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'''大森 義太郎'''(おおもり よしたろう、[[明治]]31年([[1898年]])[[9月26日]] - [[昭和]]15年([[1940年]])[[7月28日]])は、[[日本]]の[[マルクス経済学]]者。筆名に成瀬光雄がある。
==経歴==
[[神奈川県]][[横浜市]] [[1928年]](昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職<ref>東大の大森義太郎助教授も辞表を提出『東京日日新聞』昭和3年4月18日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p192-193 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。
1933年に『唯物弁証法読本』を出版。▼
▲[[1933年]](昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。
1937年の[[人民戦線事件]]で検挙。1938年に病気のため保釈されたが、失意のうちに[[胃癌]]のため<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)6頁</ref>生涯を閉じた。▼
▲[[1937年]]︵昭和12年︶の[[人民戦線事件]]で検挙。[[1938年]]︵昭和13年︶に病気のため保釈されたが、失意のうちに[[胃癌]]のため<ref>[[服部敏良]]﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶6頁</ref>生涯を閉じた。墓所は[[青山霊園]]。 <!-- 大学助教授から講壇ジャーナリストへの転進については、竹内洋『大学という病』(中央公論新社)に詳しい。 -->
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
== 関連項目 ==
* [[河津暹]] - 東大辞職時の経済学部長。
* [[唯物史観]]
{{Normdaten}}
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[[Category:人民戦線事件の人物]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:旧制第一高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都立戸山高等学校出身の人物]]
[[Category:横浜市出身の人物]]
[[Category:胃癌で亡くなった人物]]
[[Category:1898年生]]
[[Category:1940年没]]
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