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'''大橋 新太郎'''︵おおはし しんたろう、[[文久]]3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]︵[[1863年]][[9月11日]]︶ - [[1944年]]︵[[昭和]]19年︶[[5月5日]]︶は、[[明治|明治時代]]から[[昭和|昭和時代]]にかけての[[実業家]]・[[政治家]]。父の[[大橋佐平]]とともに[[博文館]]を創業し、明治・[[大正|大正時代]]の出版界の王者となり、印刷から販売まで手がける出版コンツェルンを構築した。また。[[衆議院議員]]・[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]にも選ばれたほか、[[日本工業倶楽部]]会長を務めた。 == 人物 ==
父の大橋佐平は越後長岡の開明的な商人で、出版・新聞などの情報産業にいち早く着目し、新潟県から東京に進出して近代出版業の先駆者となった。▼
[[博文館]]は、佐平と新太郎の父子が協力して創立した出版社で、日清戦争・日露戦争などの報道によって爆発的な利益を得るとともに、[[尾崎紅葉]]を盟主とする[[硯友社]]の文学運動に﹁[[文芸倶楽部]]﹂などの発表の場を提供することによって当時の文壇の首脳部を手中に収めた。<ref>新太郎の妻、須磨子︵1881年 - 1949年︶は、芝公園内の紅葉館で女中をしていたことがあり、[[尾崎紅葉]]の代表作﹃[[金色夜叉]]﹄のお宮のモデルとされる。お宮を蹴飛ばした貧書生の間貫一が[[巌谷小波]]で、ダイヤモンドでお宮の眼をくらませた富豪が新太郎であると言われている。これは新太郎をパトロンとして活動した硯友社同人の間での諧謔的な人物比定であろう。[[長谷川時雨]]の﹃近代美人伝﹄([[1936年]])は、一章を須磨子伝にあて、賢夫人としての実像を叙述している。</ref>また大衆が必要とする実用的な知識を集めた百科全書や、日本の古典文学作品に新たな注釈を施した活字本など、さまざまな分野にわたる膨大な刊行物を廉価で販売し、近代出版界でゆるぎない地位を築き上げた。<ref>植田康夫﹁日本の出版﹂第6回﹁博文館の隆盛と戦前最大の取次﹁東京堂﹂﹂http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/06hakubunkan_1.html。▼ 同第7回「“明治の出版王”大橋佐平と息子・新太郎」http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/07meijinosyuppanou_1.html</ref>▼
新太郎は、父の出版事業を継承するだけでなく、印刷︵[[共同印刷]]︶から取次・小売︵[[東京堂書店|東京堂]]︶にわたるコンッエルンを構築し、さらに各種の製造業・エネルギー事業・交通事業の新会社の設立に積極的に関与し、国会議員となって活動しながら財界の発展に尽くした。一方、共同印刷社内では、労働争議が頻発し、[[1926年]]には[[共同印刷争議]]として歴史に刻まれる大事件に発展し、新太郎はその対応に苦慮した。<ref>実際に[[共同印刷]]での職工体験をもつ[[徳永直]]が書いた[[プロレタリア文学]]の名作﹃[[太陽のない街]]﹄では、新太郎をモデルにした憎々しげな資本家が登場する。</ref>▼ 父佐平の遺志を継いで建設した私設[[大橋図書館]]は、誰でも簡単に利用できる図書館として東京市民に親しまれた。また金沢︵[[横浜市]][[金沢区]]︶の別荘に隣接する[[称名寺]]が荒廃していることを悲しみ、多大な寄進を行なって境内の整備に尽くすとともに、[[神奈川県知事一覧|神奈川県知事]][[池田宏 (内務官僚)|池田宏]]の要請によって、称名寺境内に設立された神奈川県立[[金沢文庫]]の建設資金の半額を提供するなど、文化的な公共事業へ私財の投入をいとわなかったことは、今なお高く評価されている。▼ 大正時代以降、新太郎は財界活動に主力を置き、出版活動は子弟にほとんど委任したため、[[円本]]ブームにも乗りそこね、[[講談社]]や[[岩波書店]]などの志や目的を高く掲げた後続出版社に押されて、売り切り制の廉価大量販売によって一世を風靡した博文館のやり方は時代遅れとなり、出版界における地位は低落した。戦争中に新太郎が没し、後継体制が固まらないうちに敗戦となり、財閥解体令によって大橋コンツェルンも分割され、[[博文館]]は消滅した。戦後、需要の高かった﹁博文館日記﹂を主に刊行するために、[[共同印刷]]の一角で博文館新社が再建され、今日に名跡をつないでいる。▼ == 経歴 ==
