「坂口安吾」の版間の差分
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| image = Ango Sakaguchi (cropped).jpg
| imagesize = 230px
| caption = 1946年12月、[[東京都]][[蒲田区]]安方町の自宅二階にて<br />撮影:[[林忠彦]]
| pseudonym =
| birth_name = 坂口 炳五(さかぐち へいご)
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| birth_place = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]]西大畑通28番戸(現・[[中央区 (新潟市)|中央区]][[西大畑町]]579番地)
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1906|10|20|1955|2|17}}
| death_place= {{JPN1947}}・[[群馬県]][[桐生市]][[本町 (桐生市)|本町]]2丁目266番地
| resting_place = 新潟県[[新津市]][[大安寺 (新潟市)|大安寺]](現・新潟市[[秋葉区]]大安寺)
| occupation = [[小説家]]、[[評論家]]
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{{読み仮名_ruby不使用|'''坂口 安吾'''|さかぐち あんご|[[1906年]]︿[[明治]]39年﹀[[10月20日]] - [[1955年]]︿[[昭和]]30年﹀[[2月17日]]}}は、[[日本]]の[[小説家]]、[[評論家]]、[[随筆|随筆家]]。本名は{{読み仮名_ruby不使用|坂口 炳五|さかぐち へいご}}。 昭和の、[[第二次世界大戦]]前 == 人物 ==
[[新潟県]][[新潟市]]出身。[[東洋大学]][[インド哲学|印度哲学]][[倫理学]]科卒業。[[学校法人アテネ・フランセ|アテネ・フランセ]]で[[フランス語]]習得。 戦前は[[笑劇|ファルス]]的[[ナンセンス]]作品﹃[[風博士]]﹄で[[文壇]]に注目され、一時低迷した後、[[日本の降伏|終戦]]直後に発表した﹃[[堕落論]]﹄﹃[[白痴 (坂口安吾)|白痴]]﹄により時代の寵児となり、[[太宰治]]、[[織田作之助]]、[[石川淳]]らと共に、[[無頼派]]・[[新戯作派]]と呼ばれ地歩を築いた<ref name="okuno">[[奥野健男]]﹁坂口安吾――人と作品﹂︵文庫版﹃[[白痴 (坂口安吾)|白痴]]・[[二流の人 (小説)|二流の人]]﹄ 文学においての新人賞である[[芥川龍之介賞]]の選考委員を第21回から第31回の間務め、[[松本清張]] 坂口安吾は 晩年に生まれた一人息子の[[坂口綱男]]は[[写真家]]である<ref>[http://www.tsunao.com/ 写真家・坂口綱男T.Sakaguchi Home]</ref>。
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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
1906年︵明治39年︶10月20日、[[新潟県]][[新潟市]]西大畑通28番戸︵現・[[中央区 (新潟市)|中央区]][[西大畑町]]579番地︶に、[[憲政本党]]所属の[[衆議院|衆議院議員]]の父・[[坂口仁一郎]]︵当時45歳︶、母・アサ︵当時37歳︶の五男、13人兄妹の12番目として難産で生まれる<ref name="album"/><ref name="omina"/>。本名﹁炳五﹂︵へいご︶の由来は、﹁[[丙午]]﹂年生まれの﹁五男﹂に因んだもの。血液型はA型。本籍である新潟県[[中蒲原郡]][[阿賀浦村]]大字[[大安寺 (新潟市)|大安寺]]︵現・新潟市[[秋葉区]]大安寺︶の坂口家の高祖は、碁所の坂口仙得家の末裔という代々の旧家で、﹁坂口家の[[小判]]を積み上げれば[[五頭山]]の嶺までとどき、[[阿賀野川]]の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ﹂と言われたほどの富豪であり、遠祖・治右衛門︵のち甚兵衛︶は[[九谷焼]]の陶工であった<ref name="album"/><ref name="nenpukado">﹁年譜﹂︵文庫版﹃白痴・二流の人﹄ 父・仁一郎は、﹁阪口五峰﹂﹁七松山人﹂の[[号 (称号)|号]]で[[漢詩]]集の著書﹃北越詩話﹄︵1918-1919年︶、﹃舟江雑誌﹄のある[[漢詩人]]でもあり︵[[森春濤]]の門下︶、[[市島春城]]︵春城︶、[[会津八一]]と親交があった。新潟米穀株式会社取引所理事長、[[新潟新聞]]社︵現・[[新潟日報社]]︶社長なども務め、衆議院議員の[[政治家]]としては、[[大隈重信]]の 幼少時の炳五は[[破天荒]]な性格で知られ、ガキ大将として近所の子供を引き連れ、町内や砂丘、[[茱萸]]林、異人池で遊び回り、[[立川文庫]]の﹃[[猿飛佐助]]﹄を愛読し[[忍術]]ごっこに興じて忍法を研究していた。炳五の[[従姉妹]]の徳︵アサの妹の娘。のちの献吉の妻︶によると、ある叔父が﹁炳五はとてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ﹂と言っていたという<ref name="album"/>{{refnest|group="注釈"|母・アサの兄で、吉田一族の中でもとりわけ === 「偉大なる落伍者」への決意 ===
