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赤穂市歴史家による客観的な表現にし、創作で「7 大石良雄を扱った作品」で扱われている部分を割除。
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{{別人|x1=法学者の|大石義雄}}
{{出典の明記|date=2017年9月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 大石 良雄
| 画像 = Ōishi Yoshio.jpg
| 画像サイズ =200px
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| 主君 = [[浅野長矩]]
| 藩 = [[播磨国]][[赤穂藩]][[家老]]
| 氏族 = [[藤原北家]][[藤原秀郷|秀郷]]流[[小山氏]]系[[大石氏]]
| 父母 = 父:[[大石良昭]]、母:[[池田由成]]の娘・[[池田熊子|くま]]
| 兄弟 = '''良雄'''、[[専貞]]、[[大石良房|良房]]
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| 特記事項 =
}}
''' '''  /   [[]]2︿[[1659]] - [[]]16[[23 ()|24]]︿[[1703]][[3|320]][[]][[]][[|]][[]][[]]'''[[]]15'''<ref name="">{{Kotobank|1=[[]]|2=}}</ref>''' ''' 16[[]][[]][[]]<ref>''' ''' </ref name="">[[{{Kotobank|1=|2=]]}}</ref>
 
長男の[[大石良金]](主税)も赤穂浪士の一人で最年少である<ref name="マイペディア"/>。
<!--は[[仮名 (通称)|通称]]であり、[[内蔵寮]]の次官のことである。--><!--脱線トリビア-->良雄は[[諱]]で、[[仮名 (通称)|通称(仮名)]]は内蔵助。一般にはこの'''大石 内蔵助'''(おおいし くらのすけ<!-- 内藏助-->)の名で広く知られる。<!--
 
== 概要 ==
武士の名の表記は通称(当時の同輩以下が呼びかける名)は名字+通称、主君以上に対してや本人が正式に名乗る名は姓+忌み名の二種したがって 通称は大石内蔵助、名乗りは大石良雄と表記するのが正しい。また大石 内蔵助 良雄と表記する習慣はなかった。-->
[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]][[浅野家]]の永代[[家老]]家に生まれる。祖父[[大石良欽]]の跡を継いで若くして家老となる<ref name="朝日"/>。
 
[[1701年]](元禄14年)3月14日に主君の赤穂藩主[[浅野長矩]]([[内匠頭]])が[[江戸城]]内において[[高家 (江戸時代)|高家]][[吉良義央]]([[上野介]])に遺恨ありとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして即日切腹、赤穂藩は[[改易]]となった<ref name="朝日"/>。一方義央には何の咎めもなかった<ref name="朝日"/>。[[赤穂城]]明け渡しをめぐって浅野家中では開城、切腹、抵抗など議論があったが、最終的には良雄が家中の意見をまとめ、藩札や藩の借金の処置にも努め、4月19日に城を受城使[[脇坂安照]]に引き渡した<ref name="朝日"/>。
 
[[]][[]][[]]<ref name=""/>[[1702]]157<ref name=""/>
 
47121415[[]][[]]<ref name=""/>[[|]]4[[]][[]][[1703]]1624[[]][[]][[]]<ref name=""/>
 
<!--[[]][[]]--><!---->[[]][[]][[]][[]]<ref name=""/>[[1912]][[]][[]][[]]<ref name="">{{Kotobank|1=|2= 2}}</ref><ref name=""/>
 
== 出自 ==
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[[]][[]][[]]2[[]][[ ()|]]
 
[[]][[]][[]][[|]][[]][[]]{{Efn|32000[[]][[]]}}[[|]][[]]
 
第6代将軍御台所・[[近衛熙子]]とは大石氏の一族、小山氏が代々近衛家諸太夫を勤める縁戚関係でもある。このため、熙子の弟・[[近衛家熈]]が義士碑に揮毫している。
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<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">藤原姓大石氏系図</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
''''''[[|]]''''''<ref>500</ref>'''[[]]221889<ref> 2008</ref>
<!---->
{{familytree/start|style="font-size:120100%"}}
{{familytree |border=0|01||||| 01=[[小山義政]]}}
{{familytree |border=0| |!|01||||| 01=(2代略)}}
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{{familytree |border=0| |||||||:|||| }}
{{familytree |border=0|||||||01||| 01=良知|}}
{{familytree |border=0| |||||||!:|||| }}
{{familytree |border=0|||||||01||| 01=良孝|}}
{{familytree |border=0| |||||||!|||| }}
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元禄14年([[1701年]])2月4日、浅野長矩は江戸へ下向する[[東山天皇]]の勅使の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は[[高家肝煎]]・[[吉良義央]]であった。
 
