「天命」の版間の差分
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現代人が天命という言葉の意味を理解するには、まず﹁命﹂という文字・言葉の意味を理解する必要がある。﹁命﹂という文字は、元来は﹁令﹂と書かれたのだが、これはもともと[[甲骨文]]や[[金文]]資料においてはとても重い意味で使用されており、上に立つ者が自分の持つ権限の一部を下の者に委譲して、自分に代わって実行するようにと命令する行為と、その際に言われる言葉が﹁命﹂と呼ばれたのである<ref name='philo' />。 天から命を受けている、とする思想は現代では﹁[[受命思想]]﹂とも呼ばれるが、この思想の成立は[[殷]]から[[周]]︵紀元前1046年ごろ-紀元前256年︶への王朝交代と結びつけて考えられている<ref>三田村泰助﹃生活の世界歴史(2) 黄土を拓いた人びと﹄河出文庫、河出書房新社、1991年</ref>。﹃黄土を拓いた人びと﹄の著者・[[三田村泰助]]によると、 西周時代には、政治的な側面が強調されつつ、天命という思想が確立した<ref name='philo' />。それは以下のようなものである。
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:'''[[天帝]]は、周王を自分の元子(=[[長男]])として認知し、その周王に天命を降ろしてこの地上世界の統治をゆだねた'''<ref name='philo' />。
周王が[[天下]]を統治する権限は天からの命令を背景にしているとされたのである。また、天から元子として認知されているのだから周王は﹁[[天子]]﹂と名乗ることができた<ref name='philo' />。そして周王は、天から授かったこの命、統治の権限を小さく分けて臣下たちに与えた<ref name='philo' />。すなわち職務として与えることで、実際的な統治をおこなわせたのである<ref name='philo' />。このように、西周では、国家は上から下へと命が階層的に分与される構造によって成り立つようになった<ref name='philo' />。西周の後半の時期に遺された[[冊命]]金文にも、周王が臣下たちに︽命︾を分与するときの ただし、元子として天命を受けた者であっても、その者が[[徳]]を失ってしまった時は、天帝は元子として認知しなくなり、別の有徳者を探して、その者に新しく天命を降ろす、とされた<ref name='philo' />。﹁命が革まる︵あらたまる︶﹂ということから、革命と言われるようになった<ref name='philo' />。これが[[革命]](かくめい︶という表現に込められている思想である。 上記のように、もともと天命という思想は、 なお﹃[[論語]]﹄には[[孔子]]︵紀元前551年‐紀元前479年︶の言葉として﹁五十而知天命﹂︵五十にして天命を知る︶という表現があるが、上述のように天命は使命と運命の両方の意味で用いられているので、論語のこの表現を巡って、︽運命︾や︽宿命︾︵自分にはこれだけしかできない︶ということを意味しているのか、それとも︽使命︾︵自分は人生でこれだけはしなければならない︶を意味しているのかで[[解釈]]が分かれているという<ref name="sdhyakka" />。 26行目:
== その他 ==
*[[イスラム教]]における[[六信]]の一つ、[[定命 (イスラム教)|定命]](カダル)の訳語として用いられることもある{{要出典|date=2011年2月}}。
*[[メソポタミア神話]]で怪物[[ズー]]が
== 参考文献 ==
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