中学2年の時に、4科目︵英語、博物など︶で不合格となり[[留年]]したため、[[家庭教師]]をつけられ 文学作品は、兄・献吉の影響もあり早くから読んでおり、私立豊山中学校編入後は同級生の[[山口修三]]、[[沢部辰雄]]の影響で[[宗教]]にも目覚める。[[谷崎潤一郎]]、[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、[[芥川龍之介]]、[[エドガー・アラン・ポー]]、[[シャルル・ボードレール]]、[[アントン・チェーホフ]]などを愛読した。また、[[詩歌]]では[[石川啄木]]や[[北原白秋]]などを愛読し、[[短歌]]を作っていた。その他にも、[[日本史]]に興味を持ち、﹃[[講談 === 悟達への想いと求道 ===
[[関東大震災]]のあった[[1923年]]︵大正12年︶11月2日に父・仁一郎が細胞[[肉腫]]、後[[腹膜]][[腫瘍]]で死去︵64歳で没︶。戸塚を離れ、[[池袋]]などを転々と引っ越し、[[1925年]]︵大正14年︶から兄と[[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]]字元芝849︵現・[[品川区]][[東大井]]︶に転居。本当は山に入って暮らすことを考えていたが、父の財産管理で10万円の借金があったことから、3月に豊山中学校を卒業後は[[代用教員]]になることを決心し、[[荏原郡]][[世田ヶ谷町]]の荏原尋常高等小学校︵現・[[世田谷区立若林小学校|若林小学校]]︶に採用され、その分教場︵現・[[世田谷区立代沢小学校|代沢小学校]]︶の代用教員となり、5年生を担当する。分教場主任の家に[[下宿]]し、月給は45円であった。生徒への教育方針は﹁温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる﹂ことで<ref name="kazeto">坂口安吾﹁風と光と二十の私と﹂︵﹃[[文藝]] この頃、 卒業した豊山中学校が[[仏教]][[真言宗]]の中学で、在学中から友人らの影響で[[宗教]]に目覚めていた安吾は、ますます求道への想いが強くなり、[[1926年]]︵大正15年︶から 睡眠時間をわずか4時間にし︵午後10時に寝て午前2時に起床︶、仏教書や[[哲学]]書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けた結果、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]に陥る<ref name="nijuichi">坂口安吾﹁二十一﹂︵﹃[[現代文 === フランス語と同人『言葉』 ===
大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらに[[ラテン語]]、[[フランス語]]を学び、[[1928年]]︵昭和3年︶に[[神田三崎町]]の[[学校法人アテネ・フランセ|アテネ・フランセ]]初等科に通い始める<ref name="zengo">坂口安吾﹁処女作前後の思ひ出﹂︵﹃[[早稲田文学]] [[1930年]]︵昭和5年︶3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて[[寄席]]や[[レヴュー (演芸)|レビュー]]、[[歌舞伎]]を観たり、音楽︵[[エリック・サティ]]など︶を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹に[[カフェー]]の支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に[[20世紀]][[フランス文学]]を学ぶ。5月には荏原郡[[矢口町]]字安方127番地︵のちに[[蒲田区]]安方町。現・[[大田区]][[東矢口]]︶に新築した家に、兄・献吉夫婦と、前年1929年︵昭和4年︶に妹・千鶴と上京してきた母・アサと移住した。母は、自分の実家から資金援助し安吾を[[フランス]]へ[[留学]]させてやろうと真剣に考えていたが、安吾自身は自信が === 新進ファルス作家へ ===
[[1931年]]︵昭和6年︶1月に﹃言葉﹄第2号に、[[ナンセンス]]的な処女小説﹁木枯の酒倉から﹂︵副題は﹁聖なる酔つ払ひは神々の魔手に誘惑された話﹂︶を書き、[[島崎藤村]]が褒めているという話を聞いて、小説家としての資質に自信を持つようになる<ref name="eguchi"/>。﹃言葉﹄を2号で廃刊後、5月に﹃青い馬﹄と改題して[[岩波書店]]から新創刊し、創刊号に[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]風の小説﹁ふるさとに寄する讃歌﹂︵副題は﹁夢の総量は空気であつた﹂︶、随筆﹁ピエロ伝道者﹂、翻訳﹁ステファヌ・マラルメ﹂︵[[ポール・ヴァレリー|ヴァレリー]]︶、﹁エリック・サティ﹂︵[[ジャン・コクトー|コクトー]]︶を発表した。﹁エリック・サティ﹂<ref>﹃エリック・サティ﹄新版は[[佐藤朔]]により改訂刊行︵深夜叢書社、1977年、新版1990年︶</ref>は葛巻義敏との共訳であった<ref name="eguchi"/>。 続いて6月、﹃青い馬﹄2号に[[散文]][[笑劇|ファルス]]とも言うべき﹁[[風博士]]﹂を発表。3号に、新潟県[[東頸城郡]][[松之山町]]、[[松之山温泉]]を舞台にした﹁黒谷村﹂を発表する。この﹁風博士﹂を[[牧野信一]]から激賞{{refnest|group="注釈"|牧野信一は﹃風博士﹄を、﹁私は、フアウスタスの演説でも傍聴してゐる見たいな面白さを覚えました。奇体な飄逸味と溢るゝばかりの熱情を持つた化物のやうな[[弁士]]ではありませんか﹂と賞讃した<ref>[[牧野信一]]﹁﹃風博士﹄﹂︵ [[1932年]]︵昭和7年︶3月、﹃青い馬﹄は5号で廃刊、この最終号には評論﹁FARCEに就て﹂を掲載し、︿文学全般にわたつての[[道化]]﹀について論じた。3月から[[京都]]に1か月半ほど滞在し、河上徹太郎の紹介で[[京都大学|京都帝国大学]][[仏文科]]卒業間際の[[大岡昇平]]を訪ねて、[[独文科]]の[[加藤英倫]]、[[安原喜弘]]らと知り合い交遊して帰京。文学上のことで口論となることのあった牧野信一とは徐々に疎遠となる<ref name="album"/>。6月、﹁母﹂を﹃東洋・文化﹄に発表。8月、[[青山二郎]]行きつけの[[京橋 (東京都中央区)|京橋]]の酒場﹁ウヰンザア === 不安と流転の日々 ===
