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'''大石 良雄'''︵おおいし よしお/よしたか︶は、[[江戸時代]]前・中期の[[武士]]。[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]]の筆頭[[家老]]。通称は[[ == 概要 ==
[[播磨国|播磨]][[赤穂藩]][[浅野家]]の永代[[家老]]家に生まれる。祖父[[大石良欽]]の跡を継いで若くして家老となる<ref name="朝日"/>。
[[1701年]](元禄14年)3月14日に主君の赤穂藩主[[浅野長矩]]([[内匠頭]])が[[江戸城]]内において[[高家 (江戸時代)|高家]][[吉良義央]]([[上野介]])に遺恨ありとして殿中刃傷に及ぶも討ち漏らして即日切腹、赤穂藩は改易となった<ref name="朝日"/>。一方義央には何の咎めもなかった<ref name="朝日"/>。[[赤穂城]]明け渡しをめぐって浅野家中では開城、切腹、抵抗など議論があったが、最終的には良雄が家中の意見をまとめ、藩札や藩の借金の処置にも努め、4月19日に城を受城使[[脇坂安照]]に引き渡した<ref name="朝日"/>。
その後[[山城国]][[山科]]に移住。この時期には長矩の弟[[浅野長広]]︵大学︶による浅野家再興を働きかけつつ、それがかなわなかったときには主君長矩の恥辱をそそぐため義央を討つ計画を進めていたと見られる<ref name="朝日"/>。[[1702年]]︵元禄15年︶7月に長広の浅野本家預けが決まったことでお家再興の望みは消え、同月に良雄は京都円山に同志を集めて﹁吉良邸討入り﹂の意志を確認した<ref name="朝日"/>。 その後江戸へ下向。47人の赤穂浪士を率いて同年12月14日から15日に両国の向かいにあった本所一ツ目の吉良邸へ討ち入り、義央の首級をあげて[[泉岳寺]]の長矩の墓前に供えた<ref name="朝日"/>。その後赤穂浪士は[[江戸幕府|幕府]]の命により4家の大名家に分けてのお預かりとなり、良雄は[[熊本藩]]主[[細川綱利]]にお預かりとなり、翌[[1703年]]︵元禄16年︶2月4日に[[切腹]]となった。遺骸は長矩の墓のそばに葬られた<ref name="朝日"/>。 この事件は[[近松門左衛門]]の「[[碁盤太平記]]」や[[竹田出雲]]の「[[仮名手本忠臣蔵]]」などの[[浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]によって劇化されて国民的関心を集め、浪士たちは「義士」とたたえられた<ref name="朝日"/>。
== 出自 ==
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