「大石良雄」の版間の差分
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{{別人|x1=法学者の|大石義雄}}
{{出典の明記|date=2017年9月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 大石 良雄
| 画像 = Ōishi Yoshio.jpg
| 画像サイズ =200px
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| 主君 = [[浅野長矩]]
| 藩 = [[播磨国]][[赤穂藩]][[家老]]
| 氏族 =
| 父母 = 父:[[大石良昭]]、母:[[池田由成]]の娘・[[池田熊子|くま]]
| 兄弟 = '''良雄'''、[[専貞]]、[[大石良房|良房]]
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| 特記事項 =
}}
'''大石 良雄'''︵おおいし よしお 長男の[[大石良金]](主税)も赤穂浪士の一人で最年少である<ref name="マイペディア"/>。
== 概要 ==
[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]][[浅野家]]の永代[[家老]]家に生まれる。祖父[[大石良欽]]の跡を継いで若くして家老となる<ref name="朝日"/>。
[[1701年]](元禄14年)3月14日に主君の赤穂藩主[[浅野長矩]]([[内匠頭]])が[[江戸城]]内において[[高家 (江戸時代)|高家]][[吉良義央]]([[上野介]])に遺恨ありとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして即日切腹、赤穂藩は[[改易]]となった<ref name="朝日"/>。一方義央には何の咎めもなかった<ref name="朝日"/>。[[赤穂城]]明け渡しをめぐって浅野家中では開城、切腹、抵抗など議論があったが、最終的には良雄が家中の意見をまとめ、藩札や藩の借金の処置にも努め、4月19日に城を受城使[[脇坂安照]]に引き渡した<ref name="朝日"/>。
その後[[山城国]][[山科]]に移住。この時期には長矩の弟[[浅野長広]]︵大学︶による浅野家再興を働きかけつつ、それがかなわなかったときには主君長矩の恥辱をそそぐため義央を討つ計画を進めていたと見られる<ref name="朝日"/>。[[1702年]]︵元禄15年︶7月に長広の浅野本家預けが決まったことでお家再興の望みは消え、同月に良雄は京都円山に同志を集めて﹁吉良邸討入り﹂の意志を確認した<ref name="朝日"/>。 その後江戸へ下向。47人の赤穂浪士を率いて同年12月14日から15日に両国の向かいにあった本所一ツ目の吉良邸へ討ち入り、[[武林隆重]]が吉良を斬殺、義央の首級をあげて[[泉岳寺]]の長矩の墓前に供えた<ref name="朝日"/>。その後赤穂浪士は[[江戸幕府|幕府]]の命により4家の大名家に分けてのお預かりとなり、良雄は[[熊本藩]]主[[細川綱利]]に預けられた。翌[[1703年]]︵元禄16年︶2月4日に[[切腹]]となった。遺骸は[[高輪]][[泉岳寺]]の長矩の墓のそばに葬られた<ref name="朝日"/>。 この事件は<!--[[近松門左衛門]]の﹁[[碁盤太平記]]﹂や--><!--当該演目は即刻中止が命じられ広まらなかった。今日でも話の詳細が知られていない。-->[[竹田出雲]]の﹁[[仮名手本忠臣蔵]]﹂などの[[浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]によって劇化されてから国民的関心を集めた<ref name="朝日"/>。[[1912年]]︵大正元年︶には[[兵庫県]][[赤穂市]]に大石良雄以下四十七士を主神とする[[大石神社]]が竣工すると<ref name="世界大百科事典">{{Kotobank|1=大石神社|2=世界大百科事典 第2版}}</ref>、浪士たちは﹁義士﹂とたたえられた<ref name="朝日"/>。 == 出自 ==
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良勝の長男・[[大石良欽]]も[[赤穂藩]]浅野家の筆頭家老となる。また良勝の次男・[[大石良重]]も家老となり、浅野長直︵長矩の祖父︶の娘・鶴姫を妻に迎えており、その子の2人はいずれも浅野長直に分知されて旗本︵[[浅野長恒]]と[[浅野長武 (旗本)|浅野長武]]︶になった。 大石良欽は[[鳥居忠勝]]︵[[鳥居元忠]]の子︶の娘を娶り、その間に[[大石良昭]]を長男として儲けた。その良昭と[[備前国|備前]][[岡山藩]]の重臣・[[池田由成]]{{Efn|天城3万2000石を領する大名並みの陪臣。また実際には岡山藩池田家の本家筋に当たる。詳しくは[[池田氏]]や[[岡山藩]]を参照のこと。}}の娘・[[池田熊子|くま]]の間に長男として、播州[[赤穂城]]内に生まれたのがこの大石良雄である。幼名は松之丞︵一説に竹太郎︶。 第6代将軍御台所・[[近衛熙子]]とは大石氏の一族、小山氏が代々近衛家諸太夫を勤める縁戚関係でもある。このため、熙子の弟・[[近衛家熈]]が義士碑に揮毫している。