[[1934年]]︵昭和9年︶1月に何度も[[自殺未遂]]を繰り返していた親友・長島萃が[[脳炎]]で[[発狂]]し夭折したことに衝撃を受け、2月に﹁長島の死に就て﹂を﹃紀元﹄に発表。同月には河田誠一︵詩人︶も急性[[肋膜炎]]で死去した。この2人の友人の死は、安吾に生命の不安を与え、生活態度にも影響を及ぼした<ref name="album"/>。安吾は前年に知り合った蒲田新宿の酒場﹁ボヘミアン﹂のお安さんと3月から半ば[[同棲]]生活に入り、のちに[[大森区]]堤方町555︵現・[[大田区]]中央︶の十二天アパートに移住。5月、﹁姦淫に寄す﹂を﹃行動﹄に発表。9月に[[戯曲]]﹁麓﹂︵未完︶を﹃[[新潮]]﹄に発表するが、文学的転機に悩み、夏には[[越前国|越前]] [[1935年]]︵昭和10年︶4月に﹁蒼茫夢﹂、5月に随筆﹁枯淡の風格を排す﹂を﹃作品﹄に発表。[[徳田秋声]]を批判したこの随筆が縁で、[[尾崎士郎]]と知り合う。6月に﹃黒谷村﹄︵﹁木枯の酒倉から﹂など6編収録︶を[[竹村書房]]から刊行し、出版記念会を開く。[[新鹿沢温泉]]に赴き、[[長野県]][[小県郡]]弥津村︵現・[[東御市]]︶の奈良原鉱泉で一夏を過ごし、7月、﹁金談にからまる詩的要素の神秘性について﹂を﹃作品﹄、8月に﹁逃げたい心﹂を﹃文藝春秋﹄に発表。この小説の主人公の逃走︵蒸発︶願望は、[[太宰治]]などの同時代作家に共通するものであった<ref name="kawade">﹁坂口安吾 作品ガイド100﹂︵﹃KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と﹄ [[1936年]]︵昭和11年︶3月、[[本郷 (文京区)|本郷]]の菊富士ホテルで執筆中に[[矢田津世子]]が来訪し再会するが、その後、矢田から絶縁の手紙が来る。このことや同月24日に[[牧野信一]]の[[自殺]]に衝撃を受けたことから、1月から﹃[[文學界]]﹄に連載していた長編﹁狼園﹂を中断し、5月に牧野への追悼随筆﹁牧野さんの祭典によせて﹂を﹃[[早稲田文学]]﹄、﹁牧野さんの死﹂を﹃作品﹄に発表する。6月には、5年間交際していた恋人・矢田津世子に絶縁の手紙を送った<ref>坂口安吾﹁[[矢田津世子]]宛ての書簡﹂︵1936年6月16日付︶</ref>。矢田との間には[[肉体関係 (隠語)|肉体関係]]はなく、5年目の冬に一度[[接吻]]しただけだという<ref>坂口安吾﹁二十七﹂︵﹃新潮 === 切支丹物との出会い ===
[[1938年]]︵昭和13年︶5月に、安吾作品では最も長い700枚の渾身作﹁吹雪物語﹂を脱稿して上京し、本郷の菊富士ホテルに滞在。竹村書房から長編﹃吹雪物語﹄を7月に刊行するが、失敗作と評され失意に陥る。6月には可愛がっていた姪の村山喜久が[[松之山町|松之山]]の自宅の池の前で自殺し二重の苦悩の中、執筆に専念し、12月に[[三好達治]]の雑誌﹃文体﹄に説話体小説﹁閑山﹂を発表した。日本の古典文学や昔話に親しみ、[[1939年]]︵昭和14年︶2月にも、説話体小説﹁[[紫大納言]]﹂を﹃文体﹄、3月は﹁木々の精、谷の精﹂を﹃文藝﹄に発表した。同年5月、安吾は︿人々のいのちとなるやうな物語﹀を書くべく<ref>坂口安吾﹁かげろふ談義﹂︵﹃文体 翌[[1940年]]︵昭和15年︶1月には取手の寒さに悲鳴をあげ、[[三好達治]]の誘いで[[小田原市|小田原]][[早川 (小田原市)|早川]]橋付近の亀山別荘という[[結核]]患者のための家に転居する。[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]の﹃[[マルテの手記]]﹄を読み、絶望の必要性を教えられたことと、三好の勧めで﹃日本切支丹宗門史﹄など[[切支丹]]物を読み始め、執筆意欲を取り戻し、7月に === 絶対の孤独と「ふるさと」 ===
[[大晦日]]に[[大井広介]]と浅草[[雷門]]で会い、意気投合し﹃現代文學﹄同人となる{{refnest|group="注釈"|﹃現代文學﹄の同人は、坂口安吾、[[井上友一郎]]、[[豊田三郎]]、[[高木卓]]、[[檀一雄]]、[[野口富士男]]、[[大井広介]]、[[山室静]]、赤木俊︵[[荒正人]]︶、[[佐々木基一]]、[[北原武夫]]、[[菊岡久利]]、[[南川潤]]、[[宮内寒弥]]、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]、[[杉山英樹]]らであった<ref name="nenpukado"/>。}}。翌[[1941年]]︵昭和16年︶1月に大井宅で歴史書を耽読し、蒲田区安方町の家に戻る。8月に評論﹁[[文学のふるさと]]﹂を﹃現代文學﹄に発表。[[シャルル・ペロー]]版﹃[[赤ずきん]]﹄の残酷な︿救ひ﹀のない結末を鑑み、︿生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独﹀が︿文学のふるさと﹀だと考察し、︿モラルがないといふこと自体がモラル﹀というところから文学は出発するのではないかと論じられ<ref name="kawade"/>、自身の孤独な半生を[[思想]]として結晶させている<ref name="album"/>。8月、小田原から蒲田区安方町94に移り、再び母や兄たちと住むようになったが、小田原の借家は9月に暴風雨で流失する。歴史長編小説﹃[[島原の乱]]﹄︵未完︶を構想し、10月に﹃現代文學﹄に﹁島原の乱雑記﹂を発表、11月は﹁ラムネ氏のこと﹂を﹃[[都新聞]]﹄に発表する。同月、石川淳と識る<ref>渡辺喜一郎﹃石川淳傳説﹄右文書院、2013年 pp.151-153</ref>。 