「大石良雄」の版間の差分
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御家再興は絶望的となったのを受けて、7月28日、良雄は堀部武庸なども呼んで円山会議を開催し、吉良義央を討つことを決定した。また8月には[[貝賀友信]]︵蔵奉行10両2石3人扶持︶、大高忠雄らに神文返し︵盟約の誓紙=神文の返還︶を実施し、死にたくない者は脱盟するようそれとなく促した。このときに奥野定良・進藤俊式・小山良師・[[岡本重之]]・[[長沢六郎右衛門]]・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら、お家再興優先派が続々と脱盟していった。 一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も[[垣見五郎兵衛]]と名乗って江戸へ下向した。﹃忠臣蔵﹄を題材にした物語では、﹁道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする[[赤穂浪士]]と察して、自分が偽物だと詫びる﹂という挿話が入るが、これは創作である。また大石は、城前寺にて曽我兄弟の墓を叩いて壊し、墓石の破片をお守りとして携帯した<ref>現存する﹁箱根五輪塔﹂︵俗称‥曽我兄弟の墓︶には﹁火輪﹂と﹁地輪﹂の部分に削られた破損がある︵神奈川県足柄下郡箱根町・城前寺︶</ref>。 良雄は10月26日には川崎平間村[[軽部五兵衛]]宅に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発した。さらに11月5日に良雄一行は江戸に入り、日本橋近くの石町三丁目の小山屋に住居を定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手した。また吉良義央在邸確実の日を知る必要もあり、<!--良雄旧知の国学者・[[荷田春満]]や大高忠雄が脇屋新兵衛として入門していた茶人・[[山田宗徧]]から--><!--中央義士会は﹁いずれも史料が全くなく、史実ではない﹂としている。-->12月14日に吉良邸で茶会がある情報を入手させた。良雄は確かな情報と判断し、討ち入りは同日夜と決する。討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領﹁人々心覚﹂が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに﹁吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君への御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない﹂ことを定めた。 12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、武林隆重がこれを討ち果たして、間光興が首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、奥平家により鉄砲洲の旧赤穂藩邸には寄れず、織田家や伊達家に通行を阻まれつつも迂回して浅野長矩の墓がある[[泉岳寺]]へ引き揚げた。粥を食べて上杉家と津軽家の襲撃に備えたあと、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。 === 四大名家お預かり ===
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* 身長は157cm程度だと言う。頭蓋骨の調査でこめかみの筋肉と下顎が発達していたことから庶民的な顔つきだったようである。目が細く、梅干しのような顔だったと赤穂義士たちからは評されている<ref>太田南畝﹁街談録﹂﹁半日閑話﹂など。</ref> 。肖像画・銅像などもそれを踏襲している。︵画像参照︶ * 『堀部武庸日記』では「皮膚病を病み、腕に[[毛嚢炎|腫物]](疔)が出来ていた」と書かれている<ref>六月十二日付の堀部宛て大石書状ほか(「堀部武庸日記」上)。</ref>。
* 富森の証言によれば、小太りの体形にも拘らず寒がりだったという。お預かりでは炬燵・厚布団・羽織などを出すよう要求して堀内に断られている<ref>「火鉢煙草盆など暖諸用具相渡すべく伺い出も有りしが、御指圖破れざるに付き見合せと取り計べし」(『肥後熊本藩 細川家記』)</ref>。『堀内伝右衛門覚書』には「よく頭から布団を被っていた」と綴られる。
== その他 ==
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