「天下」の版間の差分
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=== ベトナム ===
[[ベトナム]]における天下の概念は、13世紀の[[元寇]]を契機として民族意識が昂揚するとともに出現した。その天下概念は当初[[陳朝]]にいたるベトナム王朝を[[南越国]]の後継と位置づけ、その領域であった中国の[[嶺南 (中国)|嶺南]]地方からベトナム北部に至る地域に固有の天下概念を設定するものであった。ところが18世紀末の[[黎朝]]末期のころになると、南越をベトナム王朝の正統とする史観に批判が加えられ、[[阮朝]]の時代には自称国号も「大南」となり「越」字が消滅する。このことは当時のヨーロッパ人が「
=== 北方アジアの遊牧民 ===
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ところが[[北宋|宋]]の時代には、北方に[[遼]]・[[金 (王朝)|金]]の強大な王朝が出現し、宋は圧迫されて北方の帝国と国家同士の擬制的な血縁関係︵たとえば宋を兄、遼を弟とするような外交関係︶を結んだ。この時代の高麗なども両王朝に両属する形を取り、天下は全く二分されていた。空前絶後の支配領域をもったモンゴル帝国、[[元 (王朝)|大元ウルス]]は再び中国を統一したが、その統治においても、政治上南人︵元[[南宋]]の民、[[江南]]の人士︶と漢人︵元金の民、[[華北]]の人士︶は区別されていた。このことは天下の政治的分裂が元の統治下において解消されなかったことを示している<ref>ただし元朝自体の﹁天下﹂概念は華夷秩序に基づく中国の﹁天下﹂概念とは異なるものであった。詳しくは後述。</ref>。その後明王朝は秦漢帝国の理念に近い形で﹁中国﹂を統合するが、その天下はほぼ明王朝の支配領域と同義であり、世界大の広がりを持ったものではなかった。 [[ファイル:Tenka Qing.png|right|300px|thumb|清代の﹁天下﹂<br />図は清代の華夷思想に基づくもの。前掲の漢代のものと比べると、現実の政治世界に影響されて多様化しているが、同心円構造は変わらない。﹁互市国﹂とは政治的関係はほとんどなく、交易関係があるだけの国。﹁朝貢国﹂は清皇帝と君臣関係を結んだ君主の国で、定期的に朝貢した。漢代とは異なり、清代の﹁朝貢国﹂の君主は、清皇帝の冊封を受けて臣属する形態をとるのが一般的である。﹁藩部﹂は[[理藩院]]によって管轄される異民族の支配領域。﹁ 明末に朱子学に対する批判が起こると、﹁修身斉家治国平天下﹂︵﹃[[大学 (書物)|大学]]﹄︶という儒教思想にも変化が起こった。明末清初の[[王夫之]]は﹃大学﹄のあげる﹁平天下﹂はつまるところ国を治めるための思想︵すなわち﹁治国﹂︶を述べるに過ぎず、天下の次元には通用しないものであると述べて、これを尊重する朱子学を批判した。一方明王朝の滅亡により本来的には夷狄であるはずの清王朝が中国を支配するという現実世界での華夷の逆転も﹁天下﹂概念に大きく影響した。同時代の[[顧炎武]]は明の滅亡は﹁亡国﹂であるが﹁亡天下﹂ではなく、夷狄の王朝である清が皇帝となっても、中華の文明が維持される限り天下は継続するものであるという考えを述べた。このように﹁天下﹂概念に対する検討・批判が加えられたが、このころの﹁天下﹂はいまだに中華帝国を中心として捉えられている。 47行目:
=== 日本における「天下」 ===
前述したように、日本︵倭国︶における﹁天下﹂概念の成立は その後、[[8世紀]]初頭における律令制の移入と時を同じくして、中国風の天下概念が導入されることとなった。この場合の天下はどちらかといえば実際の律令国家の支配が及んだ範囲という意味で、今日の日本列島における[[本州]]・[[四国]]・[[九州]]などにあてはまると思われるが、決して律令国家の直接支配の及んだ地域という意味ではなく、 [[ファイル:Toyotomihideyoshi.jpg|300px|right|thumb|[[豊臣秀吉]]<br />日本の「天下」を統一した豊臣秀吉は、「唐(明王朝)」「南蛮国(ヨーロッパ諸国)」をも支配下におき、「天下」の拡大を望んで朝鮮に出兵した([[文禄・慶長の役]])]]
[[源頼朝]]は幕府の創立にあたり、﹁天下の草創﹂と称したと[[九条兼実]]の日記﹃[[玉葉]]﹄に見えている。この天下概念は上述の律令制における天下概念をふまえながらも、全く新しい国家・法制・秩序の場として創出されるものと観念されている。しかし頼朝がこのような意識をもっていようと、この時期の天下概念はいまだ現実の天皇の王朝支配を克服しきれておらず、天下の主宰者としては天皇︵あるいは天皇家の家督者としての[[治天の君]]︶が期待されている事例が多い。また[[義堂周信]]の日記﹃空華日用工夫集﹄によれば、[[足利義満]]は義堂との議論において、しばしば自身の政の対象として﹁天下﹂﹁天下之人﹂を問題としており、このことは[[室町時代]]のころには徐々に将軍こそが天下の主宰者であるという意識が生まれてきていたとも考えられている。ただし、義満については自身を﹁日本国王=治天﹂として位置づけているという研究もあり、後代に明確化される﹁天下人﹂概念に比べると、いまだに過渡期であったと見ることもできる。