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* [[1944年]] - 5月5日午後11時15分、麹町区三番町22番地の本邸で死去。法名‥永楽院殿松雲道翁大居士。5月9日[[築地本願寺]]にて葬儀、小石川[[護国寺]]に埋葬。<ref>[[坪谷善四郎]]﹃大橋新太郎伝﹄ 博文館新社︵1985年、1937年成稿︶所収年譜による。</ref> ==
* [[1940年]](昭和15年)[[11月10日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>[{{NDLDC|2960962/32}} 『官報』・付録 1941年11月21日 辞令二] </ref>
▲父の大橋佐平は越後長岡の開明的な商人で、出版・新聞などの情報産業にいち早く着目し、新潟県から東京に進出して近代出版業の先駆者となった。
▲[[博文館]]は、佐平と新太郎の父子が協力して創立した出版社で、日清戦争・日露戦争などの報道によって爆発的な利益を得るとともに、[[尾崎紅葉]]を盟主とする[[硯友社]]の文学運動に﹁[[文芸倶楽部]]﹂などの発表の場を提供することによって当時の文壇の首脳部を手中に収めた。<ref>新太郎の妻、須磨子︵1881年 - 1949年︶は、芝公園内の紅葉館で女中をしていたことがあり、[[尾崎紅葉]]の代表作﹃[[金色夜叉]]﹄のお宮のモデルとされる。お宮を蹴飛ばした貧書生の間貫一が[[巌谷小波]]で、ダイヤモンドでお宮の眼をくらませた富豪が新太郎であると言われている。これは新太郎をパトロンとして活動した硯友社同人の間での諧謔的な人物比定であろう。[[長谷川時雨]]の﹃近代美人伝﹄([[1936年]])は、一章を須磨子伝にあて、賢夫人としての実像を叙述している。</ref>また大衆が必要とする実用的な知識を集めた百科全書や、日本の古典文学作品に新たな注釈を施した活字本など、さまざまな分野にわたる膨大な刊行物を廉価で販売し、近代出版界でゆるぎない地位を築き上げた。<ref>植田康夫﹁日本の出版﹂第6回﹁博文館の隆盛と戦前最大の取次﹁東京堂﹂﹂http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/06hakubunkan_1.html。 ▲同第7回「“明治の出版王”大橋佐平と息子・新太郎」http://www.usio.co.jp/html/syuppannomirai/07meijinosyuppanou_1.html</ref>
▲新太郎は、父の出版事業を継承するだけでなく、印刷︵[[共同印刷]]︶から取次・小売︵[[東京堂書店|東京堂]]︶にわたるコンッエルンを構築し、さらに各種の製造業・エネルギー事業・交通事業の新会社の設立に積極的に関与し、国会議員となって活動しながら財界の発展に尽くした。一方、共同印刷社内では、労働争議が頻発し、[[1926年]]には[[共同印刷争議]]として歴史に刻まれる大事件に発展し、新太郎はその対応に苦慮した。<ref>実際に[[共同印刷]]での職工体験をもつ[[徳永直]]が書いた[[プロレタリア文学]]の名作﹃[[太陽のない街]]﹄では、新太郎をモデルにした憎々しげな資本家が登場する。</ref> ▲父佐平の遺志を継いで建設した私設[[大橋図書館]]は、誰でも簡単に利用できる図書館として東京市民に親しまれた。また金沢︵[[横浜市]][[金沢区]]︶の別荘に隣接する[[称名寺]]が荒廃していることを悲しみ、多大な寄進を行なって境内の整備に尽くすとともに、[[神奈川県知事一覧|神奈川県知事]][[池田宏 (内務官僚)|池田宏]]の要請によって、称名寺境内に設立された神奈川県立[[金沢文庫]]の建設資金の半額を提供するなど、文化的な公共事業へ私財の投入をいとわなかったことは、今なお高く評価されている。 ▲大正時代以降、新太郎は財界活動に主力を置き、出版活動は子弟にほとんど委任したため、[[円本]]ブームにも乗りそこね、[[講談社]]や[[岩波書店]]などの志や目的を高く掲げた後続出版社に押されて、売り切り制の廉価大量販売によって一世を風靡した博文館のやり方は時代遅れとなり、出版界における地位は低落した。戦争中に新太郎が没し、後継体制が固まらないうちに敗戦となり、財閥解体令によって大橋コンツェルンも分割され、[[博文館]]は消滅した。戦後、需要の高かった﹁博文館日記﹂を主に刊行するために、[[共同印刷]]の一角で博文館新社が再建され、今日に名跡をつないでいる。 == 主な刊行雑誌 ==
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