大乗寺八郎
日本の俳優
大乘寺 八郎︵大乗寺-、だいじょうじ はちろう、1909年7月 - 1957年2月23日[1][2]︶は、日本の俳優である。本名は丹羽 竹松︵にわ たけまつ︶、初期芸名は千葉 三郎︵ちば さぶろう︶であった[1][2]。
だいじょうじ はちろう 大乗寺 八郎 | |
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本名 | 丹羽 竹松 にわ たけまつ |
別名義 | 千葉 三郎 ちば さぶろう |
生年月日 | 1909年7月 |
没年月日 | 1957年2月23日 |
出生地 |
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死没地 |
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職業 | 俳優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1927年 - 1956年 |
活動内容 |
1927年 マキノ・プロダクション入社 1928年 中根龍太郎喜劇プロダクション参加 1928年 松竹下加茂撮影所入社 1936年 大都映画入社 1955年 宝塚映画に出演 |
主な作品 | |
『浪人街の顔役』 『旅情一夜噺』 『宮本武蔵』 『祝言前夜』 |
人物・来歴
1909年︵明治42年︶7月、京都府愛宕郡大宮村︵現在の同府京都市北区︶に﹁丹羽竹松﹂として生まれる[1][2]。
待鳳尋常高等小学校︵現在の京都市立待鳳小学校︶を卒業後[1]、18歳になる1927年︵昭和2年︶、マキノ・プロダクションに入社、芸名を﹁千葉三郎﹂とする[1]。大部屋俳優を経て、翌1928年︵昭和3年︶6月に設立された中根龍太郎喜劇プロダクション︵中根コメディプロダクションとも︶の設立に参加[1][2]、同社が製作した中根龍太郎監督の﹃助太刀商売﹄、山崎藤江監督の﹃おんぼろ草紙﹄に出演した[3]。同年中に同社は解散し、松竹キネマ下加茂撮影所に移籍した[1][2]。移籍第1作は、林長二郎︵のちの長谷川一夫︶主演、小石栄一監督の﹃人形武士﹄であった[3]。1929年︵昭和4年︶、伊藤大輔監督が松竹キネマに招かれて監督した﹃斬人斬馬剣﹄にも若者役で顔を出している[3]。1931年︵昭和6年︶に大瀬の半五郎役で出演した﹃清水の小政﹄で注目された[2]。1934年︵昭和9年︶、林長二郎主演、大曾根辰夫監督の﹃源三郎異変﹄では主役の兄に抜擢されている[2]。
1936年︵昭和11年︶、近衛十四郎が徴兵されたため[2]、主役級の俳優を必要とした東京・巣鴨の大都映画に招かれて入社する[1][2]。移籍を機に﹁大乘寺八郎﹂と芸名を改め[1][2]、入社第1作は、同年、白井戦太郎監督の﹃浪人街の顔役﹄で、初の主役であった[3]。同年、白井監督の﹃旅情一夜噺﹄にも主演している[1][3]。
1938年︵昭和13年︶、大伴龍三監督の﹃宮本武蔵﹄に出演、松山宗三郎︵のちの小崎政房︶の武蔵に対する小次郎役を演じた[2]。1942年︵昭和17年︶の後藤昌信監督による主演作﹃祝言前夜﹄まで、大都映画に在籍したわずか5年半に、110作に出演した[3]。美男の剣戟俳優として人気を博した[1]。
第二次世界大戦後は、1955年︵昭和30年︶、宝塚映画で、二川文太郎・並木鏡太郎共同監督による﹃復讐浄瑠璃坂﹄二部作、1956年︵昭和31年︶、安田公義監督の﹃白井権八﹄に大岡紋斎役で出演している[3]。﹃白井権八﹄が公開されたちょうど1年後の1957年︵昭和32年︶2月23日、死去した[1][2]。満47歳没。
おもなフィルモグラフィ
- 『人形武士』 : 監督小石栄一、1928年
- 『あづま男』 : 監督星哲六、1929年
- 『盆槍権兵衛』 : 監督中根龍太郎、1929年
- 『斬人斬馬剣』 : 監督伊藤大輔、1929年 - 若者
- 『荒木又右衛門』 : 監督悪麗之助、1930年 - 喧嘩屋五郎兵衛
- 『清水の小政』 : 監督星哲六、1931年
- 『忠弥行状記』 : 監督井上金太郎、1931年 - 牧野兵庫
- 『鼠小僧次郎吉』 : 監督衣笠貞之助、1932年
- 『猛襲高田の馬場』 : 監督秋山耕作、1932年
- 『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』 : 監督衣笠貞之助、1932年 - 吉良の用心棒
- 『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』 : 監督衣笠貞之助、1932年 - 吉良の用心棒
- 『南蛮なでしこ』 : 監督井上金太郎、1933年 - 海援隊士
- 『源三郎異変 必殺剣鬼の巻』 : 監督大曾根辰夫、1934年 - 源太郎
- 『源三郎異変 絢爛恋慕の巻』 : 監督大曾根辰夫、1934年 - 源太郎
- 『蹴手繰り音頭』前篇・後篇 : 監督井上金太郎、1935年 - ども八
- 『復讐浄瑠璃坂 第一部 鬼伏峠の襲撃』 : 監督二川文太郎・並木鏡太郎、1955年
- 『復讐浄瑠璃坂 第二部 暁の血戦』 : 監督二川文太郎・並木鏡太郎、1955年
- 『白井権八』 : 監督安田公義、1956年