戦時下の[[1942年]]︵昭和17年︶2月 [[1944年]]︵昭和19年︶1月に[[黒田孝高|黒田官兵衛]]を主人公にした歴史小説﹁黒田如水﹂︵﹃[[二流の人 (小説)|二流の人]]﹄の原型︶を﹃現代文學﹄、2月に﹁鉄砲﹂を﹃文藝﹄に発表。[[徴兵逃れ]]のために[[日本映画社]]の[[嘱託社員|嘱託]]となる。3月14日に矢田津世子が38歳で病死。安吾はしばらく打ちのめされた<ref name="album"/>。[[1945年]]︵昭和20年︶4月に[[召集令状]]を受けるが、応召せず、6月に、[[記録映画]]﹃黄河﹄などの[[脚本]]を書いたが映画化はされなかった。2月26日に[[東京大空襲]]を受けたが、家は焼け残った。戦災に遭った親戚筋の大野璋五︵[[裁判官]]︶一家4人が坂口家と同居する。終戦後の9月に日本映画社を退社。世話になった友人の[[尾崎士郎]]が[[戦争責任]]で追及されることを危惧して奔走する<ref name="album"/>。安吾は尾崎士郎の秘書という名目で[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]][[戦犯]]事務所に同行して弁護をした<ref name="iwanami"/>。 103 ⟶ 105行目:
=== 時代の寵児 ===
[[ファイル:Sakaguchi ango.jpg|thumb|320px|<center>1946年、自宅にて執筆中</center>]]
[[1946年]]︵昭和21年︶ 10月に自伝小説﹁いづこへ﹂を﹃[[新小説]]﹄、﹁魔の退屈﹂を﹃太平﹄、﹁[[デカダン派|デカダン文学]]論﹂を﹃新潮﹄、﹁[[戦争と一人の女]]﹂を﹃新生﹄に発表。11月に自伝小説﹁石の思ひ﹂を発表。12月に﹁続戦争と一人の女﹂を﹃サロン﹄に発表し、旺盛な活動を見せる。この頃、[[太宰治]]や[[織田作之助]]と座談会で面識をもつ。写真家[[林忠彦]]と酒場﹁ルパン﹂で知り合い﹁[[カストリ]]を飲む会﹂を通じ交友し、12月に安方町の自宅の二階の紙屑だらけの仕事場で撮られた写真も後に有名になった。2年間ほど掃除をしていない部屋を見て、林忠彦は﹁これだ!﹂と叫んだという<ref name="album"/>。同月には[[文藝春秋社]]﹃座談﹄で[[阿部定]]と対談する<ref name="abesada">﹁[[阿部定]]×坂口安吾 ぢや強く生きてください﹂︵﹃KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と﹄ === 多忙な人気作家へ ===
[[1947年]]︵昭和22年︶1月 2月、随筆﹁[[特攻隊に捧ぐ]]﹂を﹃ホープ﹄に寄稿したが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[検閲]]で全文削除となり未発表作となる。同月には初の新聞連載小説﹁花妖﹂を、[[岡本太郎]]の挿絵で﹃[[東京新聞]]﹄に連載開始するが、新聞小説としては型破りであったために読者の評判は悪く連載中断となってしまい、5月で未完となった。6月には虚無の極北、絶対の[[孤独]]を凝視した﹁[[桜の森の満開の下]]﹂を﹃肉体﹄、自伝小説﹁暗い青春﹂を﹃潮流﹄、評論﹁[[教祖の文学]]﹂を﹃新潮﹄、ファルス的な連作﹁金銭無情﹂﹁失恋難﹂﹁夜の王様﹂﹁王様失脚﹂︵のちに長編﹃金銭無情﹄︶を﹃別冊文藝春秋﹄他各誌に発表するなど旺盛な活動を見せた。作品の反響は大きく執筆のペースは大幅に増え、次々と作品を発表し、[[ヒロポン]]を服用しながら4日間一睡もしないこともあった。安吾には強気の反面、神経の弱い面が多分にあったという<ref name="eguchi"/>。 9月からは[[推理小説]]﹁[[不連続殺人事件]]﹂を雑誌﹃[[日本小説]]﹄に連載し始める︵挿絵は[[高野三三男]]︶。作中に登場する巨勢博士は短編﹁選挙殺人事件﹂︵1953年︶、﹁正午の殺人﹂︵1953年︶でも活躍させている。安吾は少年時代から推理小説、探偵小説を愛好し、[[推理作家]]としては[[アガサ・クリスティ]]を最高の作家として挙げ、[[横溝正史]]も好んでいる<ref name="tantei">﹁私の探偵小説﹂︵﹃[[宝石 (雑誌)|宝石]] === ヒロポン・アドルム中毒 ===
1948年︵昭和23年︶1月に﹃[[二流の人 (小説)|二流の人]]﹄︵九州書房︶を刊行。﹁淪落の青春﹂︵未完︶を﹃ろまねすく﹄に発表。[[伊藤整]]や[[太宰治]]、[[林房雄]]らのいる﹃ろまねすく﹄は前年8月に同人となった{{refnest|group="注釈"|﹃ろまねすく﹄の同人は、坂口安吾、[[辰野隆]]、[[伊藤整]]、[[太宰治]]、[[林房雄]]、[[田村泰次郎]]、[[清水昆]]、[[寒川光太郎]]らがいた<ref name="nenkawade"/>。}}。2月に﹃金銭無情﹄を[[文藝春秋新社]]から刊行する。この頃から[[ヒロポン]]に加え、[[シクロバルビタール|アドルム]]を服用するようになり、ちょうど太宰治の自殺した6月頃から、[[鬱病]]的精神状態に陥る。これを克服するために、短編やエッセイの仕事は断り、長編﹁にっぽん物語﹂︵のち﹃火﹄︶の連載執筆に没頭する。しかし不規則な生活の中でアドルム、ヒロポン、[[ゼドリン]]を大量に服用したため、病状は更に悪化し、[[幻聴]]、[[幻覚|幻視]]も生じるようになる。12月、執筆取材のために[[京都]]へ行くが発熱し旅館に病臥する状態だった。翌[[1949年]]︵昭和24年︶1月に戻った後にはアドルム中毒で狂乱状態、幻視、神経衰弱となり、夫人や友人達の手により2月23日に [[東京大学医学部附属病院]][[神経科]]に入院した<ref name="album"/>。3月に﹁にっぽん物語―スキヤキから一つの歴史がはじまる﹂を発表︵続きは5月-7月まで︶。 4月に薬品中毒症状と鬱病は治まり、﹁僕はもう治っている﹂を﹃[[読売新聞]]﹄に発表 === 巷談師の自覚と珍騒動 ===