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<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">藤原姓大石氏系図</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
'''実線は実子、点線︵縦︶は養子'''。[[家長|当主]]は'''太字'''、﹁良知﹂以降の系図は﹁広島藩文書﹂では確認できず伝承に近い<ref>横田良遂と正虎が同一人物という説もあるが、両者には年数的に世代の隔離があり、温良の生誕年も不明である︵後藤武夫伝﹁新撰大石系図﹂︶。広島藩は系図および世代年数の懐疑を理由に、大石温良を﹁小山流大石家﹂の相続ではなく、﹁別家︵横田流大石家︶﹂取り立てという形を取った︵知行も500石に減じている︶。</ref> {{familytree/start|style="font-size:
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[小山義政]]}}
{{familytree |border=0| |!|01||||| 01=(2代略)}}
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{{familytree |border=0| |||||||:|||| }}
{{familytree |border=0|||||||01||| 01=良知|}}
{{familytree |border=0| |||||||
{{familytree |border=0|||||||01||| 01=良孝|}}
{{familytree |border=0| |||||||!|||| }}
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元禄14年([[1701年]])2月4日、浅野長矩は江戸へ下向する[[東山天皇]]の勅使の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は[[高家肝煎]]・[[吉良義央]]であった。
3月14日、[[江戸城]]では勅旨に対して将軍が奉答する勅答の儀が執り行われるはずであった。しかし儀式が始まる直前、松之大廊下において長矩は吉良義央に対して刃傷におよんだ。尊皇心の厚い[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩を大名としては異例の即日[[切腹]]に処し、さらに赤穂浅野家をお家断絶とした。一方、吉良には何の咎めもなかった。この時、大石不在の鉄砲洲にある赤穂藩邸に暴徒が押しかけ騒ぎが起きている<ref>中央義士会﹃忠臣蔵四十七義士全名鑑﹄より﹁大石内蔵助良雄﹂︵小池書院、2007年︶</ref>。 [[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城 高麗門二層櫓(復元)]]
[[早水満尭]]と[[萱野重実]]の第一の急使、足軽飛脚による第二の急使、[[原元辰]]と[[大石信清]]の第三の急使、町飛脚による第四・第五・第六の急使、と次々に赤穂藩邸から国許[[赤穂市|赤穂]]へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日、家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われたが、藩士たちは[[江戸幕府|幕府]]の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて議論は紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・[[岡島常樹]]などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で長矩の弟・[[浅野長広]]を立てて御家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の[[藩札]]の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。しかし、﹁四分六分﹂の換金率︵額面の4割︶だと言われた備前商人は喧嘩になり、藩札交換して貰えなかったため[[岡山藩|池田家]]が肩代わりしている<ref>池田家文書﹁赤穂札之高都合三千貫目程之由﹂</ref>。 また、良雄は物頭の[[月岡治右衛門]]と[[多川九左衛門]]を江戸に派遣して、幕府収城目付・[[荒木政羽]]らに浅野家再興と吉良上野介処分を求めた嘆願書をとどけさせた{{Efn|しかしこの二人は任を誤り、江戸家老・[[安井彦右衛門]]に手渡し、美濃[[大垣藩]]主・[[戸田氏定]]の手紙を持って帰ってきた。}}。 126 ⟶ 137行目:
しかし、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸ら江戸急進派は、この間も良雄に江戸下向を促す書状を再三にわたり送り付けている。良雄は江戸急進派鎮撫のため、9月下旬に原元辰︵300石足軽頭︶・[[潮田高教]]︵200石絵図奉行︶・[[中村正辰]]︵100石祐筆︶らを江戸へ派遣、続いて進藤俊式と[[大高忠雄]]︵20石5人扶持腰物方︶も江戸に派遣した。しかし彼らは逆に堀部に論破されて急進派になってしまったため、10月、良雄が自身で江戸へ下向した︵第一次大石東下り︶。良雄は江戸三田︵[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[三田 (東京都港区)|三田]]︶の[[前川忠大夫]]宅で堀部と会談し、浅野長矩の一周忌になる明年3月に決行を約束した。またこの時、かつて赤穂藩を追われた[[不破正種]]が一党に加えてほしいと参じている。良雄は長矩の眠る[[泉岳寺]]へ参詣した際に主君の墓前で不破の帰参と同志へ加えることの許可を得た。この江戸下向で荒木や長矩の[[瑤泉院]]とも会っている。江戸で一通りやるべきことを終えた良雄は、12月には京都へ戻った。帰京後、嫡男[[大石良金]]を元服させている。大石良金は盟約に加わることを望み、良雄はこれを許した{{Efn|妊娠中の妻りくと主税以外の子供たちは翌年元禄15年︵[[1702年]]︶4月に妻の実家の[[豊岡市|豊岡]]へ帰した。りくは7月に大三郎を出産。この子はのちに[[広島藩]]に仕えることになる。}}。 しかし、この帰京後から、良雄の廓などでの放蕩がひどくなった。﹃[[仮名手本忠臣蔵]]﹄の影響で、これは吉良家や上杉家の[[仮痴不癲|目を欺くための演技である]]というのが半ば定説化している。{{要出典範囲|しかし良雄はもともと赤穂藩時代から自由気ままな遊び人であり、本当に楽しんでいた面もあった可能性は高い|date=2017年9月}}︵﹃甲子夜話﹄では大石内蔵助らが十人も引き連れて伏見で豪遊し﹁墨硯をつまに持たせ天井に落書いたし候﹂と文句を書い、連中が使った金は自身の工面では無かろうとしている。但し、松浦静山は作中では赤穂義士にはすべて蔑称か呼び捨て、吉良には必ず敬称をつけ<ref>[[松浦静山|松浦静]]﹃甲子夜話﹄︵正篇三十など︶</ref>、平戸藩邸︵下屋敷︶は本所にあり吉良邸に近いこと、静山自身も柳の間で諸大名に江戸城での作法や礼儀を指南していること、吉良氏秘伝の﹃吉良懐中抄﹄を平戸藩は家宝として今日まで継承していること<ref>﹁松浦家関係文書﹂︵松浦史料博物館︶</ref> 、義央を救いに吉良邸に駆け付けた津軽氏を絶賛し、﹁南部の大石内蔵助﹂と評された相馬大作を罵倒していること、等多くの点で吉良寄りであり公平な[[第三者]]とは言い難い︶。近年の﹃忠臣蔵﹄のドラマでも、﹁人間内蔵助﹂を描こうとして後者に描かれることが多い。{{要出典範囲|一方で、良雄放蕩の根拠とされる﹃江赤見聞記﹄は、脱盟者の進藤俊式と小山良師が言ったことをそのまま載せたものとみられており、﹃堀部筆記﹄にもまるで出てこないことから、そもそも放蕩の事実はないとする説も有力|date=2017年9月}}。 この年の年末からは脱盟者も出始めており、その一人は江戸急進派の中心人物・高田郡兵衛であった。これは江戸急進派の顔を失わせる結果となり、その発言力を弱めさせた。良雄はこれを好機として元禄15年︵[[1702年]]︶2月の山科と円山での会議において﹁大学様の処分が決まるまで決起しない﹂ことを決定。[[吉田兼亮]]︵200石加東郡郡代︶と[[近松行重]]︵馬廻250石︶を江戸に派遣して江戸急進派にこれを伝えた。しかし江戸急進派は納得せず、良雄をはずして独自に決起することを模索しつつ、ついに6月には江戸急進派の頭目・堀部武庸が自ら京都へ乗り込んでくる。﹁もはや大石は不要﹂として良雄を斬り捨てるつもりだったとも言われる{{要出典|date=2017年9月}}。しかしちょうどこの頃、遠林寺の祐海などを通じて良雄もお家再興が難しい情勢を知らされていた。7月18日、ついに幕府は浅野長広にたいして広島藩お預かりを言い渡した。ここにお家再興は絶望的となり、幕府への遠慮は無用となった。 134 ⟶ 145行目:
