「大石良雄」の版間の差分
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[[ファイル:Oishi_Yoshio_and_the_16_partisans_with_unswerving_loyalty.jpg|thumb|「[[大石良雄外十六人忠烈の跡]]」]]
良雄は、吉田兼亮・[[富森正因]]の2名を[[大目付]]・[[仙石久尚]]の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は[[肥後国|肥後]][[熊本藩]]主[[細川綱利]]の屋敷に預けられ、世話役に堀内伝右衛門が充てられた。長男良金は[[松平定直]]の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。 仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした[[荻生徂徠]]などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。
元禄16年︵[[1703年]]︶2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主・[[吉良義周]]︵吉良義央の養子︶の領地没収と[[信濃国|信州]][[流罪|配流]]の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府[[目付]]・荒木政羽であった ﹁義士は堀内のような一代で士分になった出来星でなく、身分のある上士に介錯させるべし﹂との細川綱利の意向により、良雄は細川譜代家臣・[[安場一平|安場久幸]]の介錯で切腹した。﹃江赤見聞記﹄では大石の介錯を仕損じ、二度斬りをしたとあるが、細川家の記録では確認できない。[[享年]]45。亡骸は主君・浅野長矩と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士。[[赤穂市|赤穂]]の[[花岳寺]]にも墓がある。 == 辞世の句 ==
{{Wikiquote|大石良雄}}
[[ファイル:Oishi_Yoshio_jijin_ato_0141.jpg|thumb|150px|大石良雄等自刃の跡[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]・[[高輪|二本榎通り]]<ref>港区高輪三丁目。[[細川氏|細川家]]邸跡より少し離れており、厳密には大石良雄が切腹した場所ではない︵[[大石良雄外十六人忠烈の跡|細川邸]]は高輪一丁目︶。</ref>]] 大石良雄の[[辞世|辞世の句]]一般には1または2として知られるが一部文献には
#あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
#あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』
しかしながら
* 武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原
▲* 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
これは大石が辞世を書いたものを、堀内伝右衛門が預かり自身の手になる現物が今に残っている<ref>「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)</ref>。[[石川九楊]]は大石の筆跡を「ふ」や「る」の止めが高く位置して、当時の武家の基本書法である御家流を踏まえている」との印象を語っている。
== 人物評 ==
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その一方、﹃[[土芥寇讎記]]﹄では浅野内匠頭に暗君という評価を下しているので、﹁(前略︶次に、家老の仕置も心もとない。若年の君主が色にふけるのを諫めないほどの﹁不忠の臣﹂の政道だからおぼつかない﹂と書かれている。名指しされている訳ではないが、その家老の中に大石良雄が含まれている可能性は高い。また、室鳩巣は﹃[[赤穂義人録]]﹄の中で大石の忠義や人格を高く評価する一方で、元々は温恭な君主である浅野内匠頭が刃傷事件を起こした一因として家臣がきちんと補佐して主君を正しい方向に導けなかったことにあると指摘し、特に家老である大石が﹁不学無術﹂であった責任は大きいとする<ref>川平敏文﹁室鳩巣﹃赤穂義人録﹄論-その微意と対外思想﹂︵井上泰至編﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年︶ ISBN 978-4-585-22152-4</ref>。 また、少し後の時代人である[[池大雅]]、[[本居宣長]]、[[神沢杜口]]、[[五井蘭洲]]、横井也有らは、大石についてよろしくない人物評を残している。 == 容姿・体躯 ==
[[File:OishiKuranosuke3.JPG|160px|thumb|大石内蔵助の銅像 (東京都港区・[[泉岳寺]])]]
* 身長は157cm程度だと言う。頭蓋骨の調査でこめかみの筋肉と下顎が発達していたことから庶民的な顔つきだったようである。目が細く、梅干しのような顔だったと赤穂義士たちからは評されている<ref>太田南畝﹁街談録﹂﹁半日閑話﹂など。</ref> 。肖像画・銅像などもそれを踏襲している。︵画像参照︶ * 『堀部武庸日記』では「皮膚病を病み、腕に腫物が出来ていた」と書かれている。
* 富森の証言によれば、小太りの体形にも拘らず寒がりだったという。お預かりでは炬燵・厚布団・羽織などを出すよう要求して堀内に断られている。『堀内伝右衛門覚書』には「よく頭から布団を被っていた」と綴られる。
== その他 ==
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