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{{記事名の制約|title=大
{{基礎情報 朝鮮半島の君主
|名=大諲譔▼
|代数=第15
|呼称=王
▲|大諲譔
|画像=
|説明=
|王朝=渤海
|在位期間=[[907年]] - [[926年]]▼
|大諲譔▼
|都城=
|生年不詳 - 没年不詳▼
▲|諱=大諲譔
▲|[[907年]] - [[926年]]
|字=
|諡号=
|廟号=
|没年=不詳
|父=[[大瑋カイ|大瑋瑎]]
|母=
|王后=
|陵墓=
|年号=
|注釈=
}}
'''大{{lang|zh|諲譔}}'''(だいいんせん、生没年未詳)は、[[渤海 (国)|渤海]]の第15代王(在位: [[907年]]? - [[926年]])。渤海国最後の王。▼
文献の記録は乏しいが、[[朱温]]が[[後梁]]を建国した後の[[907年]]に王子の大昭順を遣わして入朝し、在位中に合計6回の使節派遣をしたことが記録に残っている。▼
== 生涯 ==
渤海西部では[[契丹]]の勢力が拡大し、渤海は西部の扶余府に軍隊を駐留させるなどの対応におわれた。しかし軍事力で対抗できないことを理解した渤海は[[918年]]に中国に進貢したが、それでも契丹の進出に対抗することができなかった。契丹に対抗すべく周辺諸国の支援を求めたが、中国は当時[[五代十国]]の時代で渤海を支援する余力はなく、やむを得ず[[新羅]]や新興の[[高麗]]、[[日本]]などと協力する方針を打ち出した。しかし新羅が契丹に通じたことで渤海は窮地に立たされ、[[926年]]、遂に[[上京龍泉府]]が陥落し、大{{lang|zh|諲譔}}が投降した事で渤海は滅亡した。▼
▲文献の記録は乏しいが、[[朱 ▲渤海西部では[[遼|契丹]]の勢力が拡大し、渤海は西部の扶余府に軍隊を駐留させるなどの対応に {{先代次代|[[渤海 (国)#渤海王の一覧|渤海の国王]]|15代: 907年? - 926年|[[大イカイ|大瑋瑎]]|[[東丹国]]}}▼
契丹の皇帝[[耶律阿保機]]は長男の[[耶律突欲|突欲]]を王に封じて[[東丹国]]を作り、渤海の故地を支配させた。降伏した大諲譔は契丹の都[[バイリン左旗|上京臨潢府]]に連行されて[[幽閉]]された。
『[[遼史]]』巻二太祖紀下、天顕元年に「秋七月丙辰、鐵州刺史衛鈞反す。乙丑、堯骨攻めて鐵州を抜く。庚午、東丹国左大相迭剌卒す。辛未、衛 大諲譔を皇都の西に送り、城を築きて以て之を居らしむ。諲譔に名を賜い烏魯古と曰い、妻を曰阿里只と曰う。」とあり、[[契丹]]から大諲譔は「'''烏魯古'''」の名を、妻は「阿里只」の名を賜っている<ref name="愛新覚羅烏拉熙春4-5"/>。「烏魯古」「阿里只」の名はもともと[[耶律阿保機|遼太祖]]と[[述律皇后]]が騎乗していた二匹の[[ウマ|馬]]の名で、本義は必ずや悪いものではないが、降伏した国王と王后に賜ったのだから、美意ではない<ref name="愛新覚羅烏拉熙春4-5"/>。
== 子孫 ==
[[1991年]]に[[遼寧省]][[北鎮市]]で﹃大契丹国故廣陵郡王墓誌銘﹄︵﹃耶律宗教墓誌﹄︶が出土した。墓主は[[字]]が朝隠、名は驢糞または旅墳、[[漢姓|漢名]]は{{仮リンク|耶律宗教|zh|耶律宗教|label=宗教}}、[[景宗 (遼)|遼景宗]]の[[仲子]]である{{仮リンク|耶律隆慶|zh|耶律隆庆}}庶出の[[続柄|長子]]である<ref name="愛新覚羅烏拉熙春4-5"/>。﹃大契丹国故廣陵郡王墓誌銘﹄には、以下の記事がある。 {{quotation|{{lang|zh-Hant|漢文墓誌 : 母曰蕭氏、故渤海聖王孫女、遅女娘子也。}}<br />
<br />契丹小字墓誌 : məgə mirgi ʧinio au'ui dan gur-n ju qan urgu-n uran pon.<br />
<br />意訳 : 母 迷里吉 遅女 娘子 丹 国の 聖 汗 烏魯古の 後裔。|大契丹国故廣陵郡王墓誌銘}}
﹁məgə﹂=﹁母﹂、﹁mirgi﹂=﹁迷里吉﹂︵迷里吉は契丹の[[姓氏]]︶、﹁ʧinio﹂=﹁遅女﹂︵遅女は{{仮リンク|耶律宗教|zh|耶律宗教}}の母蕭氏の名︶、﹁dan ~ tan﹂=﹁丹﹂あるいは﹁檀﹂︵[[中国語|漢語]]の﹁丹﹂あるいは﹁檀﹂に対訳しうる︶、﹁gur-n﹂=﹁国﹂︵﹁-n﹂は所有格接尾辞を附す︶、﹁au'ui﹂=﹁娘子﹂、﹁ju﹂=﹁尊﹂︵ここでは﹁聖﹂に対訳する︶、﹁qan﹂=﹁汗﹂︵[[遼|遼帝]]、[[宋 (王朝)|宋帝]]いずれもこの称を用いる︶、﹁urgu-n﹂=﹁烏魯古﹂︵﹁-n﹂は所有格接尾辞を附す。聖汗の名である︶、﹁uran pon﹂=﹁後裔﹂<ref name="愛新覚羅烏拉熙春4-5"/>。﹁urgu﹂は契丹の男子が使用する名であり、﹁烏魯古﹂あるいは﹁烏魯姑﹂と[[音訳]]し、契丹文墓誌にしばしばこの名がみえる。漢文墓誌の﹁聖王﹂は、[[渤海王の一覧|渤海国王]]の専称であり、漢文墓誌の﹁故渤海聖王﹂と契丹小字墓誌の﹁dan gur-n ju qan︵丹国の聖汗︶﹂は大諲譔を指す︵dan gur-n ju qan︵丹国の聖汗︶﹁烏魯古﹂=渤海聖王﹁大諲譔﹂︶。このことから、{{仮リンク|耶律宗教|zh|耶律宗教}}の母である遅女娘子は大諲譔の[[外孫]]であることがわかる<ref name="愛新覚羅烏拉熙春4-5">{{Cite news|author=[[愛新覚羅烏拉熙春|吉本智慧子]]|date=2008-12|title=Original meaning of Dan gur in Khitai scripts: with a discussion of state name of the Dong Dan Guo|publisher=[[立命館大学人文学会]]|newspaper=立命館文學 (609)|url=http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161019143454/http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf|format=PDF|archivedate=2016-10-19|page=4-5}}</ref>。 == 脚注 ==
{{Reflist}}
{{渤海王}}
{{DEFAULTSORT:たい いんせん}}
[[Category:渤海王|いんせん]]
[[Category:靺鞨人]]
[[
[[Category:廃位された君主]]
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