御家再興は絶望的となったのを受けて、7月28日、良雄は堀部武庸なども呼んで円山会議を開催し、吉良義央を討つことを決定した。また8月には[[貝賀友信]]︵蔵奉行10両2石3人扶持︶、大高忠雄らに神文返し︵盟約の誓紙=神文の返還︶を実施し、死にたくない者は脱盟するようそれとなく促した。このときに奥野定良・進藤俊式・小山良師・[[岡本重之]]・[[長沢六郎右衛門]]・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら、お家再興優先派が続々と脱盟していった。 一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も[[垣見五郎兵衛]]と名乗って江戸へ下向した。﹃忠臣蔵﹄を題材にした物語では、﹁道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする[[赤穂浪士]]と察して、自分が偽物だと詫びる﹂という挿話が入るが、これは創作である。また大石は、城前寺にて曽我兄弟の墓を叩いて壊し、墓石の破片をお守りとして携帯した<ref>現存する﹁箱根五輪塔﹂︵俗称‥曽我兄弟の墓︶には﹁火輪﹂と﹁地輪﹂の部分に削られた破損がある︵神奈川県足柄下郡箱根町・城前寺︶</ref>。 良雄は10月26日には川崎平間村で、赤穂藩邸の[[排泄|有機肥料]]を買っていた豪農・軽部五兵衛 討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領﹁人々心覚﹂が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに﹁吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君への御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない﹂ことを定めた。 12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、吉良義央が小屋から撃って出た処を、[[武林隆重]]が斬殺した。間光興が首級を取って良雄たち赤穂浪士一行は引き上げたが、奥平家と酒井家<ref>﹁酒井家編年史料稿本 二百二十六﹂︵東大史料編纂所︶。[[酒井忠囿]]は[[松之大廊下]]事件が起きた際にも、吉良に見舞いをしている。</ref>により鉄砲洲の旧赤穂藩邸には寄れず、織田家や伊達家に通行を阻まれつつも迂回して浅野長矩の墓がある[[泉岳寺]]へ引き揚げた。寺で大石は酒を求め皆で飲んだり<ref>﹁皆々草臥居申候間御酒被仰付候得と被申候﹂﹁皆々悦ひ互にしゐて呑被申候﹂︵﹃白明話録﹄︶</ref>、義士たちは粥を食べて上杉家と津軽家の襲撃に備えたあと、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。 === 四大名家お預かり ===
良雄は、吉田兼亮・[[富森正因]]の2名を[[大目付]]・[[仙石久尚]]の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した 幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主[[細川綱利]]の屋敷に預けられ、世話役に堀内伝右衛門が充てられた。長男良金は[[松平定直]]の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。なお、堀内は無神経な成り上がり者であったため、大石らは夜中に狂言踊りで騒いだり、堀内が様子を見に来た所を、酒をたらふく飲ませて酩酊させたり、玄米といわし料理を出せと注文して困らせたりした。 === 最期 ===
[[ファイル:
[[ファイル:Oishi_Yoshio_and_the_16_partisans_with_unswerving_loyalty.jpg|thumb|「[[大石良雄外十六人忠烈の跡]]」]]
<!--仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした[[荻生徂徠]]などの意見を容れ、将軍綱吉は[[陪臣]]としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。--><!--﹁評定所存寄書﹂の信憑性は低い。東京大学名誉教授の尾藤正英、山本博文らも﹁偽書﹂であるとしている。また、赤穂義士が世間で注目されるのは九代家重の治世になってからである。切腹後でさえ泉岳寺には﹁義士墓の墓参者が殆どいない﹂﹁草が丈高く生い茂って、義士の墓が並んでいるのも見えない﹂﹃類柑子﹄︵宝永四年︶との記録が残る。--> 元禄16年︵[[1703年]]︶2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主・[[吉良義周]]︵吉良義央の養子︶の領地没収と[[信濃国|信州]][[流罪|配流]]の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府[[目付]]・荒木政羽であり﹁徒党を組み押し入る始末、重々不届きにつき切腹を申し付ける﹂という上意を義士たちに伝えた。顔見知りのせいか﹃赤穂鍾秀記﹄では、大石がこの命令書に畏れ入らずに異議を唱えて云返をしたとある。 「義士は堀内のような一代で士分になった出来星でなく、身分のある上士に介錯させるべし」との細川綱利の意向により、良雄は細川譜代家臣・[[安場一平|安場久幸]]の介錯で切腹した。