[[1950年]]︵昭和25年︶1月には、ファルス的小説﹁[[肝臓先生]]﹂を﹃[[文學界]]﹄に発表。続いて戯作者精神を発揮した社会時評﹁[[安吾巷談]]﹂を﹃[[文藝春秋 (雑誌)|月刊 文藝春秋]]﹄で発表し、文藝春秋読者賞を受賞するが、この頃、再び睡眠薬を服用し、中毒症状の発作を起こした。5月から﹁街はふるさと﹂を﹃[[読売新聞]]﹄に連載し、執筆のため [[ファイル:Observing writers at the 1st Chatterley trial.jpg|thumb|230px|[[チャタレー事件|チャタレー裁判]]を傍聴する坂口安吾(最前列右から2人目)、1952年1月18日]]
安吾は流行作家としての収入があっても全て使い切ってしまい、5月に[[税金]]滞納により家財や蔵書、原稿料も差し押さえとなる。[[国税庁]]に腹を立てた安吾は6月に、﹁差押エラレ日記﹂、﹁[[負ケラレマセン勝ツマデハ]]﹂を﹃[[中央公論]]﹄に書き、税金不払い闘争を行なった。夏から[[岐阜県]]北部の[[飛騨 この競輪告訴事件の泥沼化により疲れ果て、アドルムを多量に服用し伊東市から離れて、[[被害妄想]]から[[大井広介]]邸など転々と居場所を変えることになり、妻・三千代の実家や[[石神井]]の[[檀一雄]]宅に居候する。檀一雄の家に身を寄せていた頃、安吾は﹁[[カレーライス|ライスカレー]]を百人前頼んでこい﹂と妻に言いつけ、三千代夫人は仕方なく、近所の食堂や[[蕎麦屋]]︵﹁ほかり食堂﹂と﹁辰巳軒﹂︶に頼み、庭に次々と出前が積み上げられていくという﹁ライスカレー百人前事件﹂を引き起こす<ref name="kurakura"/><ref name="inui">[[戌井昭人]]﹁安吾は、どうしてライスカレーを百人前頼んだのか﹂︵﹃KAWADE夢ムック文藝別冊 坂口安吾―風と光と戦争と﹄ === 歴史探訪と途絶 ===
[[1953年]]︵昭和28年︶1月、﹁屋根裏の犯人﹂を﹃[[キング (雑誌)|キング]]﹄に発表。4月ころから[[鬱病]]が再発し、アドルム、[[ブロバリン]]の大量服用で錯乱状態となったことで、南川潤とも絶縁する。8月に、文藝春秋新社の企画で、安吾が[[上杉謙信]]で、[[檀一雄]]が[[武田信玄]]という想定で[[川中島の戦い|川中島決戦]]を再現するため[[長野県|信州]]に旅行するが、ここで暴れて[[松本市]]の[[留置場]]に入れられ、釈放された8月6日の朝、長男︵[[坂口綱男|綱男]]︶の誕生を知る。薬物の発作が治まると、子供の親だという自覚が芽生え、生活が変化する。[[1954年]]︵昭和29年︶1月、子供が出来たために、 同年8月、歴史小説﹁真書[[太閤記]]﹂を﹃知性﹄に連載開始。﹁信長﹂と対をなし、[[豊臣秀吉]]︵[[太閤]]︶を描いた作品である︵未完︶。10月に[[法要]]のため、初めて妻と息子を連れて新潟に帰省し、幼少時代の地を歩く。11月に行きつけの [[1955年]]︵昭和30年︶1月、歴史小説﹁狂人遺書﹂︵﹁真書太閤記﹂の後継をなす作品︶を﹃中央公論﹄、2月に推理小説﹁能面の秘密﹂を﹃小説新潮﹄に発表。﹁安吾日本風土記――高千穂に冬雨ふれり﹂を﹃中央公論﹄に発表して連載開始し、[[富山県 葬儀は2月21日に[[青山斎場]]で行われ、[[尾崎士郎]]、[[川端康成]]や[[佐藤春夫]]、[[青野季吉]]らが弔辞を読む。川端康成は、﹁'''すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない'''﹂とその死を悼んだ<ref name="album"/>。安吾は生前、葬式は退屈で不要だから﹁バカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。﹂﹁告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。﹂と語っており<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42838_27737.html 坂口安吾 私の葬式]︵[[青空文庫]]︶</ref>、墓は故郷の 小説としての[[絶筆]]は﹁狂人遺書﹂となった。没後にエッセイとして3月に﹁諦めている子供たち﹂が﹃[[暮しの手帖]]﹄、﹁砂をかむ﹂が﹃風報﹄、4月に﹁育児﹂が﹃[[婦人公論]]﹄、﹁青い絨毯﹂が﹃中央公論﹄、﹁世に出るまで﹂が﹃小説新潮﹄に掲載される。﹁狂人遺書﹂について安吾は生前、︿誰にもわかってもらえなかった秀吉の哀しさと、バカバカしいほどの野心とを書くんだよ﹀と言い、53歳の高齢となって初の子供︵[[豊臣鶴松|鶴松]]︶ができた晩年の === 死後 ===
[[1957年]](昭和32年)、新潟市寄居浜の[[新潟縣護國神社|護国神社]][[境内]]に「'''ふるさとは語ることなし'''」の詩碑が建立された<ref name="album"/>。また毎年2月17日は「'''安吾忌'''」が催されている。
未完成であった推理小説﹁樹のごときもの歩く﹂が、1957年︵昭和32年︶8月から11月まで4回﹃[[宝石 (雑誌)|宝石]]﹄で連載された<ref name="sougen">[[中島河太郎]]﹁坂口安吾年譜﹂︵﹃日本探偵小説全集10坂口安吾集﹄ == 評価 ==
