安宅冬康
戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の三男。淡路水軍を統率し、三好政権を支えた。摂津守。
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 享禄元年(1528年) |
死没 | 永禄7年5月9日(1564年6月17日) |
別名 | 神太郎(幼名)。宗繁・一舟軒・鴨冬(法号) |
官位 | 摂津守 |
氏族 | 三好氏→安宅氏 |
父母 | 父:三好元長、養父:安宅治興 |
兄弟 | 三好長慶、三好義賢、安宅冬康 十河一存、野口冬長 |
子 | 安宅信康、安宅清康 |
生涯
享禄元年︵1528年︶、細川晴元の重臣・三好元長の3男として生まれる。
安宅氏は淡路を中心にして活動する水軍衆であるが、冬康は兄・長慶の命令によってこの安宅氏の当主・安宅治興の養子となってその家督を継承した。
兄に従って各地を転戦し、大阪湾の制圧や永禄5年︵1562年︶3月の畠山高政との戦い(久米田の戦い)などにいずれも従軍した。高政との戦いでは敗れて次兄の三好義賢が戦死したが、冬康は阿波に撤退して再起を図り、6月には再び高政と河内で戦い、勝利している。
永禄4年︵1561年︶に弟の十河一存、永禄5年︵1562年︶に次兄の三好義賢、永禄6年︵1563年︶に長慶の嫡男・三好義興が死去すると、三好一族の生き残りとして長兄・長慶をよく補佐した。
しかし永禄7年︵1564年︶5月9日、兄・長慶の居城・飯盛山城に呼び出されて自害させられてしまった。享年37。後を子の安宅信康が継いだ。
人物・逸話
●冬康は平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返していた兄・長慶に対し、﹁鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする﹂と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている。こうした性格であるため長慶も特に目を掛けていたと言われ、兄や弟の死後は三好氏の柱石として重要な位置にあった。
●冬康の死だけは確実に松永久秀の陰謀であるといわれている。冬康の無実を長慶が知ったのは殺害後のことで、長慶はあまりのことに精神を病み︵うつ病であったといわれる︶、そのまま後を追うように7月に病没した。冬康の死と長慶の死により三好氏は事実上崩壊し、滅亡へと向かってゆくこととなった。
●織田信長をはじめとする戦国大名が建造した安宅船の語源は、冬康の水軍であるとも言われている。
●冬康は和歌や書に優れた文化人でもあり、数々の和歌を後世に残している。代表的な歌は、﹁古を 記せる文の 後もうし さらずばくだる 世ともしらじを﹂である。この歌には冬康の温和な性格がよく現れている。