▲良雄は、吉田兼亮・[[富森正因]]の2名を[[大目付]]・[[仙石久尚]]の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主[[細川綱利]]の屋敷に預けられた。長男良金は[[松平定直]]の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。 ﹃江赤見聞記﹄では大石の介錯を仕損じ、大声を出したので首を二度斬りをしたとあるが<ref>﹁江赤見聞記﹂巻六</ref>、細川家の記録︵﹃堀内覚書﹄︶には{{Efn|真筆は[[細川重賢]]により処分され行方不明。現存するのは﹁安永7年︵1778年︶写し﹂など複数で、内容にもそれぞれ相違がある︵永青文庫︶。}}﹁かなりの時間がかかった﹂とあるだけで具体的な経緯は確認できない。 しかし、安場家に伝わる介錯刀は刃こぼれがあり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ako-minpo.jp/news/14213.html|title=内蔵助介錯の刀も﹁元禄赤穂事件﹂展|website=赤穂民報|date=2019-12-13|accessdate=2022-10-19}}</ref>、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた[[安場保雅]]は﹁大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である﹂と記している。 == 辞世の句 ==
{{Wikiquote|大石良雄}}
[[ファイル:Oishi_Yoshio_jijin_ato_0141.jpg|thumb|150px|大石良雄等自刃の跡[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]・[[高輪|二本榎通り]]<ref>港区高輪三丁目。[[細川氏|細川家]]邸跡より少し離れており、厳密には大石良雄が切腹した場所ではない︵[[大石良雄外十六人忠烈の跡|細川邸]]は高輪一丁目︶。</ref>]] 大石良雄の[[辞世|辞世の句]]一般には1または2として知られるが一部文献には
#あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
#あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』
しかしながら
* 武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原
▲* 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
これは大石が辞世を書いたものを堀内伝右衛門が預かり、大石自身の手になる現物が今に残っている<ref>「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)</ref>。[[石川九楊]]は大石の筆跡を「ふ」や「る」の止めが高く位置して、「当時の武家の基本書法である御家流を踏まえている」との印象を語っている。
== 人物評 ==
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* 「良雄人となり和易樸矜飾を喜ばず、国老に任ずといえども事に於いて預ること鮮し。しかも内実豪潔にして忠概を存じ最も族人に厚し。」[[三宅観瀾]](同時代の水戸学者)
物静かで飾り気のない性格だが、
役立たずの「'''昼行燈'''」という呼称は人口に膾炙しており、大石の人物像を語るのに多用される<ref>呉陵軒可有ら(編)『誹風柳多留』など(『新版 日本架空伝承人名事典』より「大石内蔵助」田原嗣郎・記)</ref>。
その一方、﹃[[土芥寇讎記]]﹄では浅野内匠頭に暗君という評価を下しているので、﹁(前略︶次に、家老の仕置も心もとない。若年の君主が色にふけるのを諫めないほどの﹁不忠の臣﹂の政道だからおぼつかない﹂と書かれている。名指しされている訳ではないが、その家老の中に大石良雄が含まれている可能性は高い。また、室鳩巣は﹃[[赤穂義人録]]﹄の中で大石の忠義や人格を高く評価する一方で、元々は温恭な君主である浅野内匠頭が刃傷事件を起こした一因として家臣がきちんと補佐して主君を正しい方向に導けなかったことにあると指摘し、特に家老である大石が﹁不学無術﹂であった責任は大きいとする<ref>川平敏文﹁室鳩巣﹃赤穂義人録﹄論-その微意と対外思想﹂︵井上泰至 [[瑤泉院]]の家臣・[[落合勝信]]は「大石は無類の好色で不行跡があり、金銭を放蕩に浪費する」<ref>「内蔵助事、全活気成生付故、於京都遊山見物等之事に付、不宜行跡も有之、金銀等もおしまず遣捨申候」(『江赤見聞記』巻之四)</ref>と記している。、
== その他 ==▼
また、同時代人の[[水間沾徳]]<ref>﹃沾徳随筆﹄より﹁浅野家滅亡之濫觴﹂</ref>、少し後の時代人である[[池大雅]]、[[本居宣長]]、[[神沢杜口]]、[[五井蘭洲]]、[[横井也有]]、大我︵白蓮社天誉︶らは、大石についてよろしくない人物評を残している。 == 容姿・体躯 ==
