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'''土岐 善麿'''(とき ぜんまろ、[[1885年]]([[明治]]18年)[[6月8日]] - [[1980年]]([[昭和]]55年)[[4月15日]])は、[[日本]]の[[歌人]]・[[国語学者]]。歌人として'''土岐 哀果'''(とき あいか)の号も使用した。
== 生涯 ==
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== 石川啄木との親交 ==
[[1910年]]︵明治43年︶に刊行した第一歌集﹃NAKIWARAI﹄の批評を、当時[[東京朝日新聞]]にいた 啄木も同年12月に第一歌集﹃[[一握の砂]]﹄を出し、翌[[1911年]]︵明治44年︶1月10日付の読売新聞に、[[文芸評論家]]の[[楠山正雄]]が匿名で啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして取り上げた<ref name="nagahamap216"/>。土岐はこの直後の1月12日に東京朝日新聞の啄木に電話をかけ、翌日初めて面会する<ref name="nagahamap216"/>。この面会で意気投合した二人は、啄木の提案で雑誌を出すことを決め、二人の筆名から一文字ずつを使った﹃樹木と果実﹄に誌名を決める<ref>長浜功﹃石川啄木という生き方 二十六歳と二ヶ月の生涯﹄社会評論社、2009年、pp.220 - 226</ref>。しかし啄木が病気を発したことや、出版を依頼した印刷社が倒産したことから、刊行を断念した<ref>長浜功﹃石川啄木という生き方 二十六歳と二ヶ月の生涯﹄社会評論社、2009年、pp.226 - 230</ref>。 翌[[1911年]]︵明治44年︶には啄木とともに雑誌﹃樹木と果実﹄の創刊を計画すしたものの実現せず、[[1912年]]︵明治45年︶4月13日に啄木が病死。善麿は同年刊行した第二歌集﹃黄昏に﹄の前書きに﹁この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。﹂と記した。▼ ▲ 啄木とはわずか1年ほどの付き合いであったが、啄木の才能を評価していた土岐は死後も遺族を助けた<ref name="nagahamap26">長浜功﹃﹃啄木日記﹄公刊過程の真相 知られざる裏面の検証﹄社会評論社、2013年、p.26</ref>。また、啄木の遺稿整理と出版に務め、特に[[新潮社]]の[[佐藤義亮]]を説得の末に刊行を実現した初の﹃啄木全集﹄︵1920年︶はベストセラーとなり、その名を広めることに貢献した<ref name="nagahamap26"/><ref>長浜功﹃﹃啄木日記﹄公刊過程の真相 知られざる裏面の検証﹄社会評論社、2013年、pp.59 - 60</ref>。 == 著書 ==
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