「媞子内親王」の版間の差分
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[[承暦]]2年︵1078年︶3月、准三后となる。同年8月、斎宮卜定。同3年︵1079年︶、伊勢に下向。[[応徳]]元年︵1084年︶、母賢子崩御により退下。同年12月帰京。︵1086年︶父白河天皇退位、弟堀河天皇即位。[[寛治]]元年︵1087年︶7月、白河院と対面。同年12月、堀河天皇准母として入内。同5年︵1091年︶、中宮に冊立。同7年︵1093年︶[[女院]]となり、郁芳門院と称する。嘉保3年︵1096年︶崩御。享年21。 最愛の中宮賢子との間に生まれた第一皇女で、また母に似ていたと言われる媞子内親王を、白河天皇は殊のほか鍾愛した。内親王が斎宮に卜定された際にも野宮まで行幸し︵天皇の野宮行幸はこの白河天皇の例のみである︶、斎宮退下の後には堀河天皇の后に立てた。これは[[醍醐天皇]]養母として皇太夫人になった[[女御]][[藤原温子]]の例に倣うとしているものの、天皇の同母姉妹で婚姻関係にな ﹃[[中右記]]﹄によれば、白河院の第一最愛の娘媞子内親王は﹁身体美麗、風容甚盛、性もとより寛仁、接心好施﹂、即ち容姿麗しく優美であり、施しを好む寛容な心優しい女性であったという。また[[田楽]]を大変好み、しばしば御所で見物を楽しんだ。白河院は御幸の際には必ず内親王と同車し、病がちな内親王のためにしばしば寺社に参篭して、その息災を祈り絶えず祈祷をさせた。しかし内親王は21歳の若さで早世、最愛の娘を亡くした白河院は悲嘆のあまり2日後に出家した。その後院と内親王の御所であった六条殿に御堂が建立され、院はそこへ昔日と変わらぬままに女房達を仕えさせたという。︵﹃[[今鏡]]﹄︶ なお、内親王の御所に仕えた女房に歌人の[[郁芳門院安芸]]がいる。 |