[[File:OishiKuranosuke3.JPG|160px|thumb|大石内蔵助の銅像 (東京都港区・[[泉岳寺]])]]
* 身長は * 『堀部武庸日記』では「皮膚病を病み、腕に[[毛嚢炎|腫物]](疔)が出来ていた」と書かれている<ref>六月十二日付の堀部宛て大石書状ほか(「堀部武庸日記」上)。</ref>。
* 富森の証言によれば、小太りの体形にも拘らず寒がりだったという。お預かりでは火鉢・炬燵・厚布団・羽織などを出すよう要求して堀内に断られている<ref>「火鉢煙草盆など暖諸用具相渡すべく伺い出も有りしが、御指圖破れざるに付き見合せと取り計べし」(『肥後熊本藩 細川家記』)</ref>。『堀内伝右衛門覚書』には「よく頭から布団を被っていた」と綴られる。
* [[八助]]に与えた自画像(泉岳寺所蔵)や、松原公直「大石良雄切腹之図」では[[口髭]]や[[髭|鬚]]の伸びた豪傑風に描かれている。(「最期」項の画像)
▲== その他 ==
* 岡山などにある逸話では、実は良雄は、備前岡山藩池田家家老池田玄蕃の子で、はじめは池田久馬と名乗っていたが、大石良欽の養子入りをしたなどという話が残る。しかし良雄が切腹前に幕府に出した親類書には、﹁一、養父・実祖父 二十八年以前正月病死大石内蔵助 一、実父三十一年前九月病死大石権内﹂となっていることから、養子説の信憑性は低い。おそらく生母の出自にまつわって生じた俗説と考えられる。しかし地元の岡山などでは現在に至るまで広く信じられているようである。<!--近年出てきた新説に良雄は、[[富山藩]]の永代家老家の横山氏から大石氏に養子に入ったものではないか、というものもあるが、真相は定かではない。 横山氏から養子説は聞いたことがない説だが、このソースはなにか?池田玄蕃から養子説は知っているが、これの間違いではないのか?とりあえずソースの掲示がない間は池田にかえておく-->
== 遺品 ==
* 太刀則長二尺八寸金拵・備前清光 - [[泉岳寺]]住職・酬山の売却により現存しない。
* 脇差二尺『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』彫木柄 - 熊本藩に伝承も[[細川重賢]]が処分し散佚<ref>「脇差は大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」(『堀内伝右衛門覚書』)</ref>。
* 佩刀 - 銘・由来不詳。赤穂大石神社所蔵。(画像参照)
== 赤穂浪士終焉の地 ==
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* [[水野監物邸跡]] - 東京都港区[[芝 (東京都港区)|芝]]五丁目
* [[大石主税良金ら十士切腹の地]] - 東京都港区[[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]
* [[毛利甲斐守邸跡|長門長府城主毛利甲斐守
== 大石良雄を扱った作品 ==
{{See|赤穂事件を題材とした作品|忠臣蔵}}
=== 関連商品 ===
* 郵便切手「石川五右衛門/大石内蔵助」(歌舞伎シリーズ第5集)[[1992年]][[4月10日]]発行。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧︵本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典︿書籍、論文、資料やウェブページなど﹀のみを列挙して下さい。さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、﹁関連文献﹂などとセクション名を分けて区別して下さい。︶ --> * [[根岸鎮衛]] * 「[http://www.raigoin.com/ 来迎院 公式サイト]」(2015年8月30日閲覧)
* 『京都 月釜案内 改訂版 京都茶の湯マップ
*
*
== 関連項目 ==
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* [[赤穂事件|元禄赤穂事件]]
* [[大石神社]]
* [[岩屋寺 (京都市)|大石寺]]
* [[花岳寺]]
* [[来迎院 (京都市東山区)|来迎院]]
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{{DEFAULTSORT:おおいし よしお}}
[[Category:大石内蔵助|*]]
[[Category:赤穂浪士]]
[[Category:大石氏|よしお]]
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[[Category:1659年生]]
[[Category:1703年没]]
[[Category:切腹した人物]]
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