「大石良雄」の版間の差分
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元禄14年([[1701年]])2月4日、浅野長矩は江戸へ下向する[[東山天皇]]の勅使の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は[[高家肝煎]]・[[吉良義央]]であった。
3月14日、[[江戸城]]では勅旨に対して将軍が奉答する勅答の儀が執り行われるはずであった。しかし儀式が始まる直前、松之大廊下において長矩は吉良義央に対して刃傷におよんだ。尊皇心の厚い[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川綱吉]]は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩を大名としては異例の即日[[切腹]]に処し、さらに赤穂浅野家をお家断絶とした。一方、吉良には何の咎めもなかった。この時、大石不在の鉄砲洲にある赤穂藩邸に暴徒が押しかけ騒ぎが起きている<ref>中央義士会﹃忠臣蔵四十七義士全名鑑﹄より﹁大石内蔵助良雄﹂︵小池書院、2007年︶</ref>。 [[ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg|thumb|赤穂城 高麗門二層櫓(復元)]]
[[早水満尭]]と[[萱野重実]]の第一の急使、足軽飛脚による第二の急使、[[原元辰]]と[[大石信清]]の第三の急使、町飛脚による第四・第五・第六の急使、と次々に赤穂藩邸から国許[[赤穂市|赤穂]]へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日、家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われたが、藩士たちは[[江戸幕府|幕府]]の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて議論は紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・[[岡島常樹]]などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明け渡した上で長矩の弟・[[浅野長広]]を立てて御家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の[[藩札]]の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。しかし、﹁四分六分﹂の換金率︵額面の4割︶だと言われた備前商人は喧嘩になり、藩札交換して貰えなかったため[[岡山藩|池田家]]が肩代わりしている<ref>池田家文書﹁赤穂札之高都合三千貫目程之由﹂</ref>。 また、良雄は物頭の[[月岡治右衛門]]と[[多川九左衛門]]を江戸に派遣して、幕府収城目付・[[荒木政羽]]らに浅野家再興と吉良上野介処分を求めた嘆願書をとどけさせた{{Efn|しかしこの二人は任を誤り、江戸家老・[[安井彦右衛門]]に手渡し、美濃[[大垣藩]]主・[[戸田氏定]]の手紙を持って帰ってきた。}}。 153行目:
== 辞世の句 ==
{{Wikiquote|大石良雄}}
[[ファイル:Oishi_Yoshio_jijin_ato_0141.jpg|thumb|150px|大石良雄等自刃の跡[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]・[[高輪|二本榎通り]]<ref>港区高輪三丁目。[[細川氏|細川家]]邸跡より少し離れており、厳密には大石良雄が切腹した場所ではない︵[[大石良雄外十六人忠烈の跡|細川邸]]は高輪一丁目︶。</ref>]] 大石良雄の[[辞世|辞世の句]]一般には1として知られるが一部文献には2とされる。
#あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
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その一方、﹃[[土芥寇讎記]]﹄では浅野内匠頭に暗君という評価を下しているので、﹁(前略︶次に、家老の仕置も心もとない。若年の君主が色にふけるのを諫めないほどの﹁不忠の臣﹂の政道だからおぼつかない﹂と書かれている。名指しされている訳ではないが、その家老の中に大石良雄が含まれている可能性は高い。また、室鳩巣は﹃[[赤穂義人録]]﹄の中で大石の忠義や人格を高く評価する一方で、元々は温恭な君主である浅野内匠頭が刃傷事件を起こした一因として家臣がきちんと補佐して主君を正しい方向に導けなかったことにあると指摘し、特に家老である大石が﹁不学無術﹂であった責任は大きいとする<ref>川平敏文﹁室鳩巣﹃赤穂義人録﹄論-その微意と対外思想﹂︵井上泰至編﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年︶ ISBN 978-4-585-22152-4</ref>。 ==
[[File:OishiKuranosuke3.JPG|160px|thumb|大石内蔵助の銅像 (東京都港区・[[泉岳寺]])]]
* 身長は157cm程度だと言う。頭蓋骨の調査でこめかみの筋肉と下顎が発達していたことから庶民的な顔つきだったようである。目が細く、梅干しのような顔だったと赤穂義士たちからは評されている<ref>太田南畝﹁街談録﹂﹁半日閑話﹂など。</ref> 。肖像画・銅像などもそれを踏襲している。︵画像参照︶ == その他 ==
* 岡山などにある逸話では、実は良雄は、備前岡山藩池田家家老池田玄蕃の子で、はじめは池田久馬と名乗っていたが、大石良欽の養子入りをしたなどという話が残る。しかし良雄が切腹前に幕府に出した親類書には、﹁一、養父・実祖父 二十八年以前正月病死大石内蔵助 一、実父三十一年前九月病死大石権内﹂となっていることから、養子説の信憑性は低い。おそらく生母の出自にまつわって生じた俗説と考えられる。しかし地元の岡山などでは現在に至るまで広く信じられているようである。<!--近年出てきた新説に良雄は、[[富山藩]]の永代家老家の横山氏から大石氏に養子に入ったものではないか、というものもあるが、真相は定かではない。 横山氏から養子説は聞いたことがない説だが、このソースはなにか?池田玄蕃から養子説は知っているが、これの間違いではないのか?とりあえずソースの掲示がない間は池田にかえておく-->
== 遺品 ==
* 太刀則長二尺八寸金拵・備前清光 - [[泉岳寺]]住職・酬山の売却により現存しない。
== 赤穂浪士終焉の地 ==
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