[[柄谷行人]]は解説﹁坂口安吾とフロイト﹂において、安吾が自らの[[鬱病]]の原因を﹁自我の理想的な構成、その激烈な祈念に対する現実の[[アンバランス|アムバランス]]﹂︵﹁精神病覚え書﹂︶と自己分析していたことに触れた上で、その﹁自我の理想的な構成、その激烈な祈念﹂という反復強迫に、[[フロイト]]の言う﹁[[死の欲動]]﹂があると分析している<ref name=”karatani”>[[柄谷行人]]﹁坂口安吾とフロイト﹂︵{{Harvnb|新潮文庫|2000|pp=283-302}}︶</ref>。また同時に柄谷は、日本の そして柄谷は、安吾が文壇に注目された時期に掲げていた[[ファルス]]︵全的に人間存在を肯定<ref>﹁FARCE に就て﹂︵青い馬 第5号、1932年3月︶</ref>︶ではない、いわゆる近代小説的な、意識による抑圧の理論の﹁まともな長編小説﹂を書こうとして鬱病を再発させ、その長編﹁吹雪物語﹂の完成後、鬱病を回復させた時期に執筆した﹁イノチガケ﹂という作品︵[[キリスト教]]がいかに日本に到来し広がったかを政治的背景の中で示した作品︶に着目し、その中の、幕府が考案した穴つるしの刑によって[[殉教]]が繰り返される光景の﹁無味乾燥な書き方﹂や、その﹁滑稽な﹂処刑により[[切支丹]]の死の尊厳を封じることができたと書いている随筆﹁文学と国民生活﹂を関連させつつ、その滑稽さが﹁死の欲動﹂を抑制したと解析している<ref name=”karatani”/>。そのため、その﹁イノチガケ﹂︵ある意味でファルスの反復︶以後の安吾は、初期にファルスを唱えながらもなお抱いていた﹁近代小説の形態へのこだわり﹂を捨て去り、多彩なジャンル︵﹁[[日本文化私観]]﹂のようなエッセイや﹁織田信長﹂などの歴史小説︶に及ぶ重要な執筆活動を広げ、その活動を通して安吾の中で﹁近代小説を優位におくハイアラーキー︵[[位階]]︶﹂が消失したとして、柄谷は以下のように安吾の作品総体を評価している<ref name=”karatani”/>。 158 ⟶ 160行目:
{{Quotation|︵安吾は︶いつでも人生いかに生くべきかを真剣に考え、求道の念が強すぎて時にくずおれそうになる弱い心も隠さずさらけ出す。文章のはしばしに滲む悲しみは、青春の純粋な魂を失わずにいる人にだけ沁みとおっていく清水のようなものかもしれない。|七北数人﹁解説――風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇﹂<ref name="nana"/>}} [[柄谷行人]]は﹃[[週刊読書人]]﹄3211号に掲載された自らの著作である坂口安吾論の刊行インタビューの中で、[[無頼派]]について﹁﹁無頼﹂という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、﹁頼るべきところのないこと﹂︵﹃[[広辞苑]]﹄︶です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆる[[ヤクザ]]は無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに﹁無頼﹂だった。太宰はそうではない。﹁無頼﹂であれば、そもそも[[共産党]]に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを﹁無頼﹂とはいいません。言語の本来の意味では、﹁無頼派﹂は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。﹂と評している。 また、坂口安吾の作家生活は約24年間︵1931年-1955年︶であるが、戦後10年間の後半生︵[[文壇]]的成功、恋愛、酒と遊び、狂気、長編小説の失敗、社会的事件、死︶と、戦前14年間の前半生の経過が非常に似ていることが指摘されている<ref name="ogawa">[[小川徹 (映画評論家)|小川徹]]﹁坂口安吾﹂︵文藝 1967年7月号に掲載︶</ref>。[[小川徹 (映画評論家)|小川徹]]は、安吾が自身の前半生を戦後の後半生に対応させて、同じ人間が生まれ変わり、﹁解放された人間﹂として同じ経過のコースをもう一度生きてみようとしたのではないかと考察している<ref name="ogawa"/>。 168 ⟶ 170行目:
作家の[[佐藤春夫]]は﹁文学の本筋をゆく﹂の中で、﹁坂口安吾の文学はいささか奇矯で反俗的なところはあつても、文学としては少しも病的なものではなく、高邁な精神をひそめたすぐれたものと思ふ。その点、太宰治のどこまでも頽廃的でいぶしのかかつたセンチメンタルなものよりわたくしは坂口の文学の方が文学の本筋だと思つてゐる﹂とした上で以下のように評している<ref name="satoh">[[佐藤春夫]]﹁文学の本筋をゆく――坂口安吾選集﹂︵ {{Quotation|坂口は世俗的などんな先入観念にも煩はされるところなくぢかに人間を見た。そのため人間の心理は彼は可なり深く知るところである。それ故、彼の文学は、創作とばかりは限らず、雑感随筆のたぐいまで、その囚はれないものの見方、濶達な人がらがよく出てゐて、おもしろい。太宰のものが現代青年のものであるのに対比して坂口の文学は将来のおとなの文学だとも思へる。<br />わたくしは素直に人智の進歩発達を信じて年来、文学の常識も年々に健全な発達を遂げてゐると見てゐるものであるが、一般の読者が太宰の文学に堪能してこれを卒業したころになつて、坂口文学の真価がもう一度見直され、やがて正常に理解され愛読されるものとなるのを疑はない。|佐藤春夫﹁文学の本筋をゆく――坂口安吾選集﹂<ref name="satoh"/>}} 終戦直後の成功によって[[無頼派]]︵新戯作派︶と呼ばれた坂口安吾だが、その戦前からの[[笑劇|ファルス]]的作品や、 この﹁ガランドウ﹂という言葉は、小田原に安吾を招き共に生活をしたこともある[[三好達治]]が安吾を評して、﹁かれは堂々たる建築だけれども、中へはいってみると、畳が敷かれていない感じだ﹂と言った評を受け、安吾自身が笑ってしまい、自分のことを、﹁まったくお寺の本堂のような大きなガランドウに、一枚の[[ござ|ウスベリ]]も見当たらない。大切な一時間一時間を、ただなんとなく迎へ入れて送りだしてゐる。実の乏しい毎日であり、一生である。土足のままスッとはいりこまれて、そのままズッと出ていかれても、文句のいいやうもない。どこにもくぎりのないのだ。ここにて[[下駄]]をぬぐべしといふやうな制札が、まつたくどこにもないのである﹂と述べたことから来ている<ref>[[三好達治]]﹁若き日の安吾君﹂︵﹃路傍の秋﹄筑摩書房、1958年︶</ref><ref name="saegusa"/>。 [[三島由紀夫]]も安吾を﹁敬愛する作家﹂として以下の言葉を選集に寄せている<ref name="mishima2">三島由紀夫﹁私の敬愛する作家﹂︵﹃坂口安吾選集﹄内容見本 {{Quotation|私は坂口安吾氏に、たうたう一度もお目にかかる機会を得なかつたが、その仕事にはいつも敬愛の念を寄せてゐた。戦後の一時期に在つて、混乱を以て混乱を表現するといふ方法を、氏は作品の上にも、生き方の上にも貫ぬいた。氏はニセモノの静安に断じて欺かれなかつた。言葉の真の意味においてイローニッシュな作家だつた。氏が時代との間に結んだ関係は冷徹なものであつて、ジャーナリズムにおける氏の一時期の狂熱的人気などに目をおほはれて、この点を見のがしてはならない。|三島由紀夫﹁私の敬愛する作家﹂<ref name="mishima2"/>}} 183 ⟶ 185行目:
== 趣味嗜好 ==
=== 囲碁・将棋好き ===
坂口安吾は[[推理小説]]以外に、[[将棋]]や[[囲碁]]も好んでおり、特に囲碁は強く、1937年︵昭和12年︶の京都府滞在時には[[碁会所]]席主として生活していたほどであったが、その後に[[塩入逸造]]三段に五子で勝ったこともある<ref>坂口安吾﹁私の碁﹂︵﹃囲碁春秋﹄1948年12月号に掲載︶</ref>。 囲碁の[[呉清源]]の[[岩本薫]]との十番碁の第一局、将棋の[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]が[[塚田正夫]]に名人を奪われた第6期名人戦の最終局︵第七局︶、木村と[[升田幸三]]との三番勝負の第一局、木村が塚田から名人を奪回した第8期名人戦の最終局︵第五局︶、それぞれの[[観戦記者|観戦記]]を執筆していて、評価が高い。﹁勝負の鬼﹂として十年間不敗だった木村義雄が、1947年︵昭和22年︶の第6期[[名人戦]]で、勝負師根性を捨てたため塚田正夫にて敗北した時の、木村を厳しく批判した﹃散る日本﹄は名作として名高く、1950年に第一期[[九段戦]]に勝利した[[大山康晴]]を主人公にした小説﹃九段﹄もある。 また、[[王将戦]]で升田幸三が木村義雄との香落ち番の対局を拒否した[[陣屋事件]]についても、事の詳細を記した随筆﹃升田幸三の陣屋事件について﹄が安吾の死後に見つかった<ref group="注釈">初出は﹃坂口安吾全集15﹄︵筑摩書房 1999年︶ ISBN 4-480-71045-0</ref><ref>[[青空文庫]]でも参照が可能である。http://shogikifu.web.fc2.com/essay/essay021.html</ref>。この中で安吾は、升田の処分を決める棋士総会を傍聴したと記している。この随筆は、関係者の間で証言が食い違うことの多かった陣屋事件における、貴重な考証資料の === 食生活 ===
== 主要作品 ==
=== 推理小説 ===
==== 巨勢博士 ====
* [[不連続殺人事件]]
*復員殺人事件
*選挙殺人事件
*正午の殺人
==== 結城新十郎 ====
* [[明治開化 安吾捕物帖]](上下)
==== ノンシリーズ ====
*投手殺人事件
*孤立殺人事件
*屋根裏の犯人
*南京虫殺人事件
*山の神殺人
*影のない犯人
*心霊殺人事件
*能面の秘密
==== 海外翻案 ====
*組立殺人事件
=== 歴史小説 ===
216 ⟶ 219行目:
*島原の乱雑記
*道鏡
*[[徳川家康|家康]]
* [[二流の人 (小説)|二流の人]]
*織田信長(未完)
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*『現代忍術伝』大日本雄弁会講談社1950年9月
**「現代忍術伝」「投手殺人事件」併録
*『[[天明太郎]]』([[林房雄]]らと合作。[[日本放送協会]]編)[[宝文館]] 1950年10月
*『安吾巷談』文藝春秋新社 1950年12月
**※ [[文藝春秋読者賞]]を受賞。
464 ⟶ 467行目:
*『二流の人』大日本雄弁会講談社 1955年8月
*『安吾捕物帖』(全4巻)春歩堂 1955年9月-12月
*『残酷な遊戯・花妖』[[春陽堂書店]] 2021年2月 - 2020年11月に古書店で発見された未発表原稿の作品(「花妖」と類似)を収録。
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480 ⟶ 483行目:
*『坂口安吾全集』(全18巻)[[筑摩書房]]〈[[ちくま文庫]]〉1989年-1991年
*『坂口安吾全集』(全17巻+別巻)筑摩書房 1998年-2000年、※別巻2012年12月
*『坂口安吾歴史小説コレクション』(全3巻)
**解説:[[七北数人]]
*『坂口安吾エンタメコレクション』(全3巻)春陽堂書店 2019年
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*現代新書『堕落論』1955年4月
*河出新書『真書太閤記』1955年4月 古くて絶版 -->
* [[角川文庫]]『堕落論』
**『道鏡・狂人遺書』『暗い青春・魔の退屈』『ふるさとに寄する讃歌』『外套と青空』『ジロリの女』『夜長姫と耳男』『散る日本』『安吾巷談』『安吾史譚』『安吾新日本地理』『白痴・二流の人』『能面の秘密』『復員殺人事件』『私の探偵小説』
<!-- * [[旺文社文庫]]『信長』1974年
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* [[創元推理文庫]]『日本探偵小説全集10 坂口安吾集』1985年
* [[河出文庫]]『安吾史譚』1989年
**『心霊殺人事件 安吾全推理短篇』
**『安吾新日本地理』
* [[講談社文芸文庫]]『桜の森の満開の下』1989年、ほか9冊
<!-- * [[集英社文庫]]『堕落論』1990年
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*バラエティ・アートワークス企画・画『堕落論・白痴 [[まんがで読破]]』[[イースト・プレス]]、2007年
