「安井政章」の版間の差分
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== 略歴 ==
[[天明]]7年︵[[1787年]]︶7月、川越藩士・渡辺玄郭の三男として川越に生まれる。成人して藩士・安井久道の養子となり安井姓となる。通称は、与左衛門︵または珍平︶。幼くして儒学を学ぶと共に、[[川越藩]]の公式流派である槍術の[[宝蔵院流]]の師範となり、藩主・[[松平斉典]]にも指南、頭角を現し[[郡奉行]]に昇進した︵200石︶。江戸時代中期の川越藩は、農村の困窮が著しく離農が増加、藩主・斉典は水田を建て直すために治水事業に傾注、郡奉行の政章に土地の改良を託し、政章は藩領の治水を一手に引き受けた。多くの善政で窮民を救ったことで知られる。 嘉永6年(1853年)6月19日、病のため齢67歳で没す。墓は、しだれ桜で有名な川越市末広町の曹洞宗雲興山[[榮林寺]]にある(川越市指定史跡)。
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政章は、川越藩の陣屋︵[[前橋陣屋]]︶が置かれていた川越藩の分領・[[上野国]][[前橋藩|前橋]]でも郡代奉行を務めた。前橋では[[利根川]]の氾濫で[[前橋城]]が崩壊、城を失い廃藩となっていた。[[天保]]2年︵[[1831年]]︶、政章は荒廃していた領地を守るため利根川の流路改良を行った。その結果、広大な良田を得た。治水のため[[赤城山]]麓には松苗の植林を行った。また、ここでも飢饉の折には藩の米蔵を開き領民に与えた。政章の尽力で利根川の氾濫の影響が減り、前橋城は[[慶応]]3年︵[[1867年]]︶、再建された。[[群馬県]][[前橋市]]大手町には、政章の仁徳を称える顕彰碑がある。 {{
{{DEFAULTSORT:やすい まさあき}}
[[Category:武蔵国の人物]]
[[Category:江戸時代の
[[Category:川越市の歴史]]
[[Category:前橋市の歴史]]
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