「媞子内親王」の版間の差分
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最愛の中宮賢子との間に生まれ、母に似て美しかったという媞子を、白河天皇は殊のほか鍾愛した︵﹃[[中右記]]﹄︶。媞子が斎宮に卜定された際にも野宮まで[[行幸]]しているが、天皇の野宮行幸はこれが唯一の例である。斎宮を退下すると今度は堀河天皇の准母とし、さらにそれを根拠に中宮に立てた。これは[[醍醐天皇]]養母として[[皇太夫人]]になった[[女御]][[藤原温子]]の例に倣うものとしているが、天皇の同母姉を后位に立てるのは前代未聞のことであり、廷臣を唖然とさせること並大抵ではなかった。何れにしてもこの媞子の立后が先例となり、天皇と配偶関係がない内親王が皇后に立つという'''准母立后'''の伝統が始まることになる。なお准母立后で中宮に冊立されたのはこの媞子ただ一人であり、その他の准母は全て皇后に冊立されていることからも、彼女がいかに特別な存在であったが見て取れる。媞子はさらに院号宣言をも蒙り郁芳門院と号した。 ﹃[[中右記]]﹄はまた媞子内親王のことを﹁身体美麗、風容甚盛、性もとより寛仁、接心好施﹂、つまり容姿が麗しく優美であり、施しを好む寛容な心優しい女性だと記している。また[[田楽]]を大変好み、しばしば[[御所]]で見物を楽しんだ。白河院は[[行幸|御幸]]の際には必ず内親王と同車し、病がちな内親王のためにしばしば[[寺社]]に[[参篭]]して、その息災を祈り絶えず[[祈祷]]させた。内親王が21歳で早世すると、白河院は悲嘆のあまり2日後に[[出家]]した。その後院と内親王の御所であった六条殿に[[御堂]]が建立され、院はそこへ昔日と変わらぬままに女房達を仕えさせたという︵﹃[[今鏡]]﹄︶。内親王の御所に仕えた[[女房]]に[[歌人]]の[[郁芳門院安芸]]がいる。六条御堂は京都・[[万寿寺]]の前身にあたる。 [[陵墓]]は母賢子と同じ、[[上醍醐陵]]([[京都府]][[京都市]][[伏見区]]醍醐醍醐山[[醍醐寺]]内)。
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[[Category:白河天皇の子女]]
[[Category:平安時代の女性皇族]]
[[Category:11世紀日本の女性皇族]]
[[Category:斎宮]]
[[Category:女院]]
[[Category:11世紀の聖職者]]
[[Category:1076年生]]
[[Category:1096年没]]
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