* [[萩原玲二]]画『桜の森の満開の下』[[ホーム社]]([[一ツ橋グループ|集英社]]漫画文庫)、2010年
* [[近藤ようこ]]画『夜長姫と耳男』
== 家族・親族 ==
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:[[安政]]6年1月2日生(1859年2月4日) – 1923年([[大正]]12年)11月2日没
::坂口得七の長男。[[聖籠村]]諏訪山の[[大野耻堂]]の[[漢学]]塾・絆己楼に学び、数え年の15歳の時に、玉井ハマ︵[[万延]]元年3月12日生︶と結婚。東京に上京したが新潟に戻り、新潟米商会所︵新潟米穀株式会社取引所︶で働く。ハマとの間に三女を儲ける。 ::[[憲政本党]]所属の[[衆議院議員]]として県会議長を務める。新潟米穀株式会社取引所理事長。[[新潟新聞]]社︵現・[[新潟日報社]]︶社長を歴任。[[森春濤]]社中の[[漢詩人]]としての号は、﹁阪口五峰﹂﹁七松山人﹂。細胞[[肉腫]]、後[[腹膜]][[腫瘍]]により64歳で死去。 ;母・アサ
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:1895年(明治28年)8月3日生 – 1966年(昭和41年)8月13日没
::坂口仁一郎とアサの長男。13人姉弟の6番目。上に姉5人︵養女・キヌを含め︶がいる。安吾とは10歳離れている。絵が得意で、安吾の勉強部屋や父親の肖像画を描いている<ref name="album"/>。 ::[[早稲田大学政治経済学部]]在学中の1915年︵大正4年︶に[[結核]]となり、5年間ほど[[神奈川県]][[茅ヶ崎]]の[[南湖院]]や、 ::1922年(大正11年)6月19日に、五泉町の吉田徳([[従姉妹]])と結婚。徳(1901年12月17日‐1983年1月30日)は、母・アサの[[姪]](妹・マサの娘)。
::1924年︵大正13年︶に早稲田大学を卒業後、[[北越銀行|長岡銀行]]東京支店に入行。翌年、横浜[[鶴見区|鶴見]]の日英醸造株式会社に転職。新潟日報社、ラジオ新潟︵現・[[新潟放送]]︶社長。父・仁一郎の追悼録漢詩集﹃五峰遺稿﹄と﹃五峰余影﹄をそれぞれ、1925年︵大正14年︶10月、1929年︵昭和4年︶11月に編集刊行している。 ;五姉・セキ
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:1889年(明治21年) - 1930年(昭和5年)没
::坂口仁一郎とハマ︵先妻︶の三女。13人姉弟の3番目。献吉と安吾にとり、腹違いの姉にあたる。安吾より18歳上。1908年︵明治41年︶12月に[[岩船郡]][[山辺里村]]︵現・村上市山辺里︶の小田喜一郎に嫁ぐ。娘・綾子を儲ける。黒色肉腫のため40歳で死去。娘・綾子は、1930年︵昭和5年︶に[[女子美術大学|女子美術専門学校]]に入学し、毎週土日に[[荏原郡]]の坂口家に遊びに寄る。 ::安吾は兄妹の中で、この異母姉・ヌイが
;四姉・キヌ(養女)
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* [[1928年]]︵[[昭和]]3年︶ - 22歳。[[アテネ・フランセ]]初等科入学。[[フランス語]]を学び、[[モリエール]]、[[ヴォルテール]]、[[カロン・ド・ボーマルシェ|ボーマルシェ]]などを愛読した。小説家への夢を本格的に固める。 * [[1930年]]︵昭和5年︶- 24歳。東洋大学卒業。卒業生は16人だった。アテネ・フランセの中等科から高等科に進む。荏原郡[[大井町 (東京府)|大井町]]字元芝︵現・[[品川区]][[東大井]]︶の借家から同郡[[矢口町]]字安方127番地︵現・[[大田区]][[東矢口]]︶に新築した家に、兄・献吉夫婦と母・アサと転居。アテネ・フランセの友人たちと同人雑誌﹃言葉﹄創刊。 * [[1931年]]︵昭和6年︶- 25歳。﹃言葉﹄2号に処女作﹁木枯の酒倉から﹂発表。後継誌﹃青い馬﹄に﹁ふるさとに寄する讃歌﹂ * [[1932年]]︵昭和7年︶- 26歳。酒場﹁ウヰンザア﹂で[[矢田津世子]]と知り合い、交際が始まる。この酒場では、[[中原中也]]とも知り合っている。ウヰンザアの女給・坂本睦子と肉体関係を持つ。 * [[1933年]](昭和8年)- 27歳。[[田村泰次郎]]、矢田津世子らと同人誌『櫻』を創刊。
* [[1934年]]︵昭和9年︶- 28歳。酒場ボヘミアンのマダム・お安と同棲し、[[大森区]]堤方町︵現・大田区中央︶の十二天アパートに移る。8月に[[越前国|越前]]、[[北陸]]地方を放浪。 768 ⟶ 771行目:
* [[七北数人]]『評伝坂口安吾 魂の事件簿』集英社 2002年
*『坂口安吾論集』(全3巻)[[ゆまに書房]] 2002年、2004年、2007年
* [[出口裕弘]]『坂口安吾-百歳の異端児』
* [[相馬正一]]『坂口安吾-戦後を駆け抜けた男』[[人文書館]] 2006年
*『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集 太宰治・坂口安吾』[[青土社]] 2008年8月号
785 ⟶ 788行目:
* [[野崎六助]]﹃安吾探偵控﹄(2003年、[[東京創元社]]、創元クライム・クラブ) - 昭和12年、Y女との破局の痛手を抱えて、京都の食堂の二階に下宿しながら執筆活動を続ける安吾を探偵役にした[[ミステリー]]。続編に、﹃イノチガケ 安吾探偵控﹄︵2005年︶、﹃オモチャ箱 安吾探偵控﹄︵2007年︶がある(共に、東京創元社、創元クライム・クラブ)。 * [[山田正紀]]『弥勒戦争』[[早川書房]] 1976年 - 焼跡の酒場で自身の経験による恋愛論などを語る安吾が登場する。
* [[手塚治虫]]『[[鉄腕アトム]]』 - 「風船爆弾」という話に、坂口安吾をもじった大福安古なる人物が登場する。
== 脚注 ==
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