「大石良雄」の版間の差分
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その後[[山城国]][[山科]]に移住。この時期には長矩の弟[[浅野長広]]︵大学︶による浅野家再興を働きかけつつ、それがかなわなかったときには主君長矩の恥辱をそそぐため義央を討つ計画を進めていたと見られる<ref name="朝日"/>。[[1702年]]︵元禄15年︶7月に長広の浅野本家預けが決まったことでお家再興の望みは消え、同月に良雄は京都円山に同志を集めて﹁吉良邸討入り﹂の意志を確認した<ref name="朝日"/>。 その後江戸へ下向。47人の赤穂浪士を率いて同年12月14日から15日に両国の向かいにあった本所一ツ目の吉良邸へ討ち入り、[[武林隆重]]が吉良を斬殺、義央の首級をあげて[[泉岳寺]]の長矩の墓前に供えた<ref name="朝日"/>。その後赤穂浪士は[[江戸幕府|幕府]]の命により4家の大名家に分けてのお預かりとなり、良雄は[[熊本藩]]主[[細川綱利]]に この事件は<!--[[近松門左衛門]]の﹁[[碁盤太平記]]﹂や--><!--当該演目は即刻中止が命じられ広まらなかった。今日でも話の詳細が知られていない。-->[[竹田出雲]]の﹁[[仮名手本忠臣蔵]]﹂などの[[浄瑠璃]]や[[歌舞伎]]によって劇化されてから国民的関心を集めた<ref name="朝日"/>。[[1912年]]︵大正元年︶には[[兵庫県]][[赤穂市]]に大石良雄以下四十七士を主神とする[[大石神社]]が竣工すると<ref name="世界大百科事典">{{Kotobank|1=大石神社|2=世界大百科事典 第2版}}</ref>、浪士たちは﹁義士﹂とたたえられた<ref name="朝日"/>。 189行目:
* 「良雄人となり和易樸矜飾を喜ばず、国老に任ずといえども事に於いて預ること鮮し。しかも内実豪潔にして忠概を存じ最も族人に厚し。」[[三宅観瀾]](同時代の水戸学者)
物静かで飾り気のない性格だが、
役立たずの「'''昼行燈'''」という呼称は人口に膾炙しており、大石の人物像を語るのに多用される<ref>呉陵軒可有ら(編)『誹風柳多留』など(『新版 日本架空伝承人名事典』より「大石内蔵助」田原嗣郎・記)</ref>。
その一方、﹃[[土芥寇讎記]]﹄では浅野内匠頭に暗君という評価を下しているので、﹁(前略︶次に、家老の仕置も心もとない。若年の君主が色にふけるのを諫めないほどの﹁不忠の臣﹂の政道だからおぼつかない﹂と書かれている。名指しされている訳ではないが、その家老の中に大石良雄が含まれている可能性は高い。また、室鳩巣は﹃[[赤穂義人録]]﹄の中で大石の忠義や人格を高く評価する一方で、元々は温恭な君主である浅野内匠頭が刃傷事件を起こした一因として家臣がきちんと補佐して主君を正しい方向に導けなかったことにあると指摘し、特に家老である大石が﹁不学無術﹂であった責任は大きいとする<ref>川平敏文﹁室鳩巣﹃赤穂義人録﹄論-その微意と対外思想﹂︵井上泰至編﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年︶ ISBN 978-4-585-22152-4</ref>。 |