「大橋新太郎」の版間の差分
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|画像説明 = 大橋新太郎
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1863|
|生誕地 = [[新潟県]][[長岡市]]本町一丁目
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1863|
|死没地 = [[東京市]][[麹町区]]三番町(自邸)
|墓地 = [[護国寺]]([[東京都]][[文京区]])
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|出身校 = 長岡洋学校・新潟師範学校講習所・同人社
|職業 = 出版者、[[実業家]]
|著名な実績 = [[博文館]]・[[共同印刷]]・[[東京堂書店|東京堂]]創業
|配偶者 = 大橋須磨子
|子供 = 大橋進一(長男)ほか多数
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|補足 =
}}
'''大橋 新太郎'''︵おおはし しんたろう、[[ == 経歴 ==
* [[文久]]3年([[1863年]]) - [[越後国]][[古志郡]][[長岡城]]下(現[[新潟県]][[長岡市]]本町一丁目)で生まれる
* [[明治]]4年([[1871年]]) - 長岡小学校入学
* 明治5年([[1872年]]) - [[長岡洋学校]]入学
* [[1875年]] - [[新潟師範学校]](現在の[[新潟大学]])講習所入学
* [[1876年]] - 父佐平とともに上京し、[[中村正直]]が開いた[[同人社]]に入学し、少年寮に入る
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* [[1895年]] - 「[[文芸倶楽部]]」・「[[太陽]]」・「[[少年世界]]」の三大雑誌を創刊
* [[1896年]] - 初めて「博文館日記」を創刊
* [[1897年]] - 1884年から連れ添った妻のやま子
* [[1898年]] - [[東京瓦斯]]専務取締役となる
* [[1899年]] - 小石川区久堅町に博進社工場を新設(1925年に[[共同印刷]]となる)
* [[1901年]] - 父佐平没。遺志により、翌年[[麹町区]]上六番町
* [[1902年]] - [[衆議院議員]]に当選
* [[1903年]] - [[王子製紙]]の取締役に就任
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* [[1924年]] - 博文館印刷所でストライキ発生
* [[1926年]] - [[関東大震災]]で全焼した大橋図書館を九段下に新築移転。[[貴族院議員]]に勅選
* [[1927年]] - 朝鮮無煙炭会社・[[東京電燈]]会社・[[リケン|理化学興業]]会社の取締役に就任。「[[太陽]]」終刊
* [[1928年]] - 南朝鮮鉄道会社・[[日本航空輸送]]会社の取締役に就任
* [[1930年]] - 新太郎の半額出資によって、神奈川県立[[金沢文庫]]が[[称名寺]]境内に完成
* [[1933年]] - [[日本石油]]会社相談役・[[大日本麦酒]]の取締役会長に就任。「[[文芸倶楽部]]」・「[[少年世界]]」終刊
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* [[1936年]] - 日本硝子会社取締役会長に就任
* [[1941年]] - 正五位に叙せられる
* [[1944年]] - 5月5日午後11時15分、麹町区三番町22番地の本邸で死去。法名‥永楽院殿松雲道翁大居士。5月9日[[築地本願寺]]にて葬儀、小石川[[護国寺]]に埋葬。<ref>坪谷善四郎﹃大橋新太郎伝﹄ 博文館新社︵1985年、1937年成稿︶所収年譜による。</ref> == 人物 ==
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同第7回「“明治の出版王”大橋佐平と息子・新太郎」http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/07meijinosyuppanou_1.html</ref>
新太郎は、父の出版事業を継承するだけでなく、印刷 父佐平の遺志を継いで建設した私設[[大橋図書館]]は、誰でも簡単に利用できる図書館として東京市民に親しまれた。また金沢 大正時代以降、新太郎は財界活動に主力を置き、出版活動は子弟にほとんど委任したため、[[円本]]ブームにも乗りそこね、[[講談社]]や[[岩波書店]]などの志や目的を高く掲げた後続出版社に押されて、売り切り制の廉価大量販売によって一世を風靡した博文館のやり方は時代遅れとなり、出版界における地位は低落した。戦争中に新太郎が没し、後継体制が固まらないうちに敗戦となり、財閥解体令によって大橋コンツェルンも分割され、[[博文館]]は消滅した。戦後、需要の高かった﹁博文館日記﹂を主に刊行するために、[[共同印刷]]の一角で博文館新社が再建され、今日に名跡をつないでいる。 == 主な刊行雑誌 ==
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