︵[[治天の君]]、[[承久の乱]]、[[建武の新政]]、﹃[[神皇正統記]]﹄参照︶ [[室町幕府]]の支配が衰えると、このような天下概念を支える公権力が衰え、[[自力救済]]を原則とする これに伴って、このような新しい秩序を主宰する主体としての統一者として﹁天下人﹂概念が登場し、この頃には﹁天下﹂は天皇王権を擁する室町将軍が管轄する京都とその周辺地域を意味し、室町将軍は﹁天下﹂領域を支配する地域領主としての役割と、戦国大名などの地方勢力の紛争などを調停する役割を担った。 各地に成立した [[江戸幕府]]は﹁天下人=将軍﹂、﹁天下の公儀=幕府法﹂と位置づけ、そのもとに﹁地方的な公儀=藩法﹂として大きく二元的な法社会を形成した。このようにして成立した[[幕藩体制|幕藩制]]国家は、対外関係を華夷秩序に擬制して編成し、具体的には海禁政策︵[[鎖国]]︶をとった。このことは日本における﹁天下﹂概念をますます固有の地理概念である日本列島に近づけたと考えられる。 === 朝鮮における「天下」 ===
朝鮮における﹁天下﹂概念はまず高句麗において成立した。高句麗は自国を中華とし、周辺諸民族を夷狄視する小中華的天下観を持っていたが、それは同時に天や河に対する独自の信仰形式を内包していた。[[広開土王碑]]には﹁ 高麗時代には仏教・道教・シャーマニズムをよりどころとしながらも、朝鮮独自の天下概念を展開する[[檀君朝鮮|壇君神話]]が成立した。新羅は唐の太宗に国内で独自の年号を用いていることを咎められて以降唐の正朔を守っていたが、高麗前期には中国王朝の年号と高麗独自の年号を交互に使用していた。国内では王は﹁[[wikt:朕|朕]]﹂と自称し、死後は廟号を贈られ、王の命令を﹁制﹂﹁詔﹂などと記していたが、これは中国の華夷思想によると中国王朝の皇帝にしか許されないことであった。さらに当時の宮廷の頌歌では﹁海東天子﹂や﹁南蛮北狄自ら来朝す﹂といった表現があり、当時の金石文には﹁皇帝陛下詔して曰く﹂と刻しているもの<ref>﹃高達寺元宗大師恵真塔﹄より。﹁皇帝陛下﹂とは具体的には光宗を指す。</ref>もある。天子の特権である[[皇帝祭祀|祀天]]も行われ、都であった開城は﹁皇都﹂と呼ばれた。 72行目:
=== ベトナムにおける「天下」 ===
前述したように、ベトナムにおける﹁天下﹂概念の成立は13世紀にモンゴル軍撃退後の国威発揚に伴って顕著に確認される。[[陳朝]]で成立した﹃{{仮リンク|大越史記|vi|Đại Việt sử ký|zh|大越史記|en|Đại Việt sử ký}}﹄︵{{lang-vi-short|Đại Việt sử ký}}︶においては、秦漢時代に今日の 15世紀末頃からこのような﹁天下﹂概念に若干の変化が起こった。ベトナムの正史において南越国が徐々に本紀から外され、ベトナム独自の神話や伝承に基づく涇陽王・貉龍君・雄王などが正史における地位を向上させた。それとともに中国領内にある嶺南地方をベトナムと一体として考える思想が衰退し、18世紀末には正史において南越国は正統から外された。このころ現実のベトナムは黎朝の名目的皇帝のもとに北に﹁トンキン﹂と呼ばれた鄭氏政権、南に﹁コーチシナ﹂と呼ばれた阮氏政権が実質的に支配を二分している状況にあった。このころの﹁天下﹂は黎朝の皇帝の下に成立しているトンキン・コーチシナを中心とした世界であったと考えられている。19世紀に成立した阮朝では、中国向けには﹁越南﹂を名乗り<ref>阮朝は最初清に﹁南越﹂号を求めたが、清は﹁越南﹂という国号を与えた。﹁南越﹂という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。</ref>ながらも自称国号においては﹁大南﹂を称し、[[中華世界]]とは区別された独自の領域としてのベトナム世界が規定されるに至った。 78行目:
=== 北方アジアの遊牧民における「天下」 ===
[[ファイル:Genghis Khan.jpg|200px|right|thumb|チンギス・ハーン<br />モンゴルの大ハーンの命令文には、しばしば「とこしえの天の力において(monka denri-yin kucun-dur)」という表現が見られる]]
アジアの遊牧民における天下に類似する概念の歴史は、 モンゴル帝国の時代には歴代大ハーンの外交文書のなかで、テングリの名の下に地上の支配を託された者として大ハーンを位置づける声明が確認される。﹁耳の聞きうる限りの土地、馬でたどりつきうる限りの土地﹂﹁日出ずるところより日没するところまで﹂大ハーンの支配に服することが表明されており、そこには基本的に地理的限定はない。最近の研究ではそもそもモンゴル帝国の国号としての﹁モンゴル・ウルス﹂そのものが本来的に﹁モンゴルの人々の集合体﹂というような意味合いで、地理的概念を含むものではないと指摘されている。アジアの遊牧民の地上世界観にも、一定の秩序原理に基づき地理的限定を含まないという意味で﹁天下﹂概念と類似した構造を見ることができる。 また遊牧民の世界観の開放的な性質も指摘されている。それは == 参考文献 ==
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