314[[]][[|]][[]][[]]<ref>2007</ref>
 
[[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城 高麗門二層櫓(復元)]]
[[]][[]]使使[[]][[]]使使[[|]]3283273[[|]][[]]412[[]][[]]4[[|]]<ref></ref>
 
[[]][[]][[]]{{Efn|[[]][[]][[]]}}
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9300[[]]200[[]]100[[]]20510[[]][[ ()|]][[ ()|]][[]]3[[]][[]][[]]12[[]]{{Efn|15[[1702]]4[[|]]7[[]]}}
 
[[]][[|]]{{||date=20179}}使<ref>[[|]]</ref><ref></ref> [[]]{{||date=20179}}
 
15[[1702]]2[[]]200[[]]2506{{|date=20179}}718
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7288[[]]1023[[]][[]]
 
919107[[]][[]]<ref></ref>
 
1026[[|]]]]<ref>Web </ref>115<!--[[]][[]]--><!---->12141129122[[]][[]]
 
122
1215472[[]]
 
1215472[[]]<ref>稿 [[]][[]]</ref>[[]]<ref></ref>
 
=== 四大名家お預かり ===
[[]]2[[]][[]]634[[|]][[]][[]][[]]
 
4[[|]][[]][[]][[]]
 
=== 最期 ===
[[ファイル:KuranosukeOishi HarakiriYoshio noGishi zuSeppuku No Zu Painting.jpgpng|thumb|大石内蔵助義雄切腹之図]]
[[ファイル:Oishi_Yoshio_and_the_16_partisans_with_unswerving_loyalty.jpg|thumb|「[[大石良雄外十六人忠烈の跡]]」]]
<!--[[]][[]]使--><!---->
 
16[[1703]]244[[]][[|]][[|]]使[[]]
 
「義士は堀内のような一代で士分になった出来星でなく、身分のある上士に介錯させるべし」との細川綱利の意向により、良雄は細川譜代家臣・[[安場一平|安場久幸]]の介錯で切腹した。
[[]]2[[]][[]]634[[|]][[]][[]][[]]
 
<ref></ref>{{Efn|[[]]71778}}
仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした[[荻生徂徠]]などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
<ref>{{Cite web||url=https://www.ako-minpo.jp/news/14213.html|title=|website=|date=2019-12-13|accessdate=2022-10-19}}</ref>[[]]
 
16[[1703]]244[[]][[|]][[|]]使[[]][[]][[]]45[[]][[|]][[]]
 
== 辞世の句 ==
{{Wikiquote|大石良雄}}
[[:Oishi_Yoshio_jijin_ato_0141.jpg|thumb|150px|[[]][[ ()|]][[]][[|]]<ref>[[|]][[|]]</ref>]]
大石良雄の[[辞世|辞世の句]]一般には1または2として知られるが一部文献には23とされる。
#あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
#あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』
* #極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
 
しかしながら上記1および2は浅野長矩の墓に対してのもので、実際には次が大石辞世の句とも言われ現存する。
* 武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原
* 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
これは大石が辞世を書いたものを堀内伝右衛門が預かり、大石自身の手になる現物が今に残っている<ref>「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)</ref>。[[石川九楊]]は大石の筆跡を「ふ」や「る」の止めが高く位置して、「当時の武家の基本書法である御家流を踏まえている」との印象を語っている。
 
== 人物評 ==
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* 「良雄人となり和易樸矜飾を喜ばず、国老に任ずといえども事に於いて預ること鮮し。しかも内実豪潔にして忠概を存じ最も族人に厚し。」[[三宅観瀾]](同時代の水戸学者)
 
物静かで飾り気のない性格だが、内面は厚く人望度胸や威厳があった反面、家老の職にあるが有事には態度を保留しがちで、豪傑だが身内に甘い事が窺われる。
役立たずの「'''昼行燈'''」という呼称は人口に膾炙しており、大石の人物像を語るのに多用される<ref>呉陵軒可有ら(編)『誹風柳多留』など(『新版 日本架空伝承人名事典』より「大石内蔵助」田原嗣郎・記)</ref>。
 
