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'''大石凝 真
遠祖は[[大伴氏]]という。[[壬申の乱]]の後継者として、望月を姓として[[伊賀国|伊賀]]、[[近江国|近江]]にすまったという。父は登、医を業として、かたわら[[多賀大社|多賀神社]]の[[神札]]をくばっていた。真 22歳のとき江戸にいたが、[[黒船来航|アメリカの艦船]]が浦賀に来て、これに憤慨、﹁我国は[[神国]]なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず﹂と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。[[美濃国|美濃]]の[[山本秀道]]の教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。 明治3年(1870年)、「有名無実の[[神道]]を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真
明治11年︵1878年︶、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年︵1891年︶の国会議事堂焼失、明治31年︵1898年︶の[[伊勢神宮|神宮]]正殿焼失を予言、的中したという。明治40年︵1907年︶から名古屋の[[水野満年]]のもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。 ==外部リンク==
*[http://misogi.org/masumi.htm 大石凝真
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