あるのは教育の有無によるのだ。
●人は天分を全うするために職業を持たねばならぬ。
●士農の教会を撤去するには業間の三余を以って指定を教育しその器を大成させ武士に対抗させることだ。
三余塾
●塾者は、孔子の門下十哲の四科を使い、徳行、言語、政治、文学の名をつけ部屋とした入門帳が作製され、筆頭に依田佐二平の名が残っている。塾の教育は、国史から入り、のちに人道を説く順番であり、武士と対等の人物育成のため、品性を陶冶し、礼儀と質素を重んじ、食事作法も厳しく指導した。また、姑息と怠惰を戒めるため、修学の心得、日々実行の心得を朝晩吟唱させていた[2]。
●塾の学科は、国史略、皇朝史略、日本外史、算術、作詞作文、習字で構成されていた[2]。
●入門料は、講師も取られたから礼としていただくが、以後は一門の謝礼も受けなかった[2]。
●生徒は男50名、女15名、教師は男6名であった[2]。
人柄
●竹裡塾時代からの門下生は700人を超えるといわれ、仙台・信州・甲州・千葉からも入門者が来るほどであった[2]。
●門人の追悼詩文では、﹁温厚で賢く、懇ろに子弟を導いてくれた﹂﹁先生は我が子のように仲間に接し、仲間は父のごとく接した﹂と残っている[2]。
●三余が外出すると、農家の人々が作業をやめて挨拶をするため、外出の際には傘で顔を隠して俯いて歩いた[1]。
●甥が上京して吉原を見物していた際、着流しで三味線を弾きながら新内を歌って前方から歩いてくるものがあり、三余とわかった時に大いに驚いたという。なんでもやってみる人柄であったという[1]。
●書籍のために、家計も忘れてしまうため財産も減少してきたが、みよ夫人が家事を取りしきるようになり、出入りの管理ができるようになった[1]。
●休日には、帰一寺に出かけて住職と一日中酒を酌み交わすほど酒が好きであったという[1]。
脚注
参考文献
- 清水真澄『三余塾物語』1984年。
- 松崎町史編さん委員会編 編『松崎町史資料編 第2集(教育編)』松崎町教育委員会、1994年。