[[]]([[]]<ref>- 2016 ISBN 978-4-585-22152-4</ref>
 
[[瑤泉院]]の家臣・[[落合勝信]]は「大石は無類の好色で不行跡があり、金銭を放蕩に浪費する」<ref>「内蔵助事、全活気成生付故、於京都遊山見物等之事に付、不宜行跡も有之、金銀等もおしまず遣捨申候」(『江赤見聞記』巻之四)</ref>と記している。、
== その他 ==
 
[[]]<ref></ref>[[]][[]][[]][[]][[]]
 
== 容姿・体躯 ==
[[File:OishiKuranosuke3.JPG|160px|thumb|大石内蔵助の銅像 (東京都港区・[[泉岳寺]])]]
* 157cm157[[|cm]]調<ref></ref> 
* 『堀部武庸日記』では「皮膚病を病み、腕に[[毛嚢炎|腫物]](疔)が出来ていた」と書かれている<ref>六月十二日付の堀部宛て大石書状ほか(「堀部武庸日記」上)。</ref>。
* 富森の証言によれば、小太りの体形にも拘らず寒がりだったという。お預かりでは火鉢・炬燵・厚布団・羽織などを出すよう要求して堀内に断られている<ref>「火鉢煙草盆など暖諸用具相渡すべく伺い出も有りしが、御指圖破れざるに付き見合せと取り計べし」(『肥後熊本藩 細川家記』)</ref>。『堀内伝右衛門覚書』には「よく頭から布団を被っていた」と綴られる。
* [[八助]]に与えた自画像(泉岳寺所蔵)や、松原公直「大石良雄切腹之図」では[[口髭]]や[[髭|鬚]]の伸びた豪傑風に描かれている。(「最期」項の画像)
 
== その他 ==
*   <!--[[]]
横山氏から養子説は聞いたことがない説だが、このソースはなにか?池田玄蕃から養子説は知っているが、これの間違いではないのか?とりあえずソースの掲示がない間は池田にかえておく-->
 
== 遺品 ==
* 太刀則長二尺八寸金拵・備前清光 - [[泉岳寺]]住職・酬山の売却により現存しない。
* 脇差二尺『万山不重君恩重一髪不軽臣命軽』彫木柄 - 熊本藩に伝承も[[細川重賢]]が処分し散佚<ref>「脇差は大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」(『堀内伝右衛門覚書』)</ref>。
* 佩刀 - 銘・由来不詳。赤穂大石神社所蔵。(画像参照)
 
== 赤穂浪士終焉の地 ==
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* [[水野監物邸跡]] - 東京都港区[[芝 (東京都港区)|芝]]五丁目
* [[大石主税良金ら十士切腹の地]] - 東京都港区[[三田 (東京都港区)#二丁目|三田二丁目]]
* [[毛利甲斐守邸跡|長門長府城主毛利甲斐守元麻布上屋敷跡]] - 東京都港区[[六本木]]六丁目
 
== 大石良雄を扱った作品 ==
{{See|赤穂事件を題材とした作品|忠臣蔵}}
=== 関連商品 ===
* 郵便切手「石川五右衛門/大石内蔵助」(歌舞伎シリーズ第5集)[[1992年]][[4月10日]]発行。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
194 ⟶ 236行目:
== 参考文献 ==
<!-- ︿ -->
* [[]] [[]]3 [[]][[]]︿[[]]1991 - 
* 「[http://www.raigoin.com/ 来迎院 公式サイト]」(2015年8月30日閲覧)
* 京都 月釜案内 改訂版 京都茶の湯マップ Vol.12 、[[淡交社]]、 2011年
* 昭和56年([[1981年]])8月4日発行、池田博和著、池田家譜』(1981年8月4日発行)
* 平成27年([[2015年]])2月8日発行、西坊家口伝集続々』(2015年2月8日発行)
 
== 関連項目 ==
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* [[赤穂事件|元禄赤穂事件]]
* [[大石神社]]
* [[岩屋寺 (京都市)|大石寺]]
* [[花岳寺]]
* [[来迎院 (京都市東山区)|来迎院]]
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{{DEFAULTSORT:おおいし よしお}}
[[Category:大石内蔵助|*]]
[[Category:赤穂浪士]]
[[Category:大石氏|よしお]]
219 ⟶ 263行目:
[[Category:1659年生]]
[[Category:1703年没]]
[[Category:切腹した人物]]