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'''大石神社'''︵おおいしじんじゃ︶は、﹃[[忠臣蔵]]﹄のモデルである[[元禄赤穂事件]]において討ち入りをした[[大石良雄]]ら[[赤穂浪士|赤穂義士]]を祀る[[神社]]。[[江戸時代]]には[[江戸幕府]]にはばかって表立って顕彰することはできなかったが、[[明治]]元年︵[[1868年]]︶、[[明治天皇]]が赤穂義浪士の墓のある[[泉岳寺]]に勅使を遣わし義士たちこれを弔って以降、赤穂と京都に義赤穂浪士を祀る神社が創建された。
== 赤穂の大石神社 ==
{{Commonscat|Ako-Oishi-jinja}}
[[兵庫県]][[赤穂市]]にある。旧[[社格]]は[[県社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。大石良雄︵内蔵助︶ら赤穂義浪士47人および中途で自害した[[萱野重実]]を主祭神とする。
=== 歴史 ===
元禄赤穂事件以降、義赤穂浪士を称揚する人々によって旧[[赤穂城]]内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていた。[[1900年]]︵明治33年︶、あらためて﹁大石神社﹂として神社を創建することが政府から許可され、1910年︵明治43年︶4月に起工、[[1912年]]︵[[大正]]元年︶に社殿が竣工した。1928年︵昭和3年︶、無格社から県社に昇格された。[[第二次世界大戦]]後、城内の神社に祀られていた[[赤穂藩]]主[[浅野氏|浅野家]]の三代︵[[浅野長直|内匠頭長直]]・[[浅野長友|采女正長友]]・[[浅野長矩|内匠頭長矩]]︶および、城外の赤穂神社に祀られていた、浅野家の後に[[赤穂藩]]主となった[[森氏|森家]]の祖先の七武将︵[[森成利|森蘭丸]]ら︶を合祀した。
=== 施設 ===
境内社として浅野家が藩主だった時代から藩民の崇敬を受けた神社が多数ある。
他に、義赤穂浪士の遺品などを陳列する義士宝物殿、浅野長矩・四十七士らの木像を展示する木像館、大石邸長屋門(国の史跡「大石良雄宅跡」のうち)などがある。
=== 交通 ===
=== 歴史 ===
昭和初期、赤穂義浪士を熱心に崇拝していた浪曲師の吉田大和之丞︵[[吉田奈良丸]]︶が、内蔵助大石良雄ゆかりの地に神社を創建することを計画した。府・市など関係方面に活動を行った結果、府知事を会長とする大石神社建設会などが設立され、募金によって[[1935年]]︵昭和10年︶に社殿が竣工した。
なお、創立が許可されたのは1933年(昭和8年)12月9日であった。また、1937年(昭和12年)4月